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七月二三日



 快晴。

 一点の曇りもない真っ青な空が広がっている。昨日の雨のせいで落ちた凌霄花の花が、花壇の周りにぽつりぽつりと転がっている。


 気温が上がり始める前に教室へやってきた英理と美也は、例の問題集を開いていた。

 互いに口数は少ない。


 昨日あのあと保健室から戻った美也に対して、言葉をかける者はなかった。


『今度は安城だ』


 それは、単にオカタサマに憑かれたことを指すばかりでなく、教室の中の負の感情を向けられるべきスケープゴート、水面に押しやる壁役の魚が美也になったことを指していたのだ。


「…………」


 それでも美也は昨日と変わらず、静かにペンを走らせている。解く問い一つ、記す文字の一つ一つが、自分を目標に近付けてくれると固く信じているのだ。

 周りに流されることなく、ひたむきに己の夢と信念を貫こうとする美也を、英理は心から尊敬している。

 美也の何事にも真摯な姿勢は好ましく思うと同時に、学ぶことばかりだと感じていた。


 それでも、本当は傷ついているだろうに。

 問題集をのぞくフリで、美也の横顔を盗み見る。

 陶磁器のように白くなめらかなその頬は、わずかに青みがかっていた。


「明日から夏休みだね」


 誰よりもどこまでも真っ直ぐな美也が、その真っ直ぐさ故にいつかポキリと折れてしまいそうな気がして、英理は何気なく口を開く。


「そうね。といっても、毎日部活だけどね」


「そうだね」


 ──そう、だけど。

 でも夏休みさえ始まってしまえば、しばらく教室に足を踏み入れなくて済む。

 この狂気に満ちた異常な空間から、美也を逃すことができる。

 英理は半ば祈るような気持ちで、今日という日の終わりを待ちわびた。




「おはよう」


 誰かがやってくるたびに、二人は声をかけた。

 けれど級友達は一様に、美也を見ておどおどと目を逸らすか、あからさまに英理にだけ挨拶を返し、そそくさとカバンを置きに行ってしまう。

 美也はそのたびに一瞬だけ悲しげに目を伏せて、それでもまた誰かが来るとめげずに声をかけ続ける。

 そのうちに英理の方が居たたまれなくなって、後半は美也を質問責めにすることで、その目と耳を塞いだ。


 予鈴が鳴ると、美也は立ち上がって周りを見回す。学級委員である美也は、終業式に参加するため級友達を廊下に並べなければならない。


「今日は欠席が多いわね」


 釣られて見ると、明らかに級友の数が少ない。

 昨日マリエとサチの錯乱した姿を目の当たりにして、すっかり参ってしまった者もいるのだろう。そう思ったが、美也の手前口にできなかった。


「あら、綸は?」


 後半美也をノートに縛りつけるため苦心していた英理は、綸が来ないことにようやく気がついた。携帯を取り出し確認するも、メールも着信も来ていない。


「寝坊かな?」


「バスの中かもしれないし、メールしてみる」


 美也が素早くメールを打つと、すぐに返信があった。


『今ちょうどメール打ってた! 狭い道で事故渋滞、全然動かないんだけど!』


「あらら。気をつけてね、と……」


 返信しスマフォをカバンにしまうと、美也は声を張り上げる。


「予鈴が鳴ったから、そろそろ体育館に行く準備をして廊下へ出ましょ」


 けれど誰も動かない。互いに顔を見合わせ、美也の視線から逃れるように身を縮める。

 戸惑う美也の援護をしようと、


「ほら、うちのクラスだけ遅れるわけには行かないよ」


 英理も声かけをしたが、状況は変わらない。

 すると、


「ほらぁ皆、他のクラスはもう廊下に出てるわよ?」


 入り口に立つひな子が呼びかけた。

 いつの間に来たんだろう。

 普段は早く登校してくるひな子だが、少なくとも二人が勉強に集中する前には来ていなかったのに。

 そのことと、常にどこか気怠げなひな子が率先して動いていることに驚いていると、ひな子の淡いリップを塗った唇が三日月のように弧を描く。


「大袈裟ね皆。並んで歩くくらいじゃ、オカタサマが移ったりしないわ」


 それを聞き、たちまち腰を上げ始める級友達。


「は……」


 ひな子の言葉一つで手のひらを返す彼らに茫然としていると、美也が袖を引いてきた。


「……皆が移動し始めてくれてなにより。私達も行こう?」


「……うん、だけど」


「いいの。先生に綸が遅れること、早く伝えなくちゃ」


「美也」


 美也は振り返らず、ぐいぐいと英理の手を引き廊下へ向かう。

 真正面に据えられた瞳は、ただ目の前のなすべきことのみを見つめ、それ以外のことを視界にも思考にも入れまいと拒んでいるようだった。




 終業式が終わり、蒸し風呂と化した体育館から解放され教室に戻ると、綸がひとり机に突っ伏していた。


「綸、大丈夫だった?」


「なんだ、着いたなら体育館に来ればよかったのに」


 その肩を叩いた瞬間、二人は綸の異変に気付いた。

 微かに漏れる嗚咽、震える背。


「綸? ……綸、どうしたの?」


 綸は突っ伏したまま、掠れがちになにかを呟く。


「え、なに?」


 またなにかしゃべったが、か細い声が腕と机に阻まれ聞き取れない。


「ごめん綸、聞こえない。もう一度……」


 すると綸はガバッと顔を上げると、対面にいる英理の肩を掴み叫んだ。


「どうしよ……どうしよォ! オカタサマの呪いは本物だったんだ! あたし……あたし、あの(ヒキ)ジジィ殺しちゃったよォ!」


 迸る絶叫に、教室内の視線が集中する。


「ちょっと待って、どういうことなの綸?」


「汗凄いよ。ほら、これ使って、少し落ち着きなよ」


 英理がタオルを差し出すと、綸は玉のように浮いた額の汗を拭い、そのまま口許を覆った。

 呼吸が荒い。拭い忘れた目の縁が、汗と涙で光っている。


「穏やかじゃないわね。どうしたの綸?」


 ただならぬ様子の幼なじみを見かねて、ひな子がやってきた。

 昨日袂を分かったばかりの二人だったが、綸もそんなことを気にしていられないほど取り乱していた。

 美也に深呼吸を促され深く息を吐くと、綸は手の中のタオルを握りしめる。


「……こんなつもりじゃ……こんなつもりじゃなかったんだよ、ただちょっと腹いせのつもりで……」


「なにがあったの?」


「……一緒のバスに乗ってくる(ヒキ)ジジィの話、何度かしたことあったじゃん」


 朝練のない日にバスに乗ると、途中のバス停から乗ってくる五〇代の男がいるという。

 ベルトの上に乗った腹、季節を問わず脂ぎった顔、ニキビ痕で凹凸の激しい頬。その見た目から綸はその男を『蟇ジジィ』と呼んでいた。

 あんまりなあだ名だが、あんまりなのは男の行為だった。


 車内に綸を見つけると、必ず綸の真横か背後に陣取って、車体が揺れた拍子に身体を触ったり押しつけてくるという。

 たびたびやられる綸自身は故意だとわかるものの、その一つ一つを挙げれば偶然と言い切られかねない微妙なものばかり。

 なので綸は捕まえあぐねて、思い切り足を踏んづけたり、背広の背中にファンシーなシールをこっそり貼ってやったりと、細々した仕返しで対抗していた。


 痴漢行為に対する恨み節と、してやった武勇伝とがワンセットになった話を、英理と美也は幾度も綸から聞かされていた。おそらくひな子もだろう。


「……こないだの海の日の練習のあとにさ……(ゆず)に泣きつかれたんだよ」


 柚は綸を慕うバレー部の後輩だ。


「なんか、下級生の間でもオカタサマ流行ってるらしくて……他から移されても煩わしいってンで、仲間内で三回ずつ移しあいっこしてたらしいんだけど、最後に柚に回ってきて、『誰にも移せなくなった、信じてないけど気味が悪い』ってさ。それで……」


 姉御肌の綸は、柚に憑いたオカタサマを肩代わりした。


 その後乗った帰りのバスの中に、蟇ジジィがいたのだという。

 後部に立っていた蟇ジジィは、綸が乗り込むといそいそと寄ってきて、汗で肌に貼りついた制服を舐めるように眺め回した。

 そこで思いついたのが、そいつにオカタサマを移すことだったと。


「……あたし自身信じてなかったし……マリエの彼氏が死ぬ前だったしさ……ほんの憂さ晴らしのつもりだったんだよ。なのに……」


 それから三日後の今朝。

 いつも蟇ジジィが乗ってくるバス停が近付き、憂鬱な気分で行く先を睨んでいると、直前でバスが停止した。

 何事かと見れば、数台前の車の運転手が降りてきて、慌てふためいた様子でどこかに電話をかけている。

 バスの運転手も降りて様子を見に行き、戻ってくると、前方で人身事故がありしばらく動けそうもないと告げた。


 何人かの大人達は時計を気にしつつ降りて行ったが、綸はそのまま車内に残った。

 綸のことだから、運転席近くで食い入るように現場の方を見ていたに違いない。美也にメールをしたのもこの時だ。

 やがて救急車が到着し、被害者は乗せられたようだったが、綸の位置からは全く見えなかった。

 ただ、駆けつけた救急隊員が重々しく首を横に振ったこと、そして被害者の物と思われるカバンを持って救急車に乗り込むのが見えたと。


「……そのカバン……蟇ジジィが持ってるカバンと同じだった……きっとあいつが轢かれたんだ、あたしがオカタサマ移したから……っ」


 綸は手の中のタオルを固く握りしめ、滝のような汗をかきながらガチガチと歯を鳴らす。


「そんな……でも、運ばれたのがその人だってハッキリ見たわけじゃないんでしょ?」


 慰めるように美也が言うも、


「でもっ……その後あの蟇ジジィ乗ってこなかった、いつものバス停に居なかったんだよ!」


「大人だもの、遅刻するわけにはいかないし、タクシーを呼んで行ったのかもしれないじゃない」


「そうだよ。仮にそいつだったとして、綸のせいなんかじゃないさ。オカタサマのことは関係ない、たまたまだよ」


 そう宥めつつも、英理は考えていた。


 ──こう何度も偶然が続くものだろうか。


 マリエの彼氏が亡くなったのは、オカタサマの話を読んだ三日後。

 蟇ジジィが事故にあった(かどうかは断定できないが)のはオカタサマを移された三日後。

 サチはオカタサマを移し返された三日後、過呼吸を起こし倒れた。


 場所と時間帯、そしてカバンのことから、事故にあったのが蟇ジジィである可能性は高い。けれど確定ではないし、サチはクラスの異様な雰囲気に呑まれパニックを起こしただけだ。

 けれど偶然と片付けてしまうには、符号する点が妙に多い気がする。


 かと言って、ネット怪談に由来する呪いなんかで、本当に人が死ぬとも思えない。そもそもネットに書き込まれる情報自体、不確かなもので溢れているというのに。


 英理は自らの脳裏を蝕む妄想を、頭を振って追い払った。

 美也は綸を目を見つめゆっくりと、けれど力強く語りかける。


「綸、ショックだろうけど落ち着いて? 呪いなんてないわ。オカタサマなんていないの。綸のせいなんかじゃないわ、わかるでしょ?」


「でも現にあいつ事故ったんだよォ、車に轢かれたんだ!」


「綸、」


「あたしだって信じてなかったよォ! だからこそ軽はずみにあいつに移したんだ、でもだからこそこうなったんじゃないか! まさか、まさかこんな……!」


「綸……」


 どう言えば綸のせいじゃないと納得させられるだろう。

 美也以上の言葉を持たない英理が奥歯を噛みしめた時、黙って聞いていたひな子が口を開いた。


「綸、そんなに泣かないで?

 あなたがオカタサマを移したことが原因だったとしても、呪いなんだもの。呪詛による殺人は法で裁かれることはないわ」


「さつじ……って、ちょっとひな子」


 顔をしかめる美也の言葉に、綸の声がかぶさる。


「違うんだよひな子ォ……殺人て部分じゃなくて……その、裁かれないとかじゃなくってさァ」


「わかるわ綸。罪になるかどうかじゃなくて、気持ちの問題なのよね。呪いのせいかどうかはわからなくても、彼の死に対してほんの一パーセントでも自分に責任があるかもしれないって思うと、堪らないのよね」


 共感を示すひな子の甘い声音に、綸は何度も何度も頷く。ぽたぽたと雫が机を濡らした。

 ひな子は綸の肩に手を添え、包み込むように柔らかな声を紡ぎ出す。


「綸、人にはそれぞれ決められた命の長さがあるの。それは人間にどうこうできるものではないし、ましてや呪いで縮められたりはしない。運命と言い換えてもいいわ。

 つまり、彼が呪いで死んだのだとしたら、元から彼の寿命だったのよ。綸がオカタサマを移さなくても、彼は何らかの形で命を終えていたの。だから綸が気に病むことはなにもないわ」


 詭弁だ、呪いの話を迷信で混ぜ返すなんて。

 頭痛を覚える英理だったが、綸は一筋の光明とばかりにひな子を仰ぐ。


「ホント……? ホントに?」


 ひな子は聖母のような微笑みで綸に頷きかける。


「そうよ。それに彼の行いを思えば因果応報……これは仏教の言葉だけどね……その手の犯罪は常習性が高いから、綸以外にも被害に遭っていた子、たくさん居たはずよ。どれだけ恨みを買っていたかわかったものじゃないわ。

 綸はたまたま、タイミングが合ってしまっただけ」


「ひな子ォ……」


「心配なら、父さんにお祓いしてもらいましょう? わたしから頼んであげるから」


 畳みかけるようにひな子が請け負うと、綸は救いを求めるようにひな子に手を差し伸べる。


「どうして……あたし、ごめん、昨日あんたに酷いこと言ったのに……」


 その手を受け入れ、ひな子は綸を腕の中に招き入れる。


「なんのこと? 忘れちゃったわ。だって私達、幼なじみじゃないの」


「ひな子ォ……ごめん、ごめんあたし……!」


 弱った心に、肯定ほど甘美に染み渡るものはない。綸は恍惚となってひな子に縋りつき、ひな子は嫣然と目を細めている。


 強烈な既視感。


 ──そうだ。これは昨日の美也とサチの再現だ。


 そう気付いた時、英理の背筋が凍った。

 思えば今朝からすでにおかしかった。

 普段は美也が級友達を先導するのに、今朝その役割を果たしたのはひな子だった。

 そして今。

 罪悪感に駆られ取り乱す綸に手を差し伸べ、抱きすくめ、受け入れている。


 ひな子は美也に成り代わろうとしている──?


 そう考えると、ひな子が自分に執着する理由もわかる。


 美也にはあってひな子にないもの。

 それは自分の全てを支持し、尊敬し、傍目には一種崇拝ともとられかねない一途さでそばに立つ英理の存在だ。


 ざわざわと総毛立つ。首の後ろを芋虫が這っているような感覚。

 凍りついている間に、綸は席を立つ。


「ごめん……ちょっとムリ、保健室で休んでくる……」


「大丈夫? ついて行くよ」


 美也は腰を浮かせかけたが、綸は横目で一瞥し、


「……ひとりにして」


 と拒絶した。


「なら、ホームルームが終わったら迎えに行くわ。わたしも今日はバスで帰る、家まで送っていくわ」


 ひな子の申し出には、力なく頷いて。


 綸の背中がドアの向こうへ消えてしまうのを、英理と美也は口を噤んで見送った。

 かけるべき言葉は見つからず、また、綸も望んでいないことがありありと感じられたのだ。

 そんな二人に……というより美也に対して、ひな子はふぅっと息をつき小声で囁く。


「無駄なのよ、目に見えないものに怯える子に、頭ごなしに正論を説いたって。サチだってそうだったでしょう? 慰めたいと思うなら、相手に届く言葉で語りかけなきゃ。

 迷信? 子供だまし? 結構じゃない、それで相手に伝わるのなら。伝わらない常識よりもよほど役に立つわ。

 法律や科学で人の心をくまなく照らし出せるのなら、この世に宗教なんて一つたりとも要らないのよ」


 ひな子のその言葉が正しいのか、英理にはわからない。

 自分達は間違ってしまったのだろうか。

 


 ただ、これだけはわかる。

 綸は群に還ってしまった。


 言いようのない喪失感に苛まれ、ただ綸が去ったドアを見つめることしかできなかった。



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