花嫁衣装を着る前に
(1)
今夜、五年前に別れた恋人と会うことになった。しかも、その相手は明日、花嫁衣裳を着るという。
どんな顔して会えばいいんだよ。
浦原哲彦は、パチンコ台の前で今日何度目になるか分からない溜め息を吐いた。惰性で打っているうちに玉はどんどんと吸い込まれていった。
純白のドレスに包まれて、皆から祝福されて、明日世界で一番の幸せを手に入れる女。――加藤泉美。いや、加藤の姓も今日までか。明日からは高田泉美。
哲彦には、泉美の考えていることが分からなかった。こんな平日の昼間からパチンコに興じているような男に、かつての恋人は一体何の用があるのだろうか。
ハンドルを回す。でも、もう打ち出す玉がなかった。哲彦は一度舌打ちをして、ポケットから携帯を取り出した。
今朝方泉美から届いたメールを再度見た。彼女からメールが届いたのは五年ぶりのことだった。『さようなら。元気でいてね』あの日以来だった。
届いた時刻は午前十一時十五分。哲彦が丁度パチンコでも打ちに行くかと寝起きのぼさぼさ髪のまま、家を出た時のことだった。そろそろクリスマスが近いからバイト先の女子高生がシフトを変わってくれませんか、そんなメールだろうと面白くない気持ちでいた。ところが、相手の名前は表示されなかった。「あれ?」と思ったが、ディスプレイに表示される長いアドレスを見て、哲彦にはすぐメールの主が分かった。別れてから、メールのアドレスを削除して五年以上は経つのに、哲彦はそのアドレスが誰のものであるか、自分でも嫌になるぐらい――アドレスは削除しても、自分のアドレスを変えようとしなかったところが女々しい――あっさりと分かった。
『哲彦くん久しぶり。突然なんだけど、良かったら今夜会えないかな?』
思わず携帯を硬いアスファルトに叩き付けそうになったが、寸前のところで思いとどまり、もう一度彼女の指が紡いだ文章を読んだ。
――会えないかな? ――会えないかな?
哲彦は『分かった』と一言だけ、素っ気ない返信をした。
三分も経たないうちに時間と待ち合わせ場所を指示するメールが返ってきた。それには返信しなかった。
そうこうして歩き出したはいいが、哲彦は危うくアパートの階段を踏み外しそうになった。哲彦はやれやれと自分に肩をすくめ、一旦、心を落ち着けるために階段に腰掛けた。
確かに、あいつは気まぐれな女だった。しょっちゅう深夜にメールを寄越すは、一度機嫌を損ねたらこちらが謝りたくてもなかなか連絡に応じてくれないわで、気まぐれの塊みたいなやつだった。
だけど、今回ばかりは分からない。どうしてこのタイミングで? 大学時代の下世話な同級生がわざわざ伝えてくれるから、それからの彼女のことは逐一知っていた。一流企業に勤める大学時代の同級生(彼のことはよく知っている)と晴れて結婚すること。時が流れ、その日取りが明日だということも。
結婚式の案内状は当然届いていない(そりゃ元彼は呼べないだろう)。余興で何か歌を披露することも、笑いあり涙ありのスピーチをするわけでもない。
なのに、どうして今になって会う必要がある? 自分の中ではもう完全に終わったものだと思っていた。金輪際のつもりで別れたはずなのに、泉美はそう思っていなかったのか? いや、そんなはずがない。俺たちは表面上は穏やかに、でもひどい別れ方をした。
――先輩、私、泉美さんの代用品でもいい。
傷つけたあの子を想って、一瞬だけちくりと胸が痛んだ。
自分自身、何故あのメールを無視しなかったのか。コーヒーにこぼしたミルクのように哲彦の心は複雑怪奇なものになっていた。
ただ、一つだけはっきりしていることは、過去との決着。これに尽きるのだろう。
明日になれば、明日の式が終われば、泉美の人生から浦原哲彦という男の存在は消えてしまうだろう。二人は各々の人生を生き、二度と交わることなく……。
それで良かったはずなのに、泉美は俺に何を求めているのだろう。
肩を叩かれ、哲彦は我に返った。振り向くと、パチンコ店のスタッフが眉を顰めて立っていた。
「お客さん、台を叩かれると困りますよ」
その時になって気づいた。自分はいつの間にか、左の拳を台に、そして台にもたれかかっていた。
「あ、あ、失礼しました」
顔が赤くなった。哲彦は携帯をポケットにしまい、逃げるようにして店から飛び出した。
店から出ると、騒音が嘘みたいに消えた。目の前を買い物袋を下げた主婦。きゃははと笑い声を上げる女子高生。溜め息をつくサラリーマン。皆が皆、何らかの形で年末に追いかけられているようだった。
ふと空を見上げると気の早い一番星が輝く時間帯になっていた。吐く息が白い。口笛のような甲高い風が吹き、ぶるりと体が震えた。芯から凍えそうだった。そういえば今夜は今年一番の寒波がどうとか言っていた。
あぁ、確かに寒いな。だけど、心の中はふつふつと熱い。
五年ぶりか……。
約束の時間までまだ一時間はある。どこかぶらつこうか。ここでじっとしていたら、体が凍えるし、出口のない迷路のようなものをずっと彷徨うはめになる。
交差点の信号待ち、哲彦は思った。
俺はあいつに言えるだろうか。「結婚おめでとう」と。あまり自信がない。なら、言葉じゃなくて祝福の気持ちを花束にして贈ろうか。
泉美に真っ赤なバラの花束を贈る姿を想像して、哲彦は思わず苦笑いした。似合わないな、そんなの。
コンビニで立ち読みでもしながら時間を潰そうと思った。
(2)
コンビニで時間を潰した後、待ち合わせの場所には五分前に着いた。駅前のファミレス。
紺のコートにジーンズの泉美が、白い息を吐きながら入り口に立っていた。
泉美の姿を見た途端、胸の奥がかぁっと熱くなるのを感じた。
艶やかな長い黒の髪、冬の三日月を思わせる切れ長の瞳、すらっとなだらかな線を描く鼻。一見、近寄りがたい雰囲気。奇跡的だと思った。全てがあの頃のままだった。堪らないほど彼女を愛していた大学時代。時が五年前に戻ったのかと哲彦は一瞬だけだが錯覚した。
安物のダウンジャケットのポケットに突っ込んだ手を硬く握り締めた。
用意してきたいくつもの言葉が出てこない。泉美の変わらぬ美貌の前に、哲彦は金縛りにでもあったかのように立ち尽くした。店の明かりに照らされた彼女の横顔がほんの少し不安げに見えたから、早く声をかけたいと思った。なのに、口がぱくぱく「あ、あ」だの「い、ず」だのと動くばかりだった。
そんな情けない振る舞いをしているうちに、泉美の方が哲彦に気づいた。泉美は、哲彦を見た途端、不安げだった表情をぱっと一瞬のうちに輝かせた。
「哲彦くん久しぶり!」
一拍間を置いて
「よ、よお、久しぶり」と、ぎこちなく手を上げて応えた。
泉美は笑顔のまま、哲彦のもとへ走り寄って来た。
「うわぁ、凄く嬉しい。なま哲彦くんだ。元気してた?」
鉄仮面の女が少女のようにくしゃりと笑う。こんなの卑怯だ。五年前のあれこれなんてなかったかのように、百人の男を虜にする笑顔が、また胸の奥をかぁっと熱くした。哲彦もつられてくしゃりと笑った。
「なま哲彦くんって何だよ。俺は俺だよ」
「そうね。哲彦くんは哲彦くんね」
泉美はそう言って、哲彦の手を握った。冷たいと思ったのは一瞬で、あとは彼女の掌の温もりと自分のが混ざり合い、すぐにもともと一つの物体であったかのように馴染んだ。
「こんなところで立ち話もなんだから早くお店に入りましょう!」
哲彦の手を引っ張りながら、泉美は無邪気に笑った。この女は明日、本当に自分じゃない誰かと永遠の愛を誓い合うのだろうか。ふと疑ってしまいそうになるほど、彼女はあまりに無防備過ぎやしないかと哲彦は手を引っ張られるまま心の片隅で危惧した。
危惧する心を持ちながらも、哲彦は自分は罰当たりなやつだと思った。
……俺は、やっぱり今でもこの女を愛しているんだな。
二人の夜は、こうして始まった。
哲彦と泉水は、奥の席に座った。喫茶店や飲食店とどこかの店に行った時、泉水はよく奥の席に座りたがった。何故なのかは知らない。好みもしくは癖みたいなものだろうと付き合っていた当時思っていた。今日は、人目を忍ぶためだろうか。
「さてと、何食べようかしら?」
上機嫌に鼻唄でも歌いだしそうな泉水に聞く勇気はなかった。
メニューが決まり、ウエイトレスにハンバーグ・エビフライセットとミートドリアを頼んだ。「かしこまりました」とウエイトレスがいなくなった後、哲彦は水を一飲みした。この店は暖房が効き過ぎている、そんな風に心を誤魔化しながら。体温を上げる原因は、目の前でにやにやと笑みを浮かべている。
「何だよ」
「哲彦くん。相変わらず子どもっぽいものが好きなのね」
かぁっと顔が熱くなるのを感じて、哲彦はつい言い返した。
「泉水こそあの頃と変わってないじゃないか。俺はてっきりキャビアやトリュフなんて言い出しやしないかと思って冷や冷やしていたよ」
言った後で少し嫌味っぽいかなと思った。しかし、泉水はさして気にする様子なく
「いくら高田くんがいっぱい稼いでいるからって、そんな高価なもの口にする機会はないわよ」
さらりと答えた。
「そうだよな。変なこと言ったな」
「ま、年に一回ぐらいは口にするけど」
やられた。泉水は哲彦の言葉に眉を顰めるどころか、一枚上手だった。
「泉水、腕を上げたなぁ」
「そりゃ、私だってもう子どもじゃないもの」
「え~と、来月で二十――」
「哲彦くん。むやみに女性の年齢言ったりしないの!」
泉水の突っ込みが入って、二人して笑った。あの頃のように。何のわだかまりもない笑顔で。
哲彦は、笑いながら寂しかった。泉水との距離が遠くなったような気がしたからだ。昔はちょっと茶化しただけにすぐに臍を曲げていたのに……。あの頃の記憶が今になって胸を締め付ける。
だから、かつての泉水の残り香を探した。
「……泉水」
「なぁに?」
泉水はテーブルに頬杖を突きながらにやにやと悪戯っぽく笑っている。哲彦は、泉水が着ていたコートを指差しながら言った。
「そのコートさ、学生時代から着ていたやつじゃねえの?」
泉水は、目を見開いた。
「へぇ、哲彦くんが私の着ているものに関心を持つなんて意外!」
「そりゃまぁ、あの頃と同じ格好をしていたらよ、物持ちいいなぁて多少驚きはするさ」
泉水は哲彦の言葉を聞いてから、一つ溜め息を吐いた。
「『物持ちがいい』より、そこは『似合ってる』とか『今夜は格別綺麗だな』とか言って欲しかったかな、女心としては。哲彦くんこそ、そういうとこ昔から変わらないね。……でも、そうね。これ、哲彦くんと付き合っていた頃からのよ」
お前も嫌な奴だなぁ、と喉元まで出てきた言葉を寸前のところで飲み込んだ。何も今日に限って昔を思い出させる格好をしなくてもいいのに……。
そんなことされると、あれこれいらんことを勘繰ってしまうじゃないか。
「――お待たせいたしました。ハンバーグ・エビフライセットとミートドリアでございます」
次の言葉に困っていたところ、ウエイトレスがやって来た。
哲彦はほっとした気持ちで自分の分を受け取った。泉水はミートドリア。
「じゃあ、とりあえず食べようか」
「そうね。冷めないうちに」
何だか茶を濁した形になった。
さて、エビフライにフォークを突き刺し、食べようかとした時だった。
泉水にじっと見つめられていることに気づいた。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「寝癖凄いね。あと無精髭も……」
「俺もあの頃のままってことだよ」
それっぽく答えたら「それは成長してないだけじゃないの?」と呆れられた。
「美月ちゃんとデートする時もそんな感じなの?」
泉水の口から美月の名前が出て、どきりとした。フォークを持つ手が宙で止まった。
――先輩、私、泉美さんの代用品でもいい。
「美月ちゃんと今でも続いているんでしょ?」
――先輩、私、泉美さんの代用品でもいい。
「あ、まぁな」
素っ気ない答え方にも関わらず、泉水はパッと顔色を輝かせたが、すぐにお母さん染みた表情になって哲彦を叱った。
「なら、なおさら駄目じゃないの。今時、美月ちゃんみたいな子いないわよ。大事にしなきゃ。身だしなみを整えるのは、最低限のエチケットじゃないの」
「美月とデートする時は、寝癖も直すし、ちゃんと髭も剃るよ。服だってまぁそれなりのものを、な」
「あら? じゃあ、もしかして私、哲彦くんに軽く見られてるわけ?」
泉水が怒ってこんなことを言っているわけじゃないのは分かっている。ただ、焼き餅を妬いたふりしてからかっているのだ。同時に哲彦と美月の仲を茶化して。その証拠に口ぶりの割に目が笑っている。軽口の応酬を期待している目だ。しかし、哲彦には上手い返しが浮かばなかった。
「まぁ、その話はいいじゃないか」
下手な逃げ方だと自分でも思った。泉水は二、三度瞬きして「まぁ、いいわ。許してあげる」と軽く言った。これ以上深入りしてこない泉水の心遣いに、哲彦は心の中でこっそり感謝した。
「でも、すっごい寝癖」
「うわ、触るなよ。これでもセットに八時間かかったんだぞ」
「寝てただけじゃないの!」
これでいいんだ。これで。泉水とはしたくない。美月の話を。
「そっか。哲彦くんは今でも夢を追いかけているんだね」
「まぁな。一次や二次で落とされてばかりだけどな。デビューへの道のりは遠いよ」
哲彦はそう言って片付いたテーブルの上に突っ伏した。そう。夢はまだまだ遠い。
食事は済み、現在はコーヒータイム。と言っても、コーヒーに手はつけることはなく、哲彦と泉水はひたすら近況の話に花を咲かせていた。
泉水は高田との結婚が決まってからは、実家で厳しい花嫁修業をしているとのことらしい。茶道の先生をしている母親からびしばし鍛えられているとのことだが、泉水に言わせれば高田はコーヒー派だから、いくらお茶の入れ方が上手くなっても……だそうだ。「相当まいっているんだな」と哲彦が笑うと、泉水は「笑い事じゃないわよ」とむくれた。
泉水の話が落ち着いてからは、哲彦が喋る番だった。泉水と別れてからどんな人生を歩んできたか。哲彦は夢のことを中心に語った。
哲彦は高校生の頃から作家という職業に憧れ、いつかなりたいと願っていた。理由は何だっただろうか。今となってはよく覚えていない。たぶん社会に出たくないとか、人に頭下げるような人生は送りたくないとか、高校生だった頃の自分は馬鹿げた考えでいたことだろうと思う。それが時が経つにつれ、自分の書いたものを世の中に出したい、腕一本で世の中を渡っていきたい、と変わってきたのだろうか。三〇手前になってもバイトで食いつなぐという生活を送りながら、哲彦は今も夢を追い続けている。
しかし、夢の壁は高い。出しても出しても、一次や二次で落とされてしまう。恥を忍んで言えば、大学時代に初めて投稿した作品が自分のピークだったということになる。その作品は三次まで突破した。あの時は泉水と手を取り合って夜通しはしゃいだものだ。友達という友達に連絡して、自分の名前が載った雑誌を何度も何度も携帯のカメラで取って(国の両親には連絡しなかった。「作家なんて馬鹿げた夢なんか見るな!」と怒られそうだったから)、あの頃は何もかもが楽しかった。人生の中で一番眩しい時だった。
泉水がコーヒーカップを手にして言う。
「あの頃の哲彦くんは凄かったよね。会う人会う人に、『俺は作家になるんだ』『俺の書いた本でいつか日本中を感動させてやるんだ』って言っていたもんね」
泉水は楽しげだが、今の哲彦にとっては赤面ものの過去だ。若気の至りとしか言いようがない。あの頃は在学中にデビューしてやると本気で思っていたが、どうにも調子が良かったのは最初に出したもの一発だけで、あとはずるずる……と気がつけば三〇まであともう少しというところまで来てしまった。今でも精一杯頑張ってはいるのだが、当時を知る人の声にはやはり羞恥を覚えてしまう。
「恥ずかしいから過去の話は止めてくれよ。この現状じゃ馬鹿みたいだよ」
机に突っ伏したまま、哲彦の声には力がない。
泉水は「馬鹿なんかじゃないわ」とかぶりを振った。
「そうやって夢を追い求めるって素敵なことだと思うわ。ほとんどの人が夢を途中で諦めて、別の道で妥協しながら生きているのに、哲彦くんの目は立派だよ。今でもきらきらしてる」
「かつての恋人にそう言ってもらえると少しは励みになるよ」
哲彦はゆっくりとした動作で顔を上げた。頬杖を突く。かつての恋人の優しさに甘えて、ほんの少し本音を続けたくなった。
「でも、今のままでいいのかって思う時もあるよ。正直、そろそろ年だから、せめて職ぐらいは見つけた方がいいのかなぁって。夢は追い続けるけれど、もう少し地に足つけた生活を送るべきなのかなぁって。
それに俺、泉水が言うほど真っ直ぐに生きているわけじゃないよ。この頃は迷ってばかりさ」
「そっか。夢も追うのも大変なんだね」
しみじみと言われた。
「あぁ。大変だよ……でも、絶対諦めない」
最後の一言は泉水の前で格好つけたかったわけじゃない。倒れそうな自分への、せめてもの意地だった。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
泉水がぽつりと呟いた。
「……哲彦くん。やっぱり私と違う世界で生きてるね」
哲彦の目は自然と窓の外へ向いた。
泉水が覚えているかどうかは分からない。ただ、それは大学卒業を控えても就職活動の一つもせずに「俺はずっと夢を追うよ」と言った哲彦に告げた別れの言葉だった。泉水は困ったように笑っていた。
泉水は、その言葉を告げた一週間後に明日愛を誓い合う相手――高田隆弘とホテルで寝た。
窓の外を流れる車は、流れ星のように通り過ぎたかと思えば、次の瞬間、視界から消えている。色鮮やかな流れ星を五つほど見送った時だった。
「哲彦くん」
「何だ」
「あの作品、今でも持っている?」
「『秘密の夏』のことか?」
哲彦が生まれて初めて投稿した作品。超えることの出来ない最高傑作。泉水とお互いの両親に黙って五泊六日の旅行をした時の思い出。
「うん。もし持ってたら、また読みたいな」
「いいよ。泉水が花嫁衣裳を着た後に。……いつか、な」
それから言葉が続かなかった。その先、続けたかった言葉は何か、それはきっと永遠に分からないだろう。分からなくていいと思った。それでいいんだと。
「私、幸せになれるかな?」
その問いは、瞳を見て答えるべきだと思った。だから、窓と睨めっこするのを止めた。
「なれるさ」
偽りのない気持ちだった。
「なら、あと一件付き合ってくれないかな?」
「どこ?」
「お酒のある場所」
艶のある目を向けられても、不思議と心はざわめかなかった。もしかしたら、心の奥底でこういう展開になることを分かっていたからかも知れない。
嫁入り前の女がかつての恋人と酒を飲むなんて、そんな常識今はどうでも良かった。
「幸せになる前に、どうしても聞いておきたいことがあるの」
「分かった。そういうことなら付き合うよ」
最後の夜に望む答えは何だろう。胸に問いかけた。胸の奥、空洞になっている部分に問いは響くばかりで形のある答えが返ってこない。
答えは、その時見つければいい。
支払いを済ませ、店を出た。
一つ底冷えのする風が吹いた。泉水は哲彦の腕に自分の腕を自然と絡ませた。
答えが出るまではひと時の夢に酔いしれようと、哲彦は思った。
午後九時十七分。二人は夜の街へ消えていく。
(3)
泉水と訪れたバーは、過度な装飾を排除したシンプルな造りの店だった。照明は明る過ぎず暗過ぎず。洒落たジャズミージック。マスターはロマンスグレーが渋かった。適当に彷徨いながら探した割に、なかなかいい店だった。
カウンター席に座り、哲彦はジントニック。泉水はバーボンを頼んだ。
乾杯の言葉は、「泉水の幸せに」「哲彦くんの夢に」だった。
哲彦はジントニックを一息で半分飲んだ。爽やかな香りがすっと鼻を抜けた。
泉水はちょこっとだけバーボンを口に含んで、琥珀色の液体に浮かぶ氷をカランカランと転がして遊んだ。
「何だか不思議な気分」
「何だ、もう酔ったのか?」
泉水は「そんなわけないじゃない」と微笑んだ。目がとろりと据わっている。
「哲彦くんとこうしてお洒落なバーでお酒を飲んでいることが不思議なの」
「そうか? 飲みなんて大学時代、しょっちょうサークルでやってたじゃないか」
「あんなの、飲んでいるうちに入らないわ。騒ぐために飲んでたようなもんだし。私、大人のお酒ってもっとしっとりしたものだと思うわ」
「言うようになったな。お前、昔は酒って名前がつけば何でもぐいぐいいってたじゃないか」
「失礼ね。人を飲兵衛みたいに」
「実際、そうだろう」
泉水は「ふん」とバーボンを飲み干した。いい飲みっぷりだった。泉水はバーボンのお代わりを頼んだ。泉水はバーボンのお代わりを手にしながらしみじみと言う。
「……でも、哲彦くんもお酒飲めるようになったのね。昔は全然飲めなかったのに。ジン・トニックだなんて生意気」
泉水はそう言って、哲彦の頬を指でつついた。思わず固まった。
「酔っていると思うでしょ?」
「あぁ」ぎこちない声が出た。
泉水は「ふふん」と笑いながら
「酔っているかも」
哲彦が「飲み過ぎるなよ」と釘を差そうとした時だ。泉水が遠い目をしながら言った。
「懐かしいなぁ。こうして哲彦くんとお酒飲むの。……あの頃の哲彦くん、凄く弱かったよねぇ」
「今もそんなに強くはないけどな、まぁ人並みには飲めるようになったよ」
「本当?」泉水が小首を傾げた。
「だと思うよ」泉水の中の人並みがどのぐらいの基準かは分からないが。
「でも、哲彦くんがお酒弱かったから、私達昔付き合っていたのよね」
「そうだな」
苦いビールのような思い出が、ふと哲彦の脳裏に蘇る。
浦原哲彦、加藤泉水、高田隆弘は大学時代、ボランティアサークルの同期だった。ボランティサークルと言っても、そう大層な活動をするわけでもなく、週に一回の校内清掃、あとは年に二、三度校外での活動をする、そんな微々たるお気楽サークルだった。そのくせ、飲み会だけはやたら多かった。というより、そちらの方がメインのサークルだった。
飲み会ではひたすら騒いだ。将来のことなんか何も考えず、今という時間を楽しむだけ楽しんでいた。歌ったり踊ったり、学年なんか気にせずに肩を組んで語り合い、時には誰かの恋の話を冷やかしたり、野次を飛ばしたり……。大学を卒業してからあの頃の夢を見て、懐かしむことは多々あった。いい思い出だ、と。ただ、あの頃は酒が飲めなかった。まったく飲めないというわけではなかったのだが、単純に弱かった。なのに、飲めない男なんて格好悪いという思い込みに囚われていた若き日、無茶をしてよけい格好悪い姿を何度人前で晒したことか。
けど、結果として飲めないくせに無茶するそんな自分がいたからこそ、泉水と縁が出来た。飲み会のたびに引っ繰り返ったり、吐いてを繰り返しているうちに、いつの間にか「哲彦係」というお守り係が出来、その係に任命されたのが同期の中で一番酒の強かった泉水だった。哲彦係に任命された泉水が言い放った言葉を、哲彦は今でも鮮明に覚えている。「あなたにお酒の飲み方を教えてあげる」ようは、色んな種類のお酒を無茶苦茶飲まされただけだった。
それ以来何かと一緒にいる機会が多くなり、そして過ごす時間の長さに比例して仲良くなり、哲彦と泉水は付き合うようになった。告白したのは、大学一年の冬、後期試験が終った日の飲み会後だった。皆が帰った後、酔い覚ましに歩いて、公園のブランコに揺られながら……。
加藤泉水に彼氏が出来た、というニュースに何人の男が枕を濡らしたかは知らない。美人で大人(付き合ってみて、案外そうでないことに気づいたが)の泉水は、当時学園のアイドルだった。
明日、泉水と結婚する高田も、当時哲彦を羨み、半ば妬んだ男の一人だった。泉水が哲彦と付き合い始めたことを知った日、高田は「俺も酒弱ければよかった」とコートのポケットに手を突っ込みながら笑っていた。
「――ワインを一つ」
哲彦がふと過去から我に戻ると、泉水はいつの間にか二杯目のバーボンを飲み終え、新たにワインを頼んでいた。
マスターはちらと哲彦の方を一瞥し、哲彦の目が渋々ながらも「どうぞ」と言っているのを確認してから、ワイングラスにワインを注いだ。
笑顔でワインを受け取る泉水を見て、哲彦は一度顎をさすり、ちょっとペースが速過ぎやしないか、と心の中が曇るのを感じた。
「泉水、二日酔いで結婚式は洒落にならないから、その一杯で終わりにしとけよ」
泉水は柄にもなく子どもっぽい駄々をこねた。
「いや。もっと飲む」
「いやって……お前、俺と朝を迎えるつもりか?」
からかうつもりで言った。
「それもいいかもね」泉水もさらりと冗談のように答えた。
哲彦のグラスを掴んでいた手に力が入る。
「本気か?」
泉水の目を見た。とろりと据わった瞳がやけに妖艶に映る。
「一夜だけなら、いいわよ」
笑顔がすっと消え、大人の女の顔になった。万華鏡のような美しい変わり方だった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。心の隅でそうなることを期待していた自分がいたくせに、だ。いざ禁断の言葉を耳にすると、情けないほどに狼狽してどう答えていいのか分からなかった。
常識を破ろうと、今日出向いてきたのに、ここに来て常識という枷に囚われた。
深い葛藤の末
「……泉水、出よう。駅まで送るから」
哲彦は絞るようにして言葉を発した。ジントニックの氷は全て溶けていた。
哲彦が立ち上がろうとすると、泉水は彼のダウンジャケットの袖を掴んだ。途端、哲彦は拳を固く握り締め、奥歯を噛み締めた。鈍い音が頭の中に響く。
「駄目……」
泉水の睫毛は濡れていた。
「私、私……」
アルコールに酔いしれた声が、官能的に耳に絡んでくる。
哲彦は邪念を振り切って、固く閉ざしていた口を開いた。
「駄目だよ、泉水。男は馬鹿だから、すぐその気になる」
泉水は哲彦を引き寄せた。か弱い女に引かれ、哲彦はもう一度腰を下ろした。
「いいよ。……哲彦くんだって、こうなることが分かってて、ここまで……ううん。今日来てくれたんでしょう?」
そうだ。そうだ。そうだ。俺はこうなることを分かっていながら、今日泉水に会いに来た。ずるい男だ。誰か笑ってくれ、俺のことを。誰か蔑んでくれ、ずるい男を。
抱けるものならもう一度抱きたい。かつて愛したこの女を。その先にどんな破滅が待っていようとも、目の前で瞳を潤ませている彼女の魅力には抗えない。
抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。
でも、……断腸の思い。唇を噛む。やっぱり抱けない。
――先輩、私、泉美さんの代用品でもいい。
泉水を――いや、美月のことをもう二度と傷つけたくないから。
「ねぇ、哲彦くん」
胸の奥に閉じ込めておきたかった記憶を、泉水はこじ開けようとしている。
「本当のことを言って」
止めてくれ。俺を苦しめないでくれ。
胸の奥に閉じ込めておきたかった記憶を――泉水は今、こじ開けた。
「あの時、先に浮気をしたのはどっち?」
あの時、自分の心にあったのは逃げだっただろうか。
「俺はずっと夢を追うよ」
そんなつもりはなかった。四六時中夢を追いかけようという人間に働いている暇などないと思っていた。
逃げじゃない。自分は戦うために、退路を断ったんだ。さながら勇者のように。
その答えが二人の関係にどんな楔を打ち込むことになったのか今なら分かる。あの頃の自分は子どもだった。作家、二人で支え合いながら育める夢だと本気で思っていた。現実の世界で生きる泉水は、いつしか哲彦の夢についていけなくなっていた。
「……哲彦くん。やっぱり私と違う世界で生きてるね」
泉水は困ったように笑っていた。
泉水はそうして高田のもとへ行ってしまった。高田はその頃、一流企業への就職を決めたばかりで……いや、何より泉水のことを愛していた。夢に生きようとする哲彦より。
泉水のことを恨みはしなかった。幸せになってくれ、ただそれだけを願って、哲彦は身を引いた。
一人の女の子を傷つけて……。
「俺だよ」
百回言っても変わらない答えだった。
泉水は、哲彦の答えが分かっていたかのように目を伏せた。
哲彦は続ける。
「俺が先に浮気した。後輩だった朝倉美月と」
泉水は何も言わない。
「だから、泉水は何も悪くない。当然のことだ」
泉水が高田のもとへ走った時、哲彦が危惧したことはスキャンダルだった。仮にも学園のアイドル。寝取った男は品行方正で通っていた同サークルきっての秀才。どういう事情があったにしろ、二人がどろどろとした好奇の目に晒されることは火を見るより明らかだった。
だから、二人の名誉を守るために哲彦は、サークルの後輩だった朝倉美月の心を利用した。
当時、自分に懐いていた後輩の気持ちを利用することで、二人の浮気を隠した。自分も美月と寝ることで浮気の順番を入れ替えることにしたのだ。
周りに言い張ればいいのだ。「先に浮気したのは自分達だと」。それで二人の名誉を守ることが出来る。実際、出来た。美月は言うまでもなく、上手く口裏を合わせてくれた。「何で?」と聞きもしなかった。たぶん分かっていたのだろうけど。
結果、哲彦のエゴに付き合った美月は、哲彦とともに周りから白い目で見られ出し、せっかく馴染んでいたサークルを、気まずくなり辞めざるを得なくなった。
それでも美月は哲彦に恨み言一つ言わなかった。
――私、先輩の夢をいつまででも応援します!
美月は今時珍しい文学少女で、それで作家を夢見る哲彦と気があい、懐き、そしてその純真な気持ちを利用された。こんなにも残酷なことをしてしまう自分は碌な死に方をしないだろうと思う。もっと楽しい大学生活や人生の可能性があっただろうに、こんな駄目男に惚れたせいで、美月のことは可哀想だとも哀れだとも思う。
一人の女を守るために、一人の女を傷つけた。
あの日、あの時、哲彦の腕の中
――先輩、私、泉美さんの代用品でもいい。
泉水にさよならを告げられた時より、胸が抉られた。
偽りの愛だと分かっていながら、朝倉美月は、浦原哲彦を今も愛し続けている。
「――そう言うと思った」
泉水は、ようやく沈黙を破った。
哲彦は、泉水の目をまともに見れなかった。薄くなったジントニックを喉に流し込んだ。
「哲彦くんは、きっと何回聞いたって、同じように答えるんだと思う。そうでしょう?」
「さぁ? どうだろう」
「私ね、哲彦くんに償いがしたかった」
「……それが、俺と一夜をともにすることか?」
泉水の心を想うと、胸が張り裂けんばかりに痛い。さよならに苦しんでいたのは、自分だけじゃなかったのか。
だが、だがな、泉水。その償いは間違っている。
哲彦は自分の心が怒りに震えているのか、悲しみに暮れているのか、優しい言葉を探しているのか、分からなかった。もしくは全てが混ざっているのかも知れない。
泉水と向き合い、言う。
「それはわがままだよ、泉水。お前の気はそれで済むかも知れない。でも、その答えじゃ高田や美月のことを傷つけることになる」
大粒の涙が一つ、テーブルに落ちて弾けた。
卑怯者とわがまま。そんな二人が、かつて愛し合っていた。それだけの話。もう、終った話だ。
哲彦は、泉水の肩を抱き寄せた。これが、哲彦が泉水に示せる精一杯の優しさだった。
「……ごめんなさい。……ごめん、なさい。私、いつもわがままで、哲彦くんのこと……傷つけて、ばかり、で……ごめんなさい」
肩を抱く五分が永遠のように思えた。
「なぁ、泉水」
泉水は肩を震わせながら、かろうじて「なぁ……に」と答えた。
「お前はさ、明日世界で一番幸せになる女なんだろう」
泉水はこくりと哲彦の胸で頷く。
「ならさ、いい加減泣き止めよ。主役が瞼腫らして式に臨んじゃ格好つかないだろう?」
「それも、そうね……」
まだ声が震えている。けれど、微かに笑った。
泉美は指先で涙を拭いながら
「……じゃあ、そろそろね」
時計の針は、もうすぐ十二時を指そうとしていた。良い子と花嫁はもう眠る時間だ。
「そうだな」
「私、一人で帰れるから。ここで」
泉水はバッグを持って立ち上がった。哲彦は座ったまま片手を挙げる。
「あぁ」
「じゃあね」
「――泉水」
未来に向かって歩き出す泉水を呼び止めた。彼女は振り向いた。
その時、哲彦がどんな顔をしていたか、知るのは泉美とロマンスグレーのマスターだけだ。
「幸せになれよ」
「うん。さよなら、哲彦くん」
一夜の夢は、こうして終った。
(4)
泉美と別れた後、哲彦は美月に電話をかけた。優しい声が聞きたかった。
美月は泣いている哲彦を慰めた。何故泣いているのか、わけを聞こうとはしなかった。美月は哲彦の涙をいつまでも静かに受け止めてくれた。
今日、一つの過去と決別した。決別した過去は、明日になれば忘れられるだろうか。
分からない。今はただ、泣かせてくれ。
哲彦は願う。
優しい美月。いつかは君の傷を癒したい。
過去を乗り越えることが出来たら、君の傷を癒せるだろうか。
哲彦は願う。
偽りから始まった愛。
それがいつか真の愛に変わることを――美月が花嫁衣裳を着る前に。
今回、演劇の台本(処女作)を大幅改定して、小説で書いてみました。
熱量のある文章、どこか余韻の残る話を目指して書きました。
感想を頂けたら嬉しいです。
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