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倒錯



 控えめなノックの音で目が覚めた。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 目だけを動かし見渡すと、まだ母は戻っておらず、時計はひな子が去ってから一〇分しか進んでいない。

 半ば寝ぼけたまま応えを返すと、ドアが開く音がした。けれど近付いてくる気配はない。


「……母さん? 話、どうだった?」


 返事がない。

 まさかひな子が戻ってきたのか?

 なんだよまだ足りないのか。

 内心苛立ちを抱え首を巡らすと、英理の頭は瞬時に覚醒した。思わず飛び起きかけて、激痛に背を折る。けれどそんなことには構っていられなかった。


「美也! 大丈夫だった? 怪我はない? ……その手首どうしたのさ、落ちたときに痛めた? 酷いの? ごめん、頭庇うのに精一杯で!」


 普段口数の少ない英理にしては矢継ぎ早に質問を繰り出す。

 ドアのところで所在なさげに立つ美也は、包帯を巻いた手首を押さえたまま、なんとも言えない顔で英理を見ている。その手にはビニール袋が一つ下がっていた。


「どうしたの、こっちにおいでよ。ずっと心配してたんだ、母さんが携帯カバンに入れたまま家に持って帰っちゃうし、美也のおばさんは忙しそうであまり話聞けないし……どうしたの?」


 それでも反応なく立ち尽くす美也に、不安を覚えて尋ねてみる。

 美也は唇を噛み締めたかと思うと、駆け寄ってきてその勢いのまま英理に抱きついた。


「英理のバカ……ッ! なんで私のことなんか心配してるのよ、心配するのはこっちよ!」


「痛い痛い、さすがに痛い」


「あ、ごめ……!」


 身体を離すと、堰を切ったようにその両目から涙が零れる。美也はベッドの脇にひざまづくと、英理の手を取り額に押し当てる。


「ごめん……ごめんね英理! お母さんから聞いたわ……本当に、私、なんて取り返しのつかないことを……! ごめんなさい、本当にごめんなさい!」


 長い睫毛を濡らす雫が、英理の指先に伝う。ひな子にされた時には感じられなかった心地よさに、乾ききった心が潤っていく。


「顔を上げて、膝なんてつかないでよ美也。私がしたくてしたことなんだから、美也が気にすることなんてなにもないよ」


「でも! でも英理、英理の足は……私、英理からなにもかも奪って……だめにしてしまって……」


「それは……確かに、これで推薦はなくなったし、バレーももうできないけど」


 英理の言葉に、美也の肩がびくりと跳ねる。


「なにもかも無くしたわけじゃない。一番大事な親友は守れたんだから」


 潤んだ瞳が大きく見開かれる。

 数秒息を詰め英理の顔を仰いだあと、堪えきれなくなったようにまた英理を抱きすくめた。


「ごめんね英理……私、ずっと英理のそばにいる。杖が必要になっても、例え車椅子になっても、私が英理の足になる。英理が私を要らなくなるまで、ずっとずっと、一緒にいるから……!」


 その抱擁に、傷付いた身体は悲鳴をあげたが、えもいわれぬ歓喜がそれを凌駕した。

 懸命にその身体を受け止めながら、自分がいやに冷静だった理由と、胸の底に沸くどろりとしたものの正体を知った。



 ──そうだ、だから私は落ち着いていたんだ。


 私は知っていた。

 聞く前からわかっていた。

 責任感の強い美也は自責の念にかられ、私から離れていけなくなることを。


 美也がバレーを辞めてしまえば物理的に、そして時間が経てばいずれは精神的にも離れていってしまう。

 そう焦っていた。

 けれどこうなってみれば、バレーのことなどもう関係ない。

 友情でも罪悪感でも、優しさでも良心の呵責でも、理由の名前はなんだって構わない。

 人一倍真っ直ぐな故に、それらが足枷となって美也自身を絡め捕る。

 人一倍真っ直ぐな故に、この先どこへ行ってなにをしようと、絶えず美也の心の一部を英理が独占し続ける。それもかなり深い、深い場所を。


 美也がずっとそばにいる。

 そばにいられる。いてくれる。

 それを思うと、どうしようもないほど胸が震えた。

 胸中の泥濘はいよいよ激しく沸きたち、立ち上る香りに罪悪感が痺れていく。

 子供がするように、美也の腕に頬を擦りつけかけ、ふと我に返る。



 倒錯しているのは、私の方──?



 まさか。

 すぐさまその考えを打ち消す。

 けれどひな子やチョコを渡そうとしてきた後輩の、自分を見ているようで見ていない、そう感じさせる異様な目を自分もしているのかと思うと、恐ろしくなった。


 違う。違う。あれとは違う。

 一過性のものなんかじゃない。

 誰でもいいわけじゃない。

 擬似恋愛なんかじゃない。

 恋なんかでは、もっとない。

 私は、

 美也は、

 …………──


「英理? ……あ、ごめんね、痛かったよね」


 美也の声に慌てて首を振り、沈黙を誤魔化すため言葉を探す。


「そうじゃないよ、えっと……ところでその手首は? やっぱり落ちたときに傷めたの?」


「え? あぁこれね、大したことないの、ちょっと転んで捻挫しちゃって……でも、大事をとって部活は今休んでるの」


「転んだ? 美也が? 珍しい。早くよくなるといいね……そのビニール袋は?」


「え、あ、あの……その」


 美也は差し出すのを躊躇い視線をさまよわせると、棚の上の向日葵に気付き真っ赤になって俯いた。


「あ、そっか……私もお花とか持ってくればよかったんだ。

 なんか、なに持っていったら喜ぶかなとか、邪魔じゃないかなとか、でも会ってくれなかったらどうしようとか、色々考えてるうちに訳わかんなくなっちゃって……」


 しどろもどろになる美也が可笑しくて、いいから見せてとせっつく。渡された袋から出てきたのは、


「あ。醤油」


「あぁもう恥ずかしいから声に出さないでっ」


 美也は両手で真っ赤になった顔を覆う。


「卓上塩にケチャップ、マヨネーズ」


「だからもう言わないでったらぁ! もうホントにどうして自分でもそれ買ったのかわからないの、英理は濃い味好きだから病院のご飯じゃ物足りないよね、とか、病気じゃなくて怪我だからいいよね、とか、なんか、そんなこと思っ……もっと気の利いたもの持ってくればよかった、もうヤダ私」


「なんでさ、これ以上気の利いた差し入れないよ、美也にしかできない差し入れだね」


「いーやーみー」


「違うってば」


 あんまり可愛くて可笑しくて吹き出すと、


「わ、笑わないでよ」


 そう言いながらも、釣られて美也も笑い出す。

 なんだか妙にツボにはまってしまい、二人してしばらく笑い合うと、二人の間に漂うぎこちなさは霧散した。


 それから二、三、他愛のない話をしていると、看護師が検温のためにやってきた。看護師長の娘である美也とは顔見知りのようで、互いに挨拶を交わしあう。


「じゃあ、長居してもお邪魔になるから、そろそろ行くね。また明日来るわ」


「あ、美也。すぐ終わるから待ってて」


 帰ろうとする美也を引き留め、大人しく検温を済ますと、看護師が去るのを待って話を切り出す。


「なぁに?」


「ヘンな話なんだけど。美也、オカタサマまだ憑いてる? 憑いてるなら私に移していってよ」


 途端、美也の顔が曇る。


「英理までそんなこと言い出すの……?」


「いや、信じてはないよ。そうじゃなくて」


 急いで首を振り、その手を握る。


「なんとなくだよ。なんか縁起悪いっていうか……信じてはないけど、美也に憑いてると思うとなんか嫌なんだ」


「憑かれてる私が嫌なの?」


「そうじゃなくて、心配なんだよ。なんとなく」


「それなら私だって、きっと英理に移したら同じように感じると思うわ。なんでその心配なものを、よりによって英理に移すのよ」


 英理は美也を宥めつつ、横目で時計を確認する。美也にとっての『三日後』が差し迫っていた。

 まるきり信じてはいないが、さっき見たネット上の教室で、物見高い誰かが美也の命のカウントダウンでもしていたら……そんな風に思うと堪らなかった。


「私はほら、この怪我で厄払い済み、これ以上のことなんてそうそう起こりっこない。守護神らしいし」


「なんの話?」


「あ、いや……ともかくお願い。こんな状態で、心配で眠れなくなるなんて辛すぎる」


 両手を顔の前で合わせ頼み込むと、ややあって美也は諦めたように息を吐く。


「……それで今度は私に心配しろって言うのね。もうこんなに心配してるのに」


 酷いわと恨めしそうに零して。

 けれどそれでも躊躇う美也の手をとり、強引に肩に乗せる。


「……やっぱり嫌よ」


「いいから、ほら」


「英理だけは嫌」


「私だって美也に憑いてることだけは嫌。譲らないよ」


 何度かそんなやりとりを繰り返し、結局は負い目のある美也が折れた。


 ……こちらの肩お勧めします。ですからどうぞお移りください。


 聞き取れないほど小さな声で唱えると、美也はまた息をつく。


「……これでいいのね。気は済んだ?」


「ありがとう、これできっとよく眠れる」


「もう……それじゃあ、行くね。また明日」


「ん、また明日」


 美也の背中を見送ると、なんとも言えない安心感から再びまぶたが重くなる。

 オカタサマを移されまいと、死に物狂いになっていた級友達とは真逆の反応だが、そんなことは気にならなかった。


 ──あとはひな子が皆に話を広めてくれたなら、きっとなにもかも元通り。この足を除いては。……あぁ、進路のことも除く、か。あ、部活の大会もだ。それに、あとは……


 そう考えている内に、英理は深い眠りについた。




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