そらとぶゆめ
もう、随分と昔のことです。砂漠を旅したことがありました。
そこでは湿り気を失った土が、互いに手をつなぐ力も失くしておりました。サラサラの粒に砕けて幾重にも重なりながら、涯てもなく広がりながら、死の眠りを貪る場所でした。眠れる土はさながら海のごとく、視界の限り、うねり波打ち、横たわっているのでした。もっとも、絶え間無くざわめき時に唸り怒号を放つ海と異なり、常には、そこには沈黙、静謐、静寂のみが棲まうのでした。ただ微かに風が地を撫でることでもあれば、足下の細かな砂粒達は束の間目を覚まし、流れ、古い波を崩し新しい波へと姿を変えながら秘密の言葉を囁き合うのです。風が悲鳴を上げることもありました。嘆きの精霊もかくやと思しい、鋭く尾を引く胸を切り裂く叫びでした。
陽の天にあるうちは、灼熱の箭が砂を焼き、身を焦がされる、ばかりではなく、乱反射した煌きに目までを灼かれ、悲しくもないのに涙がこぼれたものです。
また陽が落ちた後は、殊に月の明るい夜更けには、大地を仄かに光らせ浮かび上がらせる輝きの、あまりに冷たい凍れる色に、本当に、何故とは無しに哀しみを覚えて涙をこぼしたものでした。
涙が出たのは初めのうち。
ほんの初めのうちだけでしたけれど。
私には連れがおりました。
不思議な連れでした。年齢というものを感じさせない優しげな顔立ちをしておりました。小柄でほっそりとした体躯といい、機敏な所作といい、見た目には少年のようでもありました。けれども瞳の奥に宿る翳り、時折見せる思慮の深さ知識の豊かさに、並大抵ではない時の刻んだ年輪を垣間見ることもあったのです。
彼と行を共にできたのは私にとって幸運と言えましょう。様々な局面で彼は私の旅を助けてくれました。常ならぬ何かの方法にも彼は精通していると思われました。
遠い国から来たのだと語ってくれました。
波濤泡立つわだつみを越え、剣の如き峯峯を越えた彼方。名も聞き知らぬ幻の国。
「そこが私の故郷です。私が本来在るべき場所。魂の終の棲処となるはずだった」
眸の翳りに沈痛の蒼の一滴を落して。
「私は探索の旅に出たのです。或る大切なものが失われ、それを見つけ持ち帰る役目に選ばれたのです。そうして故郷を離れたのです」
ひときわ月の冴えた美しい夜でした。私どもはさる小さなオアシスで、久方振りに屋根の下にくつろいぐことができたのでした。夕食を終え、眠りに就くまでの僅かな時間、私は寝台の上で肘で杖をついて横になっておりました。彼は鎧戸を薄く開けた窓の脇のざらついた壁に身をもたせ掛け、立っていました。水無き海を眺めていました。
隙間から忍び入った月光は、彼の短い白い髪や色の乏しい肌の上に仄かに映え、陰影を添えていました。
私は彼の来し方を問うたことを、少しばかり悔いる心持ちになっておりました。
表情に変化はありません。口調は淡々と乾いていました。けれど月影に明暗を塗り分けられた面は妙に年老いて見え、疲れ果て、今にも崩折れそうにも見えました。呟くに似た声は、闇夜に道を失った家に帰りつけぬ子供の嘆きとも聞こえました。
「何度も、目的のものにあと一歩というところまで近付きました。そのたびにそれは、私の手を擦り抜けました。姿をくらまし私の希望を虚しくさせました。翻弄されるままに彷徨い、故国への道を忘れ、何を追っていたかも忘れ、追跡の意味すら失い、時には過去の希望も絶望も全て捨て去りこの異郷に朽ち果てようとも思うのです。けれど故郷への憧憬は消し去り難く未だ胸に燻り続け、為にこのように旅の終りを見ずにいるのです」
私は瞼を閉じました。枕に頭を預け、彼の姿を閉め出しました。けれど以来、この夜の光景は何度も夢の中に顕れたのでした。
また幾月かが過ぎました。
長く、人の棲むことも適わぬ土地をひた歩き、手持ちの水の残りにも不安を覚えるに至っていました。その日、私達は砂丘の彼方に黒い巨大な影の建ち並ぶのを見たのでした。一瞬前には存在していませんでした。蜃気楼かと疑いました。しかし、それは消えず、風にも揺るがず、確固として目の前に存在を誇示しているのでした。
訝しく、首を捻る私の前に立って彼は躊躇いもせず、立ち並ぶ影へと向かって行きました。私も恐る恐る、彼の後ろを付いて行きました。
蜃気楼ではありません。それは確かにそこに在りました。見たことも無い黒光りのする石材で築かれた塔が空に高く切っ先を突きつけて、幾本もそびえておりました。足の下にはやはり黒々とした石が一面に敷き詰められていました。不思議なことに継ぎ目一つ見当たりません。
誰かが作ったにちがいはないでしょうに、周囲には人影一つ見当りません。私達の足音以外には、物音一つ聞こえません。それなのに、この場所に足を踏み入れた時から、誰かに見られているような、歓迎されていないような、薄ら寒い気分を掻きたてる気配が一帯に、濃く、重く充満していました。
引き返そう、と私は申しました。求める水が有るようには思えませんでしたし、何より、気味が悪くてどうしても長居したくはなかったのです。
「ついて来なくても良いですよ」
にべもない応えが返ってきました。
「それは……ついて来て欲しくないということですか」
「私には私の、貴方には貴方の運命がある、ということです」
振り向いた彼は、口の端に苦い微笑を浮かべていました。
「私を縛る理からは、貴方は自由だ。だから」ひときわ高く巨大な塔へと視線を滑らせ。
「巻きこまれる必要は無いのです」
「君の目的と関りのあることなのですか?」
私はいつかの月の夜を思い起こしておりました。「さあ……」と彼は首をすこし傾げ言葉を濁しました。微笑を浮かべたまま。
「また消えてしまうかもしれない。でも、行かなければ」
そうして私達は別れました。彼は進み、私は来た道を戻って行きました。黒い石畳みから砂地に変わる境界線まで。更にその先。砂の海の只中に紛れてしまうまで。
振り返りはしませんでした。
彼を待ちはしませんでした。
戻っては来ないと理解していたからです。
夕暮れ、私の頭上、乾ききった空を、何かの影が掠め飛んで行きました。黄昏を裂いて、鳴き声とも叫びともつかぬ響きを遠く残して去ってゆきました。
私は立ち止まり、少し空を見上げて、そしてそのまま蹲り少し涙を流しました。潮の味のする水で、自身の唇を湿らせたのでした。