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魔術師令嬢の事件簿

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/05/01

事務所の古びた革張りソファ。

行儀悪く組まれた長い脚と、顔に乗せられたスポーツ新聞。

静寂を破ったのは、安っぽいスマートフォンの電子音だった。

顔を覆っていた新聞が、ズルリと滑り落ちる。


「ん……」


ボサボサに跳ねた金糸の髪。

口元の端に一筋のよだれの跡を残したまま、あくびを噛み殺してゆっくりと身を起こした。


「──起きましたか、所長。直ちに口元を拭いてください。そのようなだらしないお姿、許容できません」

「……うるさいわね。これが探偵の流儀よ」

「探偵の流儀以前に、人としての尊厳の問題です。ソファの汚れを落とすのは誰だと思っているのですか」

「そこは感謝しているわよ。でも、こういう煤けた事務所には、シャキッとした人間は似合わないの」

「屁理屈はおやめください。さあ、目を覚ますためのコーヒーです」


一糸乱れぬ所作で、完璧な温度のコーヒーが差し出された。

立ち上る湯気から、上質な豆の深い香りが漂ってくる。

彼女は実家の厳格な魔術教育から逃げ出し、はるばる極東の魔術辺境・日本まで家出してきた私に、勝手についてきた専属メイドであり、極度の完璧主義者だ。


「探偵という生き物はね、いつだって不格好に目を覚ますものだと決まっているの。シルクのパジャマで優雅に起き上がったりしない。ヨレヨレの姿で現実へ帰還する。それがハードボイルドというものだから」

「御託は結構です。探偵の真似事も結構ですが、せめてレディとしての最低限の嗜みは保ってくださいませ。本日の朝食はこちらになります」


テーブルの上に、茶色い紙袋が無造作に置かれる。

瞬間、香ばしい油の匂いが事務所の淀んだ空気を塗り替えた。


「商店街の『肉のヤマダ』のコロッケね。でかしたわ!」

「所長のご要望通り、揚げたてを狙って買ってまいりました。油の温度管理には不満が残りますが、庶民の味としては及第点かと」

「十分よ!」


紙袋からまだ温かいコロッケを取り出し、無作法にかじりつく。

サクサクの衣が弾け、安っぽいジャガイモの甘みとひき肉の旨味が口いっぱいに広がった。


「美味しい……!」


実家のお抱え三ツ星シェフが作るフルコースより、よっぽど胃袋に染みる味だ。

最初は「探偵らしく、安くて不味いジャンクフードを胃に流し込む」というロールプレイのつもりだったのに、日本の庶民の味は想定外に美味すぎた。

今では完全に胃袋を掴まれている。


「それで、さっきの電話は今日の依頼?」


コーヒーで喉を潤し、私は尋ねた。


「はい。本日は午前と午後で、連続して二件の依頼が入っております。まずは一件目、町内会からの『用水路の清掃および不法投棄物の回収』です」

「……完全に業者の仕事ね。でもいいわ。探偵たるもの、地域密着の地道な活動から信頼を得るものよ。トレンチコートを持ってきなさい。出番だわ」


***


数十分後。

私たちは、住宅街の裏手を流れる淀んだ用水路の前に立っていた。

長年のヘドロと生活排水が蓄積し、どす黒く濁った水面からは鼻をつく悪臭が漂っている。

底には空き缶やビニール袋、さらにはどこから流れてきたのか、サビだらけの自転車まで沈んでいるのが見えた。


「所長、清掃用のゴム長靴とトング、それに重装備のゴム手袋をご用意いたしました。思う存分、地道な活動で信頼を得てくださいませ」


一糸乱れぬメイド服の上に、なぜか割烹着まで完璧に着こなした彼女が、清掃用具一式を恭しく差し出してくる。

だが、私はそれを受け取らなかった。


「馬鹿言わないで。私はハードボイルドな探偵よ。そんな泥まみれの格好をして川に入るなんて、美学に反するわ」

「依頼を安請け合いしたのは所長ご自身ですが。まさか、私一人にやらせるおつもりですか?」

「まさか。探偵は自ら現場に立ってこそよ。ただ、やり方にはこだわらせてもらうわ」


私はトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、用水路の縁に立った。

そして、淀んだ水面に向かって、ただ視線を向ける。


「……所長、まさか?」


嫌な予感を察知したメイドが一歩下がる。

その推測は正しい。私は体内から莫大な魔力を練り上げ、ただ一睨みするだけでそれを世界へと出力した。

無詠唱。発動したのは、神話の時代に海を割って民を導いたとされる奇跡の再現――神話級の大魔術『広域水流操作アクア・ディバイド』。


ゴゴゴゴゴォォォォッ!!


地鳴りのような轟音とともに、用水路の濁った水が一瞬にして真っ二つに割れた。

まるで目に見えない巨大なガラスの壁がそこにあるかのように、水は左右に押し退けられ、垂直な水の壁を形成して静止する。

そこには一滴の水気すら完全に排除され、パサパサに乾燥したコンクリートの川底だけが一本の道のように姿を現していた。


「なっ、なんじゃい……!?」


突然の超常現象に、通りすがりの老婆が目を丸くして固まっている。

私はヒールの音をカツカツと響かせながら、水気の消え去った川底へと優雅に降り立った。

泥の跳ね返りなど一切ない、完璧なレッドカーペットのような川底を歩き、落ちている空き缶やサビた自転車のフレームを指先でつまみ上げる。


「不法投棄物(証拠品)、確保よ。ミッション・コンプリート」


ドヤ顔で自転車を引き上げる私を見て、メイドが深々とため息をついた。


「……町内の用水路掃除に、天候や生態系すら狂わせかねない神話級の大魔術を使うなど正気の沙汰ではありません。世界の理が泣いています」

「細かいことは気にしないの。ほら、おばあちゃん。川底のお掃除終わったわよ」

「あ、あらまぁ……最近の業者さんは手際がいいわねぇ。助かるわぁ」


どういう理屈で水が割れているのか理解できていない近所の老婆は、とりあえず綺麗になった川底を見てのんきに合掌している。


「……とりあえず、一件目の依頼は完了ということにしておきましょう」


メイドが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた、その時だった。

彼女のエプロンのポケットで、安っぽい着信音が鳴り響く。


「……はい。はい、承知いたしました」


通話を終えたメイドが、私を見る。


「二件目の依頼です。商店街の魚屋の店主から、迷子の猫探しだそうです」

「ふうん。いいわ。探偵の出番の連続ね」


***


さらに数十分後。

私たちは住宅街の入り組んだ路地裏で、身を屈めていた。


「所長。なぜ私たちが、泥まみれになって猫など探さねばならないのですか」


ゴミ箱の陰から目を光らせる私に、一糸乱れぬメイド服姿の彼女が冷ややかな視線を送ってくる。

日本に逃げてきてからの数ヶ月、私がこなしてきた依頼といえば、こうしたドブさらいから始まり、猫探し、浮気調査、町内会の揉め事まで、魔術名家の令嬢とはかけ離れた泥臭いものばかりだった。


「だから言っているでしょう。これが『探偵』の日常なのよ」

「本来なら、うちの看板は『何でも屋』としたほうが正確かと存じますが」

「わかってないわね。家出する直前に見た日本の『昭和の泥臭いドラマ』や『深夜アニメ』の探偵たちは、みんなこうして足で稼いでいたわ。実家の『高級・洗練・完璧』という息詰まる世界にはない、この不格好な生き様。そのたまらない『エモさ』を満喫しないでどうするの」

「……所長。本国にいらした頃から、フルコースの食事を五分で平らげたり、ドレスのままベッドにダイブするなど、十分に不格好な生き様を満喫しておいででしたが」

「うるさいわね。あれは型に嵌まらない気高さの表現よ」

「つまり、完全に趣味のロールプレイと言い訳ということですね。頭痛がしてきました」

「静かに。ターゲットが動くわ」


塀の上を歩く三毛猫が、警戒したように身を低くした。

普通に追いかけても捕まらない距離だ。私はトレンチコートのポケットの中で、小さく指を鳴らした。

無詠唱。発動したのは空間を固定する上位魔術。


「にゃっ!?」


次の瞬間、見えない壁に挟まれたように、三毛猫の動きが完全に停止する。

その隙に私はゆっくりと歩み寄り、首根っこをひょいとつまみ上げた。


「ミッション・コンプリートよ。どんな依頼も完璧にこなす。これが探偵の流儀だわ」

「……魔術の無駄遣いにもほどがあります」


メイドが深くため息をついた、その時だった。

彼女のエプロンのポケットで、再び安っぽい着信音が鳴り響いた。


「……はい。はい、承知いたしました」


通話を終えたメイドが、表情を引き締めて私を見る。


「所長。商店街の自治会長から泣きつかれました。今回はもう少しだけ『事件性』のある内容です」

「へえ、なにかしら?」

「地上げ屋の手先となっている、新興の半グレ集団の排除です。ここ最近、彼らが不自然な力を使って一般人を脅迫し、土地を不法に巻き上げているようで」

「不自然な力?警察に行けばいいじゃない」

「それができないから、うちのような怪しい『探偵事務所』に依頼が来るのです。彼ら、どうやら裏ルートで強力な魔術アイテム……『呪具』を買い漁っているらしく、警察の手に負えないのです」

「ふうん。金にモノを言わせて集めた質の悪いアーティファクトで、好き勝手に暴れているってわけね。道具頼みの三流魔術師崩れってところかしら」


捕まえた猫をメイドの腕に押し付け、私はヨレヨレのトレンチコートの襟を立てた。


「所長。あくまで私たちは隠密行動中なのですから、あまり派手なことは……」

「わかっているわよ。でも、依頼を受けたからには完璧にこなす。それが探偵だからね」

「タクシーを手配いたしますか?」

「馬鹿言わないで。現場までは電車と徒歩よ。探偵は足で稼ぐものなの。交通系ICカードのチャージ、残ってたかしら?」

「……昨晩、五千円チャージしておきました」

「気が利くわね」


駅前の雑踏を抜け、電車に揺られながら指定された住所へと向かう。

安物のコートを着ていても、私の歩く姿は周囲の目を引いた。

背筋の伸びた歩き方、冷たく透き通るような眼差し。

一切の装飾品を持たずとも、生まれ持った本物のオーラは隠しきれないらしく、すれ違うサラリーマンたちが無意識に道を譲っていく。


***


寂れた雑居ビルの三階。

軋む鉄の扉を開けると、そこにはタバコと安い酒の匂い、そして淀んだ魔力の空気が充満していた。


「なんだ、てめえは?」


薄暗い部屋の中央。ソファにふんぞり返っていた男たちが、一斉にこちらを睨みつける。

首元には太い金ネックレス。テーブルの上には、禍々しいオーラを放ついくつかの石――高価な魔石や呪具が無造作に転がっていた。


「探偵よ。近所からの苦情処理に来たの」


トレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、私は冷笑を浮かべる。


「探偵だぁ?女ひとりで、しかも丸腰で乗り込んでくるとはいい度胸してんじゃねえか」


リーダー格の男が立ち上がり、テーブルの上の真っ赤な魔石を手に取った。


「こっちがどういう力を持ってるか、教えてやろうか?この石一つで、このビルごと吹き飛ぶんだぜ?金にモノを言わせて海外から取り寄せた、最高級の呪具だ」

「ふうん。金で買ったオモチャをひけらかして、ずいぶん楽しそうね」

「なんだと……!」

「道具に頼るなんて、自分には才能がありませんって自己紹介してるようなものよ。三流の証拠だわ」


男の顔が、屈辱と怒りに歪む。


「その減らず口、二度と叩けなくしてやる!やっちまえ!」


男たちが一斉に呪具を掲げた。

空間が歪み、空気が重くなる。

致死量の魔力が私に向かって放たれようとした、その瞬間だった。


「遅いわね」


詠唱すらない。

ただ、右手の指先で空中にたった一つのルーンを描いただけ。

パァンッ!!


「な、なにっ!?」


鼓膜を破るような破裂音。

男たちにとっては高価であろう魔石が、彼らを守る結界を張っていた呪具が、一瞬にして粉々に砕け散った。


「あ……あぁ……?」

「嘘だろ!?これ、数百万したんだぞ!」

「どういうことだ……呪具が、全部……!」


圧倒的な魔力の暴風が、部屋の中を駆け抜ける。

私は一歩たりとも動いていない。トレンチコートの裾が風に揺れただけ。

それなのに、男たちは圧倒的な圧力の前に膝から崩れ落ち、恐怖に震え上がった。

丸腰の女が放つ、絶対的な支配者の気配。


「いいこと?よく覚えておきなさい」


床に這いつくばる男たちを見下ろし、私は静かに告げる。


「魔術の根本とは、『魔の法』なんだから、海外の怪しい呪具なんてアテにせず、この国にあるもの――陰陽道でも何でもいいから、足元の法則から地道に学び直しなさい」


コイツラに令嬢として身に付けた礼儀作法は通用しない。

万人に受け入れられる絶対的な武器――『笑顔』を使えば、事を荒立てずに済ませられたかもしれない。

だが、実家の息詰まる社交界で嫌というほどすり減らしてきたその武器を、私は二度と使うつもりはないのだ。


「本物はね、自分自身さえあれば完璧になれるのよ」


愛想笑いも交渉術も捨てた、ただ圧倒的な『力』という凄み。

静寂が降りた部屋の中で、私の声だけが冷たく響いた。


***


雑居ビルの下で待っていたメイドが、私を見るなり深くため息をついた。

彼女の腕の中では、なぜか先ほど捕獲した三毛猫が未だに大人しく抱えられている。


「にゃー」

「所長。あれほど派手なことは避けるようにと申し上げたはずですが」

「仕方ないじゃない。向こうがオモチャを振り回すから、少しお灸を据えただけよ」

「ビルの窓ガラスが全て吹き飛んでいましたが」

「気のせいよ。さ、依頼も片付いたし、報酬もいただいたわ」


コートのポケットから、無造作に突っ込んだ紙の束――商店街で使える地域振興券の端が見える。


「その地域振興券、ポケットに直入れするのはやめてください。せめて財布に……」

「いいじゃない、これぞハードボイルドって感じで」

「……」


メイドが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえるのを横目に、私は地域振興券の束をひらひらと揺らした。


「ねえ、この券で『黒電話』って買えるかしら」

「は?」

「探偵の事務所には、やっぱり黒電話が必要よ。デスクの上に足を乗せて、受話器を足で手元に引き寄せて電話に出るの。それが探偵の嗜みだわ」

「その前に『令嬢の嗜み』を思い出してくださいませ。足で受話器を手繰り寄せるなど、レディの品格として到底容認できません。そもそも固定回線の基本料金を払う余裕がどこにあるとお思いですか」

「ちぇっ。せっかくハードボイルドな気分だったのに」

「……ですが、お世話になっている商店街への地域貢献が私の基準を満たした暁には、スマートフォンとBluetoothでリンクして鳴る、黒電話型の受話器を準備して差し上げましょう。手を使わずに出るのは禁止ですが」

「本当!?やったわ!さすが私のメイド、最高よ!……よし、帰りにたこ焼きを買って帰りましょう、ソースマヨの気分よ!奢ってあげるわ!」


安くて美味いジャンクフードと、鳴らない黒電話を夢見る気怠い午後。

次に目を覚ます時もきっと、私はひどく不格好な顔をしていることだろう。

だが、それでいい。探偵とは、そういうものだと決まっているのだから。


お読みただきありがとうございます。

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