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幻覚



七月二五日



 まだ熱が下がらない。

 高熱とは言えなくなったが、鬱陶しい微熱が続いている。点滴で充分水分を補っているのに、喉が乾いて仕方がなかった。


 朝食を終え面会時間が始まるやいなや、まず母がやってきた。専業主婦の母は、面会時間いっぱい病室に詰める気満々で、英理は少し憂鬱になる。

 その直後、若い看護師が面会人の来訪を告げた。訊けば、二宮や部活の顧問、監督、校長までもが揃ってやって来たという。怪我に障るからと面会を断り、母に対応に出てもらうと、ようやく静寂が戻り息をつく。


 今日は日曜日。

 階下に訪れる外来患者もほとんどおらず、遠くからわずかに蝉の声が聞こえるだけだ。

 窓を閉めきった室内はカーテン越しの柔らかな明るさに包まれ、行き届いた空調のおかげで汗をかくことも、湿気に咽せることもない。外界から隔たれた感覚は教室と同じでも、あそことは違うと強く感じる。

 静かにひとり伏せっていると、畏れと熱狂とが交錯したあの一週間が夢だったように思えてくる。


 母はしばらく戻らないだろう。型通りの謝罪や説明、保険の話などを延々聞かされるはずだ。

 親不孝だという自覚はあるが、今はひとりきりの時間がありがたかった。



 けれど本当は、心の底で待っている。

 あのドアを開けて、見慣れた顔が現れるのを。



 鎮痛剤が効き始め、うとうとと微睡みかけたその時、ノックの音が響いた。

 返事をするとゆっくりドアが開き、さらりと揺れる黒髪がのぞく。


「美……」


 呼びかけた名を飲み込む。

 現れたのは私服姿のひな子だった。

 紫色のワンピースが、白い肌をより白く際立たせている。

 落胆の色を隠せない英理に、ひな子は皮肉っぽく笑う。


「その様子じゃ、安城サンはまだ来てないみたいね」


「どうして私がここに入院したことを?」


「皆知ってるわ。LINEのクラスグループは今、その話で持ちきりよ」


 ひな子は持参した花篭を棚の上に置いた。オアシスに生けられた向日葵が、無機質な部屋に色を添える。


「誰かが代表してお見舞いにって話になって、わたしが来たのよ」


「ひとりで?」


「いけない?」


「いけなくはないけど……」


 言い淀む英理に意味ありげな目配せをして、ひな子はベッド脇のスツールに腰掛ける。足を組むと、制服より短いスカートから余計に腿が露出する。

 不快。

 お構いなしに、ひな子は英理の手に手を重ねた。


「思ったより元気そうでホッとしたわ。でも……夏の大会は、残念だったわね」


 心底同情しきった顔。しっとりと指が絡みつく。


「夏の大会だけじゃない。この先まともに歩けるかすらわからないよ」


 事実を言えば、倒錯しているか、あるいは美也に成り代わりたいだけのひな子は失望して離れていくだろう。

 そう踏んできっぱりと言い切ったが、予想に反してひな子はめげなかった。目をいっぱいに見開いてから、絡めた指に一層力を込める。


「そう……そうなの。なんて言っていいか……わたしに手伝えることがあるなら、なんでも言って欲しいわ」


 それなら今すぐこの手を放してもらいたい。

 そう言いたいのはやまやまだったが、ひな子に訊きたいことがあった。


「綸は? 綸はどうしてる?」


 ひな子はゆるゆると首を振る。


「明日うちの神社に来る予定だけど……本当に来るかどうかはわからないわ。相当ショックだったみたいで、メールもLINEも一切反応がないの。多分、英理君が怪我をしたこともまだ知らないんじゃないかしら」


「……そっか」


 英理が落ち込みかけると、させまいとひな子は言葉を継ぐ。


「それにしてもあんまりよね」


「なにが?」


「安城サンよ。英理君は彼女を庇ったせいでこうなったのに、お見舞いにも来ないなんて案外薄情な人」


 ずきりと胸に痛みが走る。

 英理は昨日一日待っていたが、結局美也は現れなかった。


「美也だって怪我したのかもしれないし」


「合わせる顔がないと思ってるかもしれないしね? でもそれにしたってあんまりよ」


 どうやらムスッとした顔をしていたらしい。ひな子はガーゼのない方の頬をつついてきて、寂しげに笑う。


「こんな目に遭っても、それでも安城サンを恨んでないのね。後悔だってしてないんでしょうね。でも、そんな英理君だから好きなのよ」


 その瞳が怪しい彩を湛えたことに、英理は気付かなかった。

 ひな子はスマフォを取り出し、LINEを起動して英理に向ける。級友達の名が連なっていた。


「見て、ホラ。皆英理君を心配してる。今や英理君は英雄よ」


 あまり気乗りしなかったが、目の前に画面を翳されて、仕方なく文字を目で追った。



『高崎さんのケガ、大したことないといいね』


『早くよくなーれ♪』


『女バレ大打撃じゃん、エースだろ? 試合どーすんの?』


『確かに!』


『にしてもすごくね? 高崎ならオカタサマもぶっ飛ばせそうだはw』


『ぶっ飛ばしたも同然じゃない? だって美也ちゃんが階段から落ちたのってオカタサマの呪いでしょ?』


『それから庇って安城本人は無事だもんな、確かに勝ってるわw』


『守 護 神 高 崎』



 馬鹿にしてんのか?

 というか、まだオカタサマなんて言ってるのか。

 アホらしくなって読むのを止めようとしたが、ひな子が新たに表示した文面に釘付けになる。



『美也どうなったの?』


『さぁ?』


『サチから移されてまだ三日経ってない、死んではないだろ』


『殺すなしw』


『殺してねーしw あんだけ迷信迷信言いはってたけど、ここまできちゃさすがに誰かに移すだろ』


『夏休み入ってよかったーホント』


『それな。マジ助かったわ』


『おまえ三回移り済みじゃなかったのかよ。サチにそう言って断ってたじゃん』


『ウソも方便』


『酷wwwww』


『でもさ。誰かに移して登校日に来たとするじゃん? 憑いてなくてもさ……なんかビミョーじゃない?』


『高崎ケガさしてんしな』


『守護神高崎マジ返して』


『守護神しつこい。いやでもねーわ。ムリムリ気味悪ぃもん』


『わかるー』


『同意』


『同意』



 字面を目で追っているだけなのに、肉声を伴って脳内で再生される。あの異常な教室の暑さとざわめきがまざまざと蘇る。

 夏休み前に引き戻され、並んだ机の間に立ち尽くしている幻覚を見た。


 ──幻覚?


 しばらく入院生活を余儀なくされる英理には幻覚で済むが、美也にとっては違う。

 教室に英理はいない。

 綸も、おそらくいない。

 ひとりきりになった美也に、この耳障りなざわめきが現実となって襲いかかるのだ。

 サチにしたように。

 遠目に眺めながらひそひそと、時に聞こえよがしにざわざわと、悪意ある無関心と下衆な好奇心をもってして、直接手を下すことなくじわじわと追い詰めるのだろう。


 英理はひな子を見やった。

 口の端がうっすらと上がっている。

 本当に見せたかったのはこのやりとりの方だったんだろう。


 英理は動かぬ足を睨んだ。


 美也を助けたことに後悔はない。

 けれどこの有様では、しばらく美也のそばにいてやれない。美也をひとりにしてしまう。

 本当に美也を守りたいと思うなら、隣に居られることが最低条件なのに。

 美也が孤立し始めたのは知っていたのに、こんな怪我をするなんて……!


 歯噛みする英理の腕を、ひな子の指がつぅっと撫でる。


「皆子供よね。安城サンも可哀想に」


「ひな子がそれを言うのか? サチが倒れる直前だって、皆を焚き付けたのは自分じゃないか」


 非難を込めその手を払ったが、ひな子は甘えるように唇を尖らす。


「そんな意地悪言わないで。安城サンのやり方とは違うけれど、わたしはわたしなりにクラスのことを思ってしたことなのよ。

 何体オカタサマがいるのか、それが誰に憑いているのか、いつその誰かに肩を叩かれるか……

 そう疑心暗鬼になっていた皆を落ち着かせるには、明確な恐怖の対象を示して目を向けさせて、その上で消さなきゃ収まらないもの」


 熱のせいか、英理に理解する気がないせいか、ひな子の甘ったるい声はただ耳朶を掠めるばかり。少しも頭に入らない。


「なにが言いたいかわからない」


 率直な感想を述べると、


「でしょうね。これは英理君には伝わらない言葉だわ」


 そう呟いて、また寂しそうに微笑んだ。

 けれどひな子はすぐにそれを打ち消して、再び英理の手を握る。また振り払おうかとも思ったが、寂しげな顔が引っかかり躊躇する。手の感触はひとまず忘れることにして、英理は尋ねた。


「オカタサマを消すって、どうするつもり?」


「本当にオカタサマがいるのかいないのか、いたとしても消す方法なんて、わたしには到底わからないわ」


「え? ひな子はオカタサマを信じてるんじゃ……?」


「呪いは呪いを呪いと信じ、呪い呪われる者がいるから呪いたりえるものよ」


 ひな子はどこか達観した面持ちで言う。

 いつかの綸のように中二病と切り捨ててしまえばいいのだろうが、整った顔ばせに浮かぶそれを見ていると、神秘的ななにかを秘めているような気さえしてくるから不思議だ。

 常に気怠げで妙な言動をとるひな子が支持されているのは、このためかもしれない。


「オカタサマそのものを消す方法はわからなくても、噂の中から消すことはできるわ」


 皆にこう説明したらどうかしら、とひな子は目を細める。


「責任感が強い安城サンだもの。他の誰かにこっそり移してめでたしめでたしって言うのは違和感があるから……

『英理君が怪我したことで、安城サンもさすがに不安になった。けれど優しい彼女は誰にも移すことができなかったのでお祓いを受けることにした。結果、オカタサマは祓われて消え、彼女は三日過ぎたあとも無事だった』って。

 こういうことにしておけば、内心怖がっていた皆は喜んでオカタサマの話題を捨てるでしょうし、優しさゆえにって部分を強調すれば安城サンに対する心証もよくなるでしょう?」


 英理は頭を巡らせて考えようとするものの、身体中の鈍い痛みに邪魔されうまくいかない。蠱惑的な唇から囁かれる甘ったるい声に、脳が麻痺していくようだった。

 嫌っているはずの美也をフォローする提案をしたひな子に驚きつつも、それが最良なのだと思えてくる。


「でも……」


 誰が皆にそれを言う?

 言いかけて、自分で答えを見つけてしまった。


 病床にあり、スマフォすら持たない英理にはできない。

 塞ぎ込んでいる綸にも頼めることではない。

 当然美也本人は論外だ。

 じゃあ誰に頼む?

 口が固く、かつクラスの中でそれなりの発言力があり、夏休み中の級友達に話を回せるツールを持つのは。


 ひな子は握りしめた英理の手を、自分の頬に押し当て笑う。


「わたしに手伝えることがあるなら、なんでも言って欲しいわ」


 打算的だとわかっているのに、それでも魅力的に映える微笑。それが今英理に向けられている。

 じわり、汗が肌に滲む。

 喉が乾く。

 英理は、あの日どうしても口にできなかった言葉を、より丁寧にして唇に乗せた。


「ひな子……お願い。ひな子にしか頼めないんだ」


「わたしにしか? わたしで英理君の役に立てるなら喜んで」


 私がこうするしかないとわかっていたクセに。

 そんな悪態は喉の奥に追いやって、ひな子が喜びそうな言葉を選び、ひな子の倒錯に相応しい態度を演じる。口の固さという点では不安が残るひな子。なら自分が閉ざさせるより他ない。

 頬に当てられた手でそっとその肌を撫で、親しみを込めた視線を送る。


「ごめん、ひな子。今までずっとひな子のこと誤解してた、ひな子はひな子で皆のことを思って行動してたんだね。酷いことを言って、ごめん」


「いいの、そんなこと」


 うっとりと目を閉じ、英理の手のひらに撫でられるがままにされるひな子。

 うっすらと開いた唇からは、あえかな吐息が漏れる。


「それなのに美也のことまで気にかけて……優しいねひな子は。その優しさに甘えるようで悪いんだけど……頼まれてくれる?」


「もちろんよ。英理君が戻ってくるまで、わたしが安城サンのそばにいてあげるわ。そしたら……」


 薄く目を開け、おもねる中にも挑むような瞳で尋ねる。


「わたしのこと、少しは可愛いと思ってくれる?」


「ひな子は可愛いよ」


「安城サンよりも?」


「比べる必要がある?」


「わたしにはあるわ」


 英理はひな子を手招くと、その耳許へ望まれるがまま囁いた。

 一言口にするごとに、喉ばかりか心まで渇き、瞬き一つするたびに、媚びた視線にすり減っていく。


 打算的なのはお互い様。

 ひな子を利用することに、罪悪感は感じない。

 この場から動けなくても、少しでも美也のためにできることを。

 その一心で、英理は嘘を重ね続けた。



 やがて満足したひな子は、名残惜しそうに立ち上がる。


「明日は綸のことがあるから来られないけど、明後日にはまた来るからね。それまでちゃんと休んでてね、()()


「うん、待ってる」


 英理の返事に頬を綻ばせ、ひな子は軽やかに部屋を後にした。


「……疲れた」


 足音が聞こえなくなるのを待って、深く枕に頭を沈める。

 途方もない疲労感に襲われ目を瞑る。もうひな子の顔は浮かばない。まぶたの裏に蘇るのは、あの朝ふたりきりの教室で見せた美也の穏やかな笑顔。


「……美也、どうしてるかな……」


 そればかりが気がかりだった。




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