転落
「……え? 美也、今なんて?」
美也が言った言葉の意味をはかりかね、英理はじっとその目を見つめた。
気まずいままホームルームを終え、部活の休憩中でのことだ。
当然綸は来ていない。
ひな子に付き添われ帰って行ったんだろう。だろうというのは、二人があのあと直接綸に会っていないからだ。
待ちわびていたはずの夏休みの入りなのに、少しも気分は晴れなかった。
バレー部のコートはグラウンドの端、姫柾木の生け垣で区切られた場所にある。
グラウンドそのものが校舎よりも一段低い土地にあるため、コートに出入りするためには煉瓦作りの階段を使用しなければならない。グラウンド用には別の階段があるので、この階段は実質バレー部専用、休憩時間にはいいベンチ代わりとなっている。
階段とコートを見下ろす水飲み場で、顔を洗っていた英理に美也は言った。
「この一週間色々あったけど……気持ち、切り替えなきゃね。
綸は強いもの、きっと試合までには戻ってきてくれる。英理にとっては推薦を確定させるための大事な大会で、私にとっては最後の大会。悔いが残らないよう頑張ろうね」
最後?
英理は顔を拭くのもそこそこに、美也の顔を食い入るように見つめた。
銀杏の葉が作る木漏れ日が、白い素肌にちらちら躍る。美也の目は、階段に肩を並べて座り、なにも知らずはしゃいでいる後輩達に向けられている。その中に件の柚の姿もあるが、そのまなざしはいたって静かで穏やかなものだった。
「……美也、今なんて?」
「え? だから、頑張ろうねって」
「違う、そこじゃなくて……最後って言った?」
すると美也は不思議そうに英理を振り返る。
「言ったけど? ほら英理、ちゃんと拭かないと。まだ濡れてるわよ」
英理の頬を拭おうとする手をやんわり押しとどめ、念を押すように尋ねる。
「最後って……中学最後の、ってことだよね」
「違うわよ」
そう言って、美也は驚いたように目を見はる。
英理の鼓動が早まる。
「……美也、W高に行くんだよね?」
「そのつもりだけど」
「バレー部には入らないの?」
英理の動揺は、美也にとって予想外のものだったのだろう。次第に美也の口調も早まっていく。
「え……私、言ったよね? 大学進学率を上げるための学力特待生だって。入学できたとしても成績が奮わなければ途中で打ち切られてしまうし……とても部活なんて入れないわ、ましてや強豪のバレー部なんて」
後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
よくよく考えてみれば、美也の言うことはもっともで、言われずとも察して当然のことだった。
けれど英理は美也が同じ学校に行く、イコールまた同じコートに立てると当たり前のように思い込んでいた。
美人で気立てがよく、マメで賢く身だしなみにも気を配る美也。
ひとりの女子として、級友として、非の打ち所のない美也の親友というポジションでいられるのは、ずっと一緒にバレーに打ち込んできたからだ。
どちらかと言うと寡黙で口下手な英理は、綸のように面白おかしく話題を供することはできない。
一緒に買い物に行って、女の子同士らしくあれこれアドバイスできるようなセンスもない。そもそもあまり興味がない。
かと言って、勉強を教えあうことなど到底できはしない。
趣味も特技もバレーと答えるしかない英理だ。
小学校低学年のときにバレーを始めて以来、二人は常に同じコートの中にいた。
けれど、美也がその枠の外へ出て行ってしまったら。
去っていった綸の背中が脳裏にチラつく。
焦燥感がチリチリと胸を焦がす。
「でも……せっかくW高に行くのに勿体ないよ」
無理なことだとわかっていても、つい口にしてしまう。
「美也なら、W高でもレギュラーとれると思うのに」
美也を引き留めたい。
コートの中に自分を置き去りにして、新たな世界に踏み出そうとする美也を止めたい。
今まで通り隣にいたい。
エゴでしかないのは承知の上だが、どうしても言わずにはいられなかった。
美也は俯き、なにか考えているようだった。
蝉時雨が降り注ぎ、言葉の隙間を埋めていく。向き合い佇む二人の間を熱風が駆け抜けた。
「……して……」
「え?」
目を伏せたまま、美也は微かに唇を動かす。
「……どうして、そんなこと言うの?」
そう言って顔を上げた美也の瞳は潤みきり、今にも雫を零してしまいそうだった。
「バレーを辞めたら、もう私は私じゃないの? バレーを辞めたら、私はもう要らないの? ……英理も私から離れていくの?」
「ちがっ……!」
そんなはずない、それは私の台詞じゃないか!
叫ぼうとしたが、言葉がつかえて出てこない。
「いいよ。もう」
美也は踵を返し、階段の方へ走っていく。すかさず英理も駆け出し、その肩に懸命に手を伸ばす。
「待って、待って美也! 違うんだ、話を……」
聞いて!
最後の一言は喉の奥に貼りついた。
美也が階段に一歩踏み出した途端、足下の煉瓦がグラリ傾いだ。
「きゃ……っ!」
勢いづいていた身体は為すすべもなく宙に投げ出される。一瞬の出来事が、奇妙に長く感じられた。
「美也っ!」
躊躇わず、英理は身を乗り出してその手を掴む。足に力を込めるも勢いは殺せず、英理の身体も放り出される。
美也の悲鳴。
一瞬の浮遊感。
階段の下でこちらを見上げ、息を飲む後輩達。咄嗟に二人を受け止めようと腕を伸べる。
──いけない、無理だ。
これからという後輩達に怪我をさせるわけにはいかない。
「退いて!」
そう叫ぶのが精一杯だった。
美也の頭を胸に抱え込むと、衝撃に備え固く目を瞑った。
英理の記憶はそこで途切れた。
七月二四日
気がついたのは夕べ遅くのことだった。
目を開けると、白い天井、生成りのカーテン、そして泣きはらした目の母がいた。
反射的に起きあがろうとして、身体中に激痛が走る。
見れば、右足ががっちりと固定されて動かない。すでに手術が行われた後だという。
傷のためか、高熱に浮かされたまま再び眠りに落ちた。
そして今朝。
医師は長々と丁寧に説明してくれたが、ぼうっとする頭で理解できたことは一つ。
この先一生杖が手放せなくなりそうだということだけだった。
リハビリを重ねれば自力歩行も叶うかもしれないと励まされたが、言い換えればよく回復してその程度。すなわち英理の選手生命が断たれたことを意味していた。
不思議と絶望感はなかった。
自分自身の落ち着きように驚いてしまうくらいに。
昨夜のうちに同じ説明を受けただろう母が、気丈に振る舞ってくれたことも一つの要因かもしれない。
国外で単身赴任中の父も急遽朝一番の便で駆けつけてくれ、痛々しい娘の姿に目を潤ませたものの、そこは英理の父である。上にかけあい即国内勤務に戻してもらう、これからはずっと一緒だと力強く請け負うと、放ってきた仕事を片付けるため慌ただしく戻っていった。
そうして怒濤の午前が終わると、英理は術後管理室から一般病棟へ移された。
移送の担当をしてくれたのは美也の母親だった。英理はこの時ようやく自分がいる病院がどこなのかを知った。
美也の不注意でと土下座せんばかりの勢いで謝罪されたものの、母も英理自身も不運な事故だと認識していたので、最後には恐縮しきりな彼女を慰めるような形で話を終えた。
大部屋が満室とのことで個室をあてがわれたが、美也の母親による配慮あってのことだろう。
ようやく病室に落ち着くと、母は身の回りを整えるためくるくるとよく動きながら話しかけてくる。
「なんにも心配することないのよ。今までずっと頑張ってきたんだもの、休暇よ休暇」
「そうだね、夏休みに一日中ベッドで寝てられるなんて何年ぶりかな」
「ご飯はどう、おいしい?」
「全体的に塩気が足りない、次来るとき醤油持ってきてよ」
「なに言ってるの、病院の食事は塩分もカロリーもしっかり計算してくれてあるんだから。あんた病院食にどんな期待してたの」
「えぇ……じゃあなんで感想なんて訊いたのさ」
こんな具合に、母は英理を気落ちさせまいと、他愛のない会話を次々振ってくる。
けれど、どこか他人事に思えるほど落ち着き払った英理にはそれが少し重くて、タオルケットを引き寄せた。
「……まだ熱があるみたいでダルい。少し寝る」
「そうしなさい。母さんその間に着替えやタオル取りに、一旦家に戻るわね。夕方にはまた来るから」
「いいよ今日はもう来なくて、母さんがいると煩くて休めないから」
「んまあ、この子は!」
母は英理の額を指で小突くと、荷物をまとめ始める。目を閉じて寝たフリを決め込んだ英理だったが、ドアの音に再び口を開く。
「母さんも休んでね。夕べは寝てないでしょ」
母は肩越しに振り返り苦笑する。
「馬鹿ね、なんにも心配いらないったら。ちゃんと寝るのよ」
「母さんもね。あと醤油ね」
閉まったドアの向こうで、鼻をすするのが聞こえた。
しばらくしてようやく本当の静けさに包まれると、思い出したように全身が痛みを訴え始める。同時に、様々な思いが溢れてきた。
「……美也、どうしてるだろう……」
最初に胸を過ぎったのは親友の顔だった。
美也の母親の話では、掠り傷で済んだということだったが。
娘を助けてくれたことへの謝意はなく、とんでもないことをしてしまったとひたすら頭を下げ続けていた美也の母親。それを思うと、額面通りに受け取り安心していいのか不安になる。
我が子を庇い傷を負った友人の前で、我が子の無事を手放しで喜ぶのも違うとは思う。けれどそれでも一言の感謝もなく、こちらから尋ねるまで美也の怪我にも触れず、ただただ美也のせいでと詫びる様子には違和感を禁じ得なかった。
母が早々に話を打ち切ったのはそのためだろうと英理は感じていた。あれやこれやと喧しいけれど、母が母でよかったと思う。
──あの調子で、なんてことをしでかしたんだと、美也が責められてなければいいけど。
人一倍責任感の強い美也だから、言われなくとも自分を責め抜いているだろうに。
誰よりも優しい美也だから、きっと必要以上に気に病んでいるに違いない。
今頃部活に出ることもできず、閉め切った部屋の中でひとり泣いているかもしれない。
ふと、英理は自分の頬に触れてみた。
ガーゼの上からテープが貼られていて、皮膚の感触が伝わらない。
次いで口許を触ってみる。
唇の膨らみよりも高く上がった口角を認めた瞬間、両腕の肌が粟立った。
いけない。
いけない。
なんてことを考えているんだ、私は。
布団を頭から被り、懸命に憂鬱な事柄に思いを巡らす。
白紙になったW高の推薦、二度とコートに立てない足、不自由な身体で迎える将来、骨の髄から沁み出る痛み──
けれどその様々な暗澹たる事象の奥底で、泥の煮え立つように沸々と、おぞましい粘度と湿り気を帯びたなにかが膨れあがる。泡が弾けるたび、甘い芳香を放って誘いかけるそれから、英理は必死に目を背け続けた。




