ひな子
七月二二日
朝から雨が降っている。
それでも一向に気温は下がらず、湿度計が恐ろしい値を叩き出す。蝉達も、今日はいくらかおとなしい。
英理と美也は、朝練があるときと同じ時刻に登校してきた。
机にW校の入試過去問集を広げた美也は、
「悪いわね、付き合ってもらっちゃって」
上目遣いに英理を見る。
朝練がないから二時間長く寝られると密かに喜んでいた英理に、いつもと同じ時間に登校しようと持ちかけたのは美也だった。
不幸なきっかけから始まった朝練自粛だが、学力をもってして特待生を目指す美也には貴重な勉強時間になる。自分の部屋よりも、教室の方が集中できるからという言い分だった。
「いいよ、どうせ一度はいつもの時間に目が覚めるから」
「それでも二度寝はするでしょ?」
「するけども。ほら、時間がもったいない」
そう言って美也の筆箱からシャーペンを取って手渡す。
一昨日買ったばかりだという問題集には、すでにいくつもの付箋が貼られている。
英理は美也の本心に気付いていた。
わざわざ英理を連れて登校し勉強してみせるのは、他ならぬ英理のためだ。
本来W高は英理の頭では到底入れない進学校。スポーツ特待生として入学できても、すぐに授業に追いつけなくなるのは目に見えている。
いくらバレーに打ち込んでも、授業全てが理解不能では、折角の高校生活がつまらないものになってしまう。
それを案じて、今から少しでも英理の学力を底上げできればと考えてくれているのだ。
英理は黙って自分も筆箱を取り出すと、問題集を横からのぞきこみ、解答をノートに書き記していく。
親友が自分の思惑に気付いていると分からない美也ではないので、あら珍しいなんて茶化すことはせず、
「わからないところがあったら聞いてね」
と声をかける。
言葉にしなくても、互いになにもかも通じあえているという感覚が、ひたすらに心地よかった。
全部活動とも朝練自粛中とあって、学校の中はとても静かだ。登校してからまだ誰の声も聞いていない。
外から学校を見上げれば、この教室にだけ明かりが灯り、鉛色の空の下ぽっかりと浮かんでいるように見えることだろう。
しとしとと硝子を濡らす雨音。
美也が淀みなく繰るシャーペンの、黒鉛と紙が擦れたてるさらさらという音。
Sの音は耳障りがいい。
対して、蝉のジワジワいう鳴き声や、ガヤガヤと落ち着きのない級友達のざわめきなど、濁点でもって表される音は不快。
今この教室に、英理を不快にさせる音はなにもない。
その静けさが、この教室だけが世界から取り残されてしまったような、二人きり隔離されているような、そんな錯覚を抱かせる。
この時間がずっと続けばいいのに。
ぼんやりとそんなことを考えていた英理を、
「手、止まってるよ」
美也の声が現実に引き戻す。
少し残念に思いつつシャーペンを握り直すと、
「また明日も付き合ってね」
美也は英理の胸の内を見透かしたように言う。思わず伏せられたままのその顔を見れば、美也も目線だけ上げて英理を見つめ、微笑んでいた。
今この教室に、英理を不快にさせるものはなにもない。
なにも。
けれど当然、長く続くものではなかった。
予鈴の三〇分前になると、最初の足音が近付いてきた。やってきたのは、手芸部のひな子達だった。
いつも一番乗りのメンバーは先客があることに驚き、
「おはよ、珍しいね! そっか、朝練なくなっちゃったんだもんね」
「あ、英理君おはよう!」
他の級友達は鞄を置きに自分の机に向かったが、ひな子はいたのが英理だと知ると一目散に駆けてきて、広い肩に手を乗せる。
「おはよ」
英理は心地よい時間が終わってしまった落胆と、ひな子の馴れ馴れしい態度に疎ましさを感じながら、短く挨拶を返す。
彼女達がやってきたときに挨拶を済ませていた美也は、問題集から顔を上げることなくひな子に言う。
「いつも言ってるけど、英理君っておかしいわよ。英理は女の子なんだから」
あらぁ、とひな子は大袈裟に目を丸くする。
「『君』は、昔は男女問わず敬称として使われたものでしょ? 安城サンなら当然知ってると思ってたけど」
何度か注意したことがあるが、この切り返しは初めてだった。けれど美也が落ち着き払って
「ならどうして私には『さん』なの? 他の女子にも使ってないじゃない?」
尋ねると、ひな子はむくれたようにぽってりとした唇を突きだす。
「それぞれ似合うと思う呼び方で呼んでるだけよ、だってほらカッコいいじゃない。クラスで一番背が高いし、バレンタインには後輩の女の子に告白されたんでしょ? 皆知ってるわ」
「それは……」
「あ~ぁ、わたしもあげればよかったなぁ。次のバレンタインは楽しみにしててね?」
甘えるように英理の肩にしなだれかかるひな子に、美也はようやく顔を上げ眉を寄せる。
「おぉ怖っ。ヤキモチ焼かなくても、欲しければ安城サンにもあげるから、ね?」
鼻にかかった甘ったるい声でおもねるような素振りを見せるひな子。天然なのではなく、相手が苛立つことを知っていてわざとそうしている。確信犯だった。
これ以上相手にするのは無益だと悟った美也は、また顔を伏せシャーペンを走らせる。その前に、「なぜ毅然とした態度をとらないのか」と言いたげな視線を投げたことに、英理だけは気付いた。
なぜ、と言われても。
英理自身ひな子の態度は不愉快に感じているが、ひな子は綸の友達。無下にすることは躊躇われる。なぜ綸はこんな子と仲がいいのかという疑問は、ひとまず置いておく。
それに英理は知っていた。
自分に寄せられる憧れや好意は、一過性のものにすぎないことを。
大人への過渡期である思春期にありがちな、倒錯した擬似恋愛感情。
自己を確立していく過程で、他者と自らの類似点と相違点を見いだし、良いと思えるものには極端なまでに傾倒し、そうでないものには生理的嫌悪感さえ覚える。
そうして他人と自分とを隔てる膜を自覚し、時に衝突させ、時に混ぜ合い、削り、すり減らし、角をとりながら、その膜の中に己という核を創り上げていく。
その膜も核もまだあやふやで不安定なものだから、好感を抱けるものには自覚の有無問わず全力で縋る。強く憧れることで、まるで自らが相手と同じものになれるとでも錯覚しているかのように。
一方で、膜に隔たれ周りが見えていないがために生ずる万能感。
身体は大人へ近付き、なにもかも成せる気がしているのに、内面はまだぐちゃぐちゃなまま混沌としていて、そのギャップに耐えられず、常に誰かに認めて欲しい、自分だけが特別だと認めて欲しいと渇望する。
汗くさい、ガキっぽい、喧しい、エロい、そんな同年代の男子にありがちな厭悪すべき点がなく、それでいて外見は男子のそれに近くスポーツ万能な英理は、手頃な代用品なのだ。
代用品は代用品でしかなく、時が過ぎれば浮かされた熱も自然と醒める。
はしかのようなもの。
だからこそむきになってあしらうほどのものでもない。そのことに割く労力は無意味。
そう考えている英理は、自分にとって致命的な害にならない限り、彼女達の倒錯を受け流すことにしているのだった。
美也が自分のそんな態度を疑問視しているのはわかっている。
けれど、ほら。
現に今だって。
ひな子は離れようとはせず、美也は再度勉強に没頭し始めている。
またひな子がちょっかいを出し、美也の邪魔をしだすくらいなら、自分が受け皿になればいい。そうしなければ、確実にまた美也の手は止まってしまうのだから。
「そうそう、英理君聞いた? 昨日救急車で運ばれた男子、亡くなったって」
自分が受け皿になると腹を決めたばかりなのに、唐突に切り出された話題に気が重くなる。
訃報は、昨夜のうちに一組の連絡網で伝えられた。そこからSNSを通じて拡散され、そういったことが苦手な英理にも綸からのメールで伝わっている。情報に疎い英理が知っているのだから、この学年で知らない者はないだろう。
美也も知っているはずだが、お互いに意図して口にしなかった話だ。
「……聞いたよ。残念だったね。脳震盪だって話だったのに、よほど打ち所が悪かったのか……」
同じ学年といえど、同じクラスになったこともなければ、個人的に会話をしたこともない。
男子生徒の死に際し、胸を痛めてはいるものの、実際に心臓や肺が痛むのかと聞かれればNOだ。
薄情かもしれないが、限りなく他人に近い生徒の死より、今この瞬間目の前の美也に、いかにして少しでも長く勉強時間を供するかということのほうが、英理にとってはよほど重要だった。
ひな子は手近な席からイスを拝借すると、二人の間に割り込ませて座る。
「人間、無闇に手を出したらいけないものってあると思うの。好奇心は猫を殺すって言うでしょ? 彼は好奇心に殺されたのね」
ひな子はアンニュイな表情で足を組む。校則指定の丈よりも五センチほど短いスカートから、むっちりとしてハリのある太腿がのぞく。その肉感がなんだか不快で、英理は目を反らした。
ひな子も大人びていて美人と評して差し支えない容姿をしているが、清楚で凛とした美也と違いどこか蠱惑的で、未熟な色香を惜しげもなく発している。
苦手ではなく不快。
英理のひな子に対する心証は、その一言に尽きた。
「なんの話?」
英理に向かい身を乗り出すと、ひな子は肉厚な唇を耳許に寄せ、意味ありげに囁く。
「『オカタサマ』よ」