決意
七月二〇日
海の日という名の祝日。
英理達が所属するバレー部は、朝早くから陽が落ちるまで練習に明け暮れた。
この中学の女子バレー部は代々強豪として名を馳せていて、今年も順調に地区大会を突破し、県大会を目前に控えていた。
「お疲れ様、皆ちゃんと水分摂ってね」
最後まで一年生と一緒に片付けをしていた美也は、笑顔で後輩達に声をかける。まだあどけなさが残る元気な返事が返ってくると、美也はほぅっと息をつき、額の汗を拭った。
「お疲れさん、キャプテン」
一足先に更衣室で着替えを済ませてきた英理は、その背中に声をかけた。自慢の黒髪を高々と結い上げた美也は、目を細めて振り返る。
「ありがとう」
毎日ボールを強か打っているとは思えないほど、白くたおやかな腕がタオルを取る。すらりと長い首、後れ毛の垂れた柔らかそうなうなじ。汗で濡れたそこを拭う仕草に、英理は束の間見とれた。
同じ歳、同じ性別、たった四センチ差の身長。それなのにこうも違うものか。
もうすぐ一七〇センチに届こうかという英理の身体は、骨太の骨格と筋肉とに恵まれていて、アスリートとしては申し分ない。
けれど、同じ年頃の女子が持つ可憐さやしなやかさとは無縁だった。
周りが女子から女性へと変わり行く中、短い髪のせいもあってか、街中でしょっちゅう男子に間違われる。出先で女子トイレに入る際、居合わせた人に怪訝そうな顔をされることにも、哀しいかな慣れっこだった。
私は私、これでいいんだ。
バレーに打ち込み、周りに実力を認められていく中で、そう自分を納得させてきた。
とうに割り切っているはずなのに、自分と並ぶ実力を有しながら、女の子らしさも持ちあわせているこの親友を見ていると、時折言いようのない羨望と憧れが胸に込み上げる。
不意に美也と目が合った。さり気なく目をそらし、
「片付けは一年に任せたらいいのに、相変わらずだね。キャプテン自ら進んで片付けなんて、皆気ぃ遣っちゃうよ。二年生もあがりづらそうだ」
今までにも何度となく口にしてきた進言を繰り返すと、美也は「いいの」と笑う。
「性分なの。人任せにできないのよ、知ってるでしょ?」
黙って肩をすくめると、美也はくるりと身体を反転させる。
「待ってて、すぐ着替えてくるから」
「うん」
返事をするが早いか、美也は全く疲れを感じさせない足取りで部室へ駆けていく。
後ろ姿でさえ凛と眩い。
視線を奪われたまま、英理はその場に立ち尽くした。一番近くて誰よりも遠いその背中が、ドアの向こうに消えてしまうまで。
揃いのセーラー服を着て、橙に染まった道を歩く。英理のスニーカー、美也のローファーが、異なる足音を揃って鳴らす。
校門を出てしばらくすると、美也は黙りがちになった。
「どうしたのさ、腹ヘリ?」
「違う」
「疲れた?」
「ううん」
美也は物憂げに髪をかきあげる。練習中に結っていた髪はほどかれ、結い跡もなくさらさらと肩を撫でていく。
美也は英理を見上げた。
「英理は、W高に行くんでしょ?」
その問いに、躊躇いがちに頷く。
「うん……まだ、本決まりじゃないけど。声はかけてもらってる」
私立W高のバレー部は、全国制覇を幾度も成し遂げている名門中の名門で、毎年若干名をスポーツ特待生として採っている。
その打診があったのは先月のことだ。
ただし、お声がかかったのは英理だけで、同等の実力者である美也にはかからなかった。なにが自分達を分けたのか英理自身わからなかったが、ともかくそれが現実だった。
美也はふぅん、と呟き顔を伏せる。
小学生の時から共に地元のチームでしごかれ、切磋琢磨しながらここまできた。美也に対して申し訳ない気持ちはあるものの、英理にとってはまたとないチャンス。逃すわけにはいかない。
怒らせてしまったかと、美也の顔をのぞきこむ。
「あの……美也と離れるのは、その、なんて言うか……離れたくはないんだけど」
「どうして?」
美也は顔を上げ、挑むような眼差しで英理を射抜く。
「どうしてって……ずっと同じコートに立ってきたし、学校だってずっと一緒で……だから」
「だから?」
「寂しい、んだけど、でも……」
「寂しいの?」
今度は美也が身を乗り出して、言い淀む英理の顔をのぞきこむ。
なんだ、美也は平気なのか。
失望と軽い目眩を覚えつつ、ぶっきらぼうに言う。
「そうだよ、悪い?」
すると美也は、ふっと顔を近付けてきたかと思うと、花が綻ぶように微笑んだ。
予想だにしない反応に、英理の身体が固まる。
「そうなの、寂しいの。そうねぇ、英理がそう言うなら、私もW高目指そうかなぁ」
「え?」
目指そうかなって、そんな気軽に。
特待生は入学金・学費共に免除だが、一般入学となるとそれなりにかかる。
英理が戸惑っていると、美也は悪戯っぽく笑って自分の頭を指差した。
「この美也さんの頭はね、英理さんのオツムと違って大変デキがよろしいの」
「知ってる」
美也は常に学年トップ、英理は常に平均点ギリギリ。端的な事実でイヤミにもならない。
「W高はね、スポーツ特待制度の他に、大学進学率を上げるために学力特待制度も設けてるの。知ってた?」
黙って首を振る。
そんな制度、知っていようがなかろうが、英理には無縁のものだ。
「え。ってことは、じゃあ……」
美也ははにかみつつも笑顔で頷く。
「うん。私も目指すよ、W高。進路指導の先生に相談したら、今の成績なら見込みあるって。だから頑張る。もちろん部活も最後までやり遂げる。
でも特待生から漏れた時は、お母さんに高い学費出してなんて言えないし、公立に行くしかないけどね」
「美也ならできるよ、絶対受かる」
美也は自分だけ特待生として選ばれたことを、恨んだりしていなかった。拗ねてすらいなかった。
そしてまた、同じ学校に通えるかもしれないという希望が、英理の言葉を力強いものにした。
「うん、頑張るよ美也さんは。だから英理、応援してね」
そう言って、美也は英理の手の中に自分の手のひらを滑り込ませた。
手を繋ぐなんて何年ぶりだろう。
小学校低学年の頃には、確かよく繋いで歩いたものだけど。
多少の気恥ずかしさを感じながらも、美也の決断が嬉しくて、英理はその手をしっかりと握りしめた。
蝉の声が、雨のように降り注いでいた。