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英理と美也



七月二八日



 あれから美也は毎日欠かさず来てくれた。

 美也が来ると母は席を外してくれるので、二人は思いつくまま色んな話をした。

 英理の怪我のことには触れず、学校のことも部活のことも忘れ、互いに笑顔でいられる話を。


 特に二人が好んでしたのは、将来の話だった。

 大人になったら家を出て、二人で暮らしてみたいねなんて、漠然とした遠い遠い未来の話。


「英理をサポートできるように、看護師の資格とろうかな」


「サポートってそんな大袈裟な。頑張って歩けるようになるよ」


「看護師になってバリバリ働くの。英理のこと養えちゃうくらいに」


「え、それだと私ヒモみたいじゃない?」


「ううん、主婦」


「私が片付け苦手なの知ってるよね?」


「あー……」


 別の日には、


「一緒に住むなら、英理が移動しやすいようにワンルームかな?」


「それじゃあ同じ部屋で寝ることにならない?」


「嫌なの?」


「美也って寝言が多いんだよ、知ってた?」


「うそ! 英理は歯ぎしりするわよ、たまに。知ってた?」


「知ってる」


「なぁんだ」


 そんな他愛もない話。

 すぐそこに迫った高校受験の話では息が詰まる。どうしたって不安になる。だからどちらからともなく、あえて遠い未来の話をした。子供じみた夢の話を。

 思い描く夢の中では、二人はなんの制約も受けない大人で、自由だった。

 その話をしている時、英理は身体の痛みを忘れられたし、美也もどこかホッとしているような顔でいて、二人は時間が許す限り夢の中に遊んだ。

 ひな子のおとないもあったが、気持ちが穏やかでいられるためか、それほど苦にならなかった。



 ところが、今日の美也は様子が違っていた。

 左の頬が赤い。

 伏し目がちで、傍らに座ってもなかなか目を合わそうとしない。


「美也、どうしたの?」


「…………」


「なにかあったのなら言って? その頬は?」


 美也は膝の上の手を見つめたまま、無表情にぽつりと答えた。


「お母さん……」


「え?」


 おばさんに打たれたの、と尋ねると、美也は小さく肩を震わせる。


「……英理、怪我させたばかりなのに……英理がW高に行かないなら、W高に行く意味なくなったでしょうって、別の学校を勧めてきたの……隣の県の、全寮制の学校はどうかって」


「全寮制? なんだってまた」


 肩の震えが唇に伝わり、戦慄かせながらも言葉を継ぐ。


「……お母さん、再婚したい人、いるの。私が中学卒業したら籍入れたいって」


 それって……

 察して英理は青ざめた。


「最初から新しいお父さんと同居するは戸惑うでしょう、って、言うんだけど……体のいい厄介払いね。私、もう要らないみたい」


「そんなこと……」


 ないよと言いかけ、赤くなった頬に目をやり口を閉ざす。

 その場しのぎの慰めは、かえって美也を苦しめる。そんなことないと信じていたいのは間違いなく美也本人なのに、望みを持ち続けられないだけの理由があるのだ。手首の包帯はまだとれていない。

 美也は乾いた瞳を瞬きもせず、抑揚もなく話し続ける。


「……私、本当にだめね。

 小学校の時、お父さんがあまり家に寄りつかなくなってしまって……お母さんに言われたの。

『美也さえいい子にしていればお父さんは帰ってくる』って。それからは一生懸命勉強したし、バレーだって頑張った。お父さん、私のバレーの試合は必ず観に来てくれたから。

 でも、結局お父さん帰ってこなくなって……私のせいで、私がもっといい子でいればって、そう思ったし、言われたの」


 美也の両親が三年生の時に離婚したのは知っていたが、そう言われて思い起こせば、低学年の頃の美也は今よりもっと活発で、好奇心旺盛な子だった気がする。

 虚ろな目の美也は話しているというよりも、胸に浮かんだことを一つずつ挙げている、そんな印象を受けた。


「それからはもっと真面目に、人に迷惑をかけないようにって心掛けてきたけど……真面目でいればいるほど、周りの皆は離れていくの。

 授業中、静かにしようって声かけただけで無視されたりもした。

 学級会で発言を求めて、舌打ちされたこともある。

 苛められていた子を助けたら、今度は私が標的にされて、その子まで一緒になって苛めてくれた……

 サチも……綸でさえ、いなくなってしまって。

 自分が正しいと思うことをすればするほど、周りから浮いてしまう……もう、わからなくなっちゃった。

 LINEだって、使わないんじゃなくて本当は使えないの、怖くて……クラスのグループに入れなかったらどうしよう、ブロックされたら、って……

 ひな子の言うように、私、ずっと間違ってきたのかな」


「そんなことない!」


 今度は力一杯言い切って、痛む身体を叱咤し両手で美也の肩を掴む。


「そんなことない、美也がしてきたことは正しい。間違ってなんかない。少なくとも私はそう思ってる」


「英理、」


「美也は間違ってなんかない。周りがおかしいだけ、気にすることない」


 虚ろだった瞳に一瞬光が灯る。

 けれどすぐに失われ、美也は指が白くなるほどキツく拳を握りしめる。


「英理だけはそう言って、いつも庇ってくれたよね……

 だけど……周りの大半がそうなら、そっちが本当は正しいのかもしれない、そんな風に思えてきて」


「美也、多数決で出た答えが必ず正解なわけじゃないよ」


「わかってる! ……わかってる、でも」


 爪が食い込み、指の間に鮮血が滲みだす。英理は堅くなったその指を解かせ、汚れるのも構わず手を繋いだ。


「ねぇ、英理。正しいことをして、周りにそっぽ向かれ続けても正しいと思うことをし続けて、私、どんな大人になるのかな」


 その問いかけの真意がわからず、その瞳を覗き込む。漆黒の双眸には、繋いだ手と手が映り込んでいた。


「……正しいと思うことをし続けていたら、お母さんみたいになるのかな。嫌だなぁ……私。それなら大人になんてなりたくない、お母さんみたいになりたくない。

 でも、正しいと思えない方へ流されてしまうのも嫌。別の女の人にほだされて、お父さんであることを辞めてしまったお父さんみたいになるのも嫌。

 どっちも嫌。

 ……だけど『皆』の中で、皆に合わせてうそぶいたり、できない。したくない……

 普通はきっと、できるのよね。なぁなぁで済ませたり、見て見ぬフリしたり……そうやって折り合いつけて生きてるのよね。

 こんなだから私、ダメなのねきっと」


 疲れちゃったと、その唇が音にならない囁きを落とす。その顔には一切の悲しみも怒りもない。全ての感情を忘れてしまったかのように。


 いつか、その真っ直ぐさ故に美也が折れてしまうのではと危惧していた。

 本当はとっくに限界だったのだ。というより、ずっと薄氷の上を歩いているような状態だったのかもしれない。

 英理は必死に訴えかける。


「周りがどう思ったって、私は美也が好きだよ。正しいと思うことをするのは、しかも周りに逆らってまで貫くのは、とても勇気がいることだよ。美也は今までそうしてきたんだ、ダメなことなんてあるもんか」


「…………、」


「私には美也が必要だよ! 美也がいてくれなきゃ……美也がいてくれなきゃ、私なんてただのガサツな大女だよ。なにが正しいかなんてわからない。美也がいてくれるからわかるんだ、美也がいてくれなきゃ……!」


 するとだしぬけに美也が吹き出した。


「お、大女って……あはは、それなら四センチしか変わらない私も十分大女ね」


 必死な言葉を笑われて、英理は少しむくれて口を歪める。


「そうかもね。ならそれでいいじゃん、大女コンビってことで」


「あはは、いやぁそんなコンビ」


「嫌でも仕方ない、デカいんだから」


「あはは、もう、もうやめておなか痛い!」


 なにがそんなにツボなのかは知らないが、ともかく美也が笑顔を見せてくれたことにホッとする。

 美也はひとしきり笑うと、目許に滲んだ涙を拭った。


「あぁ、英理ったらおかしい。なんかどうでもよくなっちゃった。大女の英理さん、これからもどうぞよろしくね」


「大女の美也さん、こちらこそずっとよろしく」


「きっとよ。ずっと一緒にいてね」


 真顔で言い合って、また笑った。

 すると美也は急に思い出したように壁掛け時計を見上げた。


「なに?」


「英理、私がオカタサマを移した時間、覚えてる?」


「なんで今更そんなことを?」


「私は覚えてるわ。一〇時五五分。私がその後オカタサマの話を読んだのが五九分」


「え、どういうこと?」


 美也は当然のように胸を張って言う。


「英理にだけおかしなもの背負わせておけないでしょ。病室を出てすぐスマフォから例の話を読んだの」


「ちょ……!」


 美也はベッドに肘をつき、指を組んで時計を見据える。


「英理の『三日後』まであと二分、私の『三日後』までは六分……それまでお互い生きてたら、こんな馬鹿げた騒ぎは私達のひとり勝ち……ふたり勝ちよね」


 好戦的に唇を釣り上げ、楽しそうに目を輝かす。かと思うと、


「……念のため、手、繋いでてね。なにがあっても離さないでね」


 そんな弱気な発言をして縋りついてくる。


「あと一分……五〇秒……」


 コチ、コチ、と微かな秒針の音が響く。

 カウントダウンの声に、英理にも美也の緊張が伝染してきた。

 握られた手に力が籠もる。

 精一杯握り返す。

 汗で滑りそうになり、しっかりと指を絡める。


「……二〇……一〇……」


 残り一桁になると、美也は数えるのを止めキツく目を閉じた。英理もそれにならう。

 鼓動が秒針のリズムを倍速で追い越し、時計の音と混ざり合い、ささやかな音を追うのが困難になる。

 それでも恐怖はなかった。真に受けていないのではない。


 ──ただ真っ直ぐにあり続けたいと願う美也ひとり受け入れられない世界ならば、こっちから願い下げ。

 終わるなら終わってしまえ。

 絶えるなら絶えてしまえ。

 連れて行くのなら連れて行け、それでも私は美也のそばに居続けてやるから。


 息を潜めて、互いの体温だけに集中していた。





 どれくらい経ったか。

 あれから五分は経った気がする。


「……もう、過ぎたかな?」


「多分」


「目、開けてみよっか」


 せぇので目を開ける。

 とっくに一一時を回っていた。

 顔を見合わせ、拍子抜けして笑い合う。

 けれどその一瞬手前、互いに酷く落胆していたような気がした。


「やっぱりね」


「当たり前だよ」


「でも少し緊張してたでしょ?」


「別に」


「うそ、震えてたクセに」


「それは美也だよ、美也が震えてたんだ」


「はいはい、そういうことにしましょ」


 悪戯っぽく笑って、美也は立ち上がる。


「喉乾かない? なにか買ってくるわ」


「じゃあコーラ」


「任せて」


 美也は何事もなかったかのように駆けていく。

 英理も同じようにして待つ。そういえばと、冷蔵庫に美也の好きなお茶が入っていたのを思い出し、取り出して封を切る。

 戻ってきた美也の手には、コーラが二つ。いずれも口が開いていた。


「あ、そのお茶。英理が嫌いなやつ」


「そう、美也と母さんは好きなやつ」


「相変わらずおばさん、自分が好きなもの買って来ちゃうのね」


「そう、醤油も結局持ってこない」


「もう要らないじゃない。なら私そっちを貰うわ」


 交換すると、どちらからともなく手を繋ぐ。


「英理、ありがとう」


「ありがとう美也、いただくね」


 お互いに、少しだけ丁寧に言い合って、冷えた液体を喉に流し込んだ。





 


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