美しい花園
……綺麗なものには特に近づいちゃぁいけん。綺麗なもんにはのう、なーんかしら強い念がこもって産まれてくるもんだ。自然のもんであってものう、人が作ったもんでものう……。なーんでもじゃ……。
会社帰り、満員電車の中で私は運良く席に座ることができ、小さく縮こまって、うとうとしていた。途中で花屋さんに寄って買ってきた花が傷つかないようにしっかりと抱きしめながら……。花の匂いにふと昔のことを思い出した。
祖母の家は田舎のほうにあり、周りを自然が囲んでいた。私はそこが好きで、毎年お盆や正月に遊びに行けるのを楽しみにしていた。父は私が物心つく前に他界し、私にとっての家族は母と、その母の母であるおばあちゃんだけだった。おばあちゃんはとても優しくて色んな事を知っていた。おばあちゃんの話を聞くのも、私にはとても嬉しいことだった。あれは何歳の頃だったろう? 私は一人で遊んでいて、好奇心からおばあちゃんの家の周辺を散歩していた。「遠くへいっちゃぁいけないよ」というおばあちゃんの言葉も、私の好奇心の前では無力だった。裏に大きな森があり、未知の世界という子供にはとても魅力的な世界が広がっていた。私は惹かれるように奥へ奥へと入っていった。と、突然ぽっかりと視界が開け、綺麗な花が咲きほこる草原に出た。私はその景色を今でも鮮やかに覚えている。あれから色々な花を見てきたがあれほど美しい花には未だに出会えずにいる。記憶の中で美化されているのかもしれないのだけど……。私はどうにかこうにか、おばあちゃんの家に帰ることができ、その日見つけた「綺麗な場所」のことを、母とおばあちゃんに自慢げに話した。そして摘んできたあの花を見せた。私は誉められるのを期待していた。しかし、母はとても怖い顔であの花を取り上げどこかに持っていってしまった。おばあちゃんは私を諭すように、「今日はしかたないねぇ。楽しかったかい? でも二度とあそこに行っちゃいけないよ」と優しい声で言った。しかし優しい声の中に私はえも言えぬ強制力を感じた。幼心に二度とおばあちゃんとの約束を破らないと決心したのだ。そしておばあちゃんは聞こえないような小さな声で呟いた……。
「あの花は人生を喰うんだ……」
私にはそう聞こえた。
そういえばあれ以来、祖母の家に連れていってもらえなかったな。あれから間もなくして祖母は私たちと同居した。祖母はそれからも色んな話をしてくれた。だけど一番印象に残った話は……。
……綺麗なものには特に近づいちゃぁいけん。綺麗なもんにはのう、なーんかしら強い念がこもって産まれてくるもんだ。自然のもんであってものう、人が作ったもんでものう……。なーんでもじゃ……。
という話だった。私はこの話を聞く度にあの綺麗な草原に咲く、綺麗な花のことを思い浮かべた。
「つぎはー、東町ー東町ー」
駅員のアナウンスに私は、はっと意識を取り戻す。今日は彼と東町で食事する約束をしていたのだ。慌てて降りる準備をする。
彼は、雅文はとても綺麗だ。私は母子家庭で育ったためか、男性に対して恐怖症とまで行かないまでも、かなりの抵抗があった。私は小説や少女漫画の世界に逃避し、粗暴で卑猥で不潔な現実の男からは距離を置いていた。そんな思春期を過ごし、大学生になった。そこで雅文と出会った。話しかけてきたのは彼の方からだった。それまでもこうやって話しかけてくる男はいたが、私は無視したり、わざときついことを言ったりして、かわしてきた。だけど、彼は無視できなかった。私の中の何かを思いっきり引っ張るようなそんな感じがした。彫刻のような整った顔立ち、そして尽きることを知らない教養あふれる会話、男臭さを微塵も感じさせない清潔な装い。私にとって彼は王子様そのものだった。そして私たちはつき合いだした。出会いから四年たった今でも彼は私の理想の人であり続けた。時々、あの祖母の話を思い出し、彼の綺麗さに妙な罪悪感を感じてしまう。お互い就職してからは忙しくてなかなか会えなかったが、月に一度は必ず時間を空けて会うことにしていた。今日がその日なのだ。この間電話で喧嘩してそのままだったので、今日は遅れるわけにはいかなかった。私は時計を見て、約束の時間にまだまだ余裕があるのを確認して胸をなで下ろした。喧嘩の理由は私が結婚の話をほのめかしたからだった。私としてはそろそろ考えてもいい時期では? と思っていたので、つい先走ってしまったのだ。彼は今将来を左右する大事な時期で大きなプロジェクトに関わっていた。そんな時に結婚の話を持ち出した私が悪いのだ。あと少し我慢すれば彼の仕事も一段落し真剣に考えてくれるようになるだろう。
待ち合わせの時間ちょうどに彼はやってきた。「まったかい?」と優しい声で話しかけてくれた。この間の喧嘩のことは引きずっていない様だった。「ううん」と私は答え、彼に謝った。彼は優しく「気にしてないよ」と言ってくれた。私はとても上機嫌になり、その日いつもよりお酒をたくさん飲んだ。しかし別れ際彼は、「しばらく仕事に専念したいんだ。この仕事が落ち着いたら連絡する」と言った。私はこれ以上彼のお荷物にはなりたくない一心で「わかったわ」と答えた。
私は最初、それを二日酔いだと思った。吐き気と食欲不振。しかし、何かが違う……。生理が遅れていることも気になった。もともと不順ではあったが、私は一つの希望にすがりたかったのだ。産婦人科に相談に行くと、妊娠していることが判明した。歓喜と不安がわき上がる。今は彼の負担になるわけにはいかない。彼は今大事な時期なのだ。彼が落ち着くまでは黙っていようと決心した。
それから、私は彼からの連絡を一日千秋の思いで待ちわびた。待っている間私は幸せな空想に浸っていた。彼との結婚。綺麗な花に囲まれ、綺麗な彼とかわいい赤ん坊。私はふとあの綺麗な草原を思い出した。あそこに咲くあの綺麗な花。私の中でまた少女じみた空想が始まる。あの場所で二人約束を交わそう。そしてあの花を持ってきて二人の新しい部屋に飾ろう。
二週間が過ぎ、彼から連絡が来た。仕事は無事に終わり、今度の終末は連休がとれるとの話だった。私は旅行に出る事を提案した。あの草原に疲れている彼を連れ行きたかった。そして彼に告げるのだ、赤ちゃんができたの……と。彼は「ちょうどよかった。僕の方も君とゆっくり話がしたかった」と言ってくれた。私はとてもうきうきして、旅の準備を始めた。
久しぶりに会う彼は少しやせていて、今までの仕事のハードさが伝わってきた。電車の中でもずっと眠っていた。昨日もプロジェクトのまとめで遅くまで仕事をしていたそうだ。彼は大きな仕事を成功させ、そして私に話がしたいと言ったのだ。私から言い出さなくても彼の方から結婚を申し込んでくれるかもしれない。彼の寝顔は以前となんら変わっていなかった。この綺麗な寝顔を私は一生見続けるのだ。幸せという言葉が胸に満ち顔からあふれ出る。
目的の土地につく。私はおぼろげな記憶を頼りに、祖母が住んでいたあの家を目指した。彼は「なぁどこいくんだ?」としきりに聞いてきたが、私は「ないしょよ」と答え続けた。おばあちゃんの家はすでに取り壊され、空き地になっていた。その裏手に森が広がっている。記憶がフラッシュバックする。この緑に反射する光、草木の匂い、木々の音。そういえば母はいつもお墓参りをしに帰ってきていたのだ。誰の? 父の……。なぜ母方の実家に父の墓が? 違和感が広がる。しかし、私は自分自身に言いきかせる。そんな事今の私には関係ないわ。私は彼とここに来たのだ。幸せのために。
森の中を進むと、あの時のように突然、ぱぁっと視界が開けた。
「綺麗でしょ?」私はあのころのように得意げになって彼に言った。「あぁ……」彼はこの景色に圧倒されていた。一面に広がる草原。太陽の光がまんべんなく照らし、綺麗な緑色が燃えるように輝いている。そしてその中心あたりに自然にできた花畑があり、あの花が風にそよいで揺れていた。幻想的な世界に私も彼も我を忘れてはしゃぎ回った。しばらくして、二人で花畑に寝転がって、花の隙間から空を見上げる。
「お前に話したいことがあるんだ……」
空を見つめながら彼が囁いた。その顔からは彼が何か決意していることを感じられた。私は、ついに来た、と心の中で身構えた。これで私は彼と……。しかし、彼の言葉はそんな私の心を引き裂いた。
「二ヶ月後、上司の娘と結婚する。今回の仕事が上に認められてね。僕にとっては願ってもないチャンスなんだ。もう婚約も済ませてきた。すまない、わかって欲しい。許して欲しい」
私はこの瞬間全てを理解した。父の墓がここにあった理由、母があの花を見た瞬間鬼のような形相になった理由。私は無言で立ち上がった。視界には一面綺麗な花が広がっていた。
「綺麗なものには特に近づいちゃいけない。綺麗なものには、なにかしら強い念がこもって産まれてくる。自然のものであっても、人が作ったものでも……。なんでも……」私はぶつぶつと念じるように祖母の言葉を呟いていた。
「な……なにをいってるんだ?」彼が……なにかを言っている。私には聞き取れなかった。
父はきっと母に殺されたのだ、この場所で。
「あの花は人生を喰う……」私はまた祖母の言葉を呟いて、そして今それを理解できて、誉められた子供のような気分で、にたぁ、と笑う。
……お母さんも同じ気持ちだったのかな? 私はお腹をいたわるようにさすり、そして……。足下に落ちていた鋭くとがった石を拾い上げた……。