サチ
一時限目の終わりにも二時限目の終わりにも、休み時間になるとサチはすぐさま美也に飛びついてきた。
幸い首は大したことにならずに済んだが、すっかり怯えきってしまい、美也の腕を掴んで離さない。
マリエもレナもいなくなり、相変わらず他に声をかけてくれる者もないので、より一層執着しているのだろう。
美也はそんなサチにいたって明るく話しかける。
「ほらほらサチ、今日日直でしょ? 黒板消さないと」
サチはいやいやをするように、美也に額を擦りつける。
「私達も手伝うから、ね?」
美也に付き添われ、のそのそと黒板の前に立つ。
黒板一面に、びっしりとクセのある字がのたくっている。美也と英理、それに綸もそれぞれ黒板消しを手に、書き込まれた白文字を拭き取っていく。
黒板に向かい立つと、自然と教室の中に背くかたちになる。
ざわざわ、ざわざわ、級友達の声が背中を這う。
「可哀想に、マリエ狂っちまったんだよ」
「……、…………」
「呪いって……やっぱあるのかな」
「今サチにツイてんだろ? あんま近寄らないほうがいいって、オカタサマにツカれてる間ずっと不幸に見舞われるんだってよ」
「急に後ろから肩叩かれても堪んないしね、こうやって……こちらの肩をお勧めします、ですから」
「ヤダちょっと! まさかアンタ今憑いてないわよね!」
「……どうぞお移りください。さぁてね?」
「ねぇ、ひな子の家って神社じゃなかった? 一度でも憑くと気味悪いよね、お祓いとか頼めるのかな?」
「お祓いっていくらかかんの? ひな子に聞いてみる?」
くだらない。
英理は沸々と沸き立つ苛立ちをぶつけるように、力を込めて白墨を消し去る。
お前ら暇か。
他愛のない、それも誰が書き込んだのかも知れないネットの怪談話を真に受けるなんて。受験生なのに、他に考えることはないのか。
今朝サチに手を差し伸べた美也を見て、なにも感じるものはなかったのか。
……あぁ、感じただろうな。『ラッキー』って。
きっと全員が本当に呪いの話を信じているわけじゃない。ただ気色悪いと思っている程度で。
それでもサチを遠巻きにするのは、その性格や立場のせいもあるだろうが、オカタサマに憑かれているから近寄れなくても仕方ないと、自分を納得させているからだ。
サチはウザい。
でも、マリエ達にも捨てられぽつんといるのを見ると、さすがに良心が痛む。でも、ウザい。手を出したくない、まとわりつかれたくない。
あ、美也が話しかけた。助けた。
これでサチはひとりぼっちじゃなくなった。よしよし、これでもう自分が手を出さなくても、胸が痛むことはなくなった。
自分は薄情なんだろうか。いやそんなことない。
そうだ、仕方ない。サチは怖ろしいものに憑かれているんだから、近寄れなくても仕方ない、仕方ない。皆もそうだよね? 怖いよね?
そんな声なき声が、言葉の端々に見え隠れしている気がしてならない。
あるいはこの一種異様な状況を、サチを排除すべき共通の敵として見なすことで、敵の敵は味方とばかりに団結しやり過ごそうとしているのかもしれない。
くだらない。くだらない。
背後で群れるは、唾棄すべき愚者の群。
もはや彼らは退屈な魚達などではない。
教室という水の限られた水槽で、いかにして降り注ぐ火の粉を避けるか鵜の目鷹の目。より弱い者を水面に押し上げ盾にして、その下で群という仮初めの安寧に憩う。
巻き込まれて堪るか。
私は、
美也は、
綸は、
絶対に巻き込まれたりしない。
群に下ることも、群が作り出す渦に飲まれたりもしない。
絶対に。
コイツらと同じになって堪るものか。
私達にはそれぞれ目標があるのだから。
半ば意地になって舞い散る粉と格闘していると、綸がおいおいと声をあげた。
「ちょっとサチ、真面目にやんなよォ。元々はあんたの仕事なんだからね」
見れば、サチは下の端に近い部分を力なく擦っているだけだった。サチは右肩を押さえへらっと笑う。
「ごめんごめ~ん。なんか、肩痛くて、腕が上がんないの」
「え? なんだよォ、やっぱさっき怪我してたんじゃん! ムリしないで今からでも保健室行きなよ」
「え、あ、ううん、マリエちゃ……さっきのことじゃなくて、朝起きたときから痛いっていうか、重いっていうかぁ……」
すると背後の喧噪がワントーン高くなる。
「聞いた? 今のマジ?」
「それってやっぱ呪いじゃん?」
「うわぁ……それって一緒にいる女バレの奴らもヤベェんじゃねぇの?」
いい加減にしなよお前ら!
英理が一喝しようと振り向いた時、一際通る声が告げた。
「オカタサマは右肩に憑くって話だものね」
ひな子だった。
最後部のロッカーに気怠げにもたれながら、サチの右肩を指差す。
「サチ。あなたの右肩、やたら暗いわ。まるでそこになにか乗ってるみたい」
一斉にサチの右肩に視線が集まる。
三人も思わずつられた。
黒板に向かうと窓は左手側にある。そこから光が入るので、サチ自身の頭の影が右肩に黒く落ちている。
ただ、それだけのことだ。
「ヘンなこと言うのはよして。ただの影じゃない」
すかさず美也が反論すると、
「ふぅん、そう思いたければ思ったらいいわ」
ひな子は鷹揚に構えて取り合わない。
その間、恐怖を孕んだ緊張が級友達に伝播していく。
「確かに……やたら暗くない?」
「え、お前霊感あんの!」
「アタシはないけど、ひな子はだって、神社の娘だし」
「そう言われると、なんかそんな気も……」
「ちょっと待って、皆落ち着いて!」
美也が懸命に宥めている間に、英理と綸とでサチを背に庇う。
サチは黒板に手をついたまま、ガタガタと小刻みに震えていた。
「……で? サチ、あなたがオカタサマを背負ったのはいつ?」
二人に阻まれ見えなくなったサチに、ひな子はねっとりと鼓膜に絡む声で訊く。
「答えンじゃないよ、あんなヤツ相手にすんな」
綸が小声でサチに言うも、
「……月曜日の……二時間目終わりの休み時間……」
サチは魂が抜けてしまったかのように、ぽつぽつと言葉を落とす。
ひな子は指折り数え、あららと眉を寄せた。
「なら、三日後って今日ね。時間は……まさに今だわ」
可哀想にねとひな子の唇が動いた瞬間、サチの喉がひゅうっと鳴った。
「サチ?」
サチは喉を押さえ、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。見る間に唇が青白くなり、紫に変色していく。
「サチ!」
「しっかりしなよォ!」
壁になっていた二人が退き振り向いたことで、苦しげに呻くサチの姿が現れると、教室内は凄まじい恐慌状態に陥った。
「ウソでしょ死ぬの? ここで死ぬの?」
「ヤバい、少しでもサチから離れろ!」
「絶対に背中見せんなよ、移されるぞ!」
「落ち着いてったら! 過呼吸によるチアノーゼよ、誰か保健室へ行って先生呼んできて!」
看護師の娘である美也が声を張り上げるも、誰も動こうとはしない。壁に背をへばりつけ、怯えきった目でもがくサチを凝視するばかり。泣き始める女子もいた。その様子に美也はキツく唇を噛む。
「いいよ美也。私が背負う、保健室に連れて行こう。その方が早い」
「……そう、そうね」
英理がサチの手を取ろうとしたその時、突然サチが教室の真ん中へ飛び出した。
「いやああぁ! もうイヤ、こんなのイヤあぁ! アタシ死ぬの? ケンゴ君みたいに死ぬの? やだよ、死にたくない死にたくないよ!」
乱れた呼吸の合間に身体を震わせ絶叫する。そして机を押しのけ、マリエと仲がよかった男子に駆け寄った。
「お願い、移させてぇ!」
「え、いや……あ、そうそうオレもう三回憑いたことあっから」
「タイチ君は?」
「お、オレ? いやオレも三回……」
「オレも無理」
「そんなぁ……誰かいるでしょ? まだ三回憑いてないヒト……ちょっとでいいから、一瞬でいいからぁ! すぐまたアタシに移していいから! お願い、誰か、誰か助けてよおぉっ」
紫の唇から懇願するも、誰もサチの願いを聞く者はない。
サチは一瞬英理達を見た。けれどすぐ思い直したように他の誰かに声をかける。
「お願ぁい……今、ちょっとでいいの、ちょっとでいいから、お願い、お願い……」
「サチ!」
あまりに現実離れした事態に呆けてしまっていたが、慌ててサチを捕まえる。
「呪いなんてない、そんなものないのよ。ほら、しっかり息吐いて」
「保健室行こう? ほら負ぶさりな」
「英理クンがおんぶしてくれちゃうなんて羨ましいねサチ、どっかのアホが妬いちゃうねェ」
綸はかつての友人を横目で挑発しつつサチを促す。綸なりの決別の言葉だった。けれどもサチは首を振る。
「お願い、お願ぁい……誰か、誰か……」
自分がこのクラスから見捨てられてしまったことを、認めたくないのかもしれなかった。
静観を決め込んでいたひな子がふぅと息をつく。
「もうすぐ休み時間終わっちゃうわね」
「ひな子、あなたは黙ってて」
声を尖らせる美也に、ひな子は小首を傾げる。
「そんなにサチが可哀想なら、安城サン、あなたが移されてあげたらどう? わたしは生憎もう三回憑いたからできないけど、あなたは違うでしょう? くだらない噂話なんて、信じないのよね?」
「だからそういう問題じゃないの、呪いなんかじゃない、過度のストレスで過呼吸を起こしたのよ。あなた達のそういう態度がストレスになってこうなったって、どうしてわからないの!」
その一言で空気が変わった。
視線の束がサチから美也に移る。
マズい。
英理は美也の腕を掴む。
「美也、今は保健室に連れて行くことが先だよ。サチ、ほら掴まって」
「あんじょぉさぁん……アタシ、バカだからわかんないけど……安城さんなら、わかるよね? オカタサマなんて、いないよね? 死んだりなんか、しないよね? ね?」
床にへたり込んだサチには、もう英理の言葉が届いていないようだった。唯一の希望とばかりに美也を仰ぎ、幼子のように泣きじゃくる。
「当たり前よ、大丈夫。さぁ、保健室へ……」
「だったら」
汗に涙、涎に鼻水、顔中の孔という孔から体液を垂れ流し、引きつった顔で笑う。
「だったら……移させてくれるよね?」
「…………サチ」
美也は大きく目を見はり、それからとても……英理が見ていられなくなるほど悲痛な顔でその名を呼んだ。
──やっぱりこんなヤツ、助けるべきじゃなかったんだ。美也に救われておきながらなんてことを……!
憤る英理の横で、美也はゆっくり頷いた。
「……いいわ。それでサチの気が済むのなら。でも、その後でちゃんと保健室行こうね?」
首筋の後ろをぞわりと冷たいものが走る。
「美也だめだ、サチ私に……!」
咄嗟に叫んだ英理だったが、サチは美也の肩に身体ごと預けるようにして、叩く。
「……こちらの、かたを、おすすめします、ですから、どうぞ、お移りください……」
そのまま意識を失った。
四人を囲む級友達は微動だにしない。
「いけない、英理お願い!」
「あたしが後ろからサチの身体支えっから」
「よし、行こう」
三人がサチを運び出そうとドアへ向かうと、その付近にいた級友達が声もなく後退る。
背中に負ったサチにも級友達にも舌打ちしたい気分のままドアを出ると、誰かの声が耳に届いた。
「安城だ……今度は、安城だ」
英理は無言で、後ろ足でドアを思い切り蹴飛ばした。はめ込まれた硝子が外れそうな勢いでガタガタと鳴り、教室の中は再び阿鼻叫喚となる。
「ちょっと英理……」
美也は窘めようとしたものの、それだけだった。今はサチを連れて行くことが先だ。
ぐったりとしたサチを背負い、小走りに廊下を行く。その背を支えながら、綸はブツブツ呟く。
「あるもんか……呪いなんて、オカタサマなんて……そんなモンで、人ひとり死んでたまるか」
英理も美也も、大して気にとめなかった。
けれどこの時、もう少し綸の様子に気をつけていればと後悔することになる。