第十三話「市での出会い」
秋晴れの朝、真白が外出の支度をしていた。侍女たちが慌ただしく動き回り、真白の着物を整えたり、髪を結い直したりしている。
我が名は玄丸。いつものように縁側で真白を観察していた黒猫である。
「今日は市に行くのよ」
真白が鏡の前で髪を整えながら、我に語りかける。
「母上の薬になる香木を探しに。それに、秋の果物も買ってこなければ」
真白の声は明るいが、その目には僅かな不安が宿っている。母の病状は相変わらず芳しくなく、少しでも良い薬草や香木があればと、真白は必死に探しているのだ。
「玄丸は、お留守番ね」
真白が我の頭を撫でる。
「すぐに戻るから、いい子で待っていてちょうだい」
我は「にゃあ」と鳴いて返事をした。だが、内心では別のことを考えていた。
市、か。都の市は、様々な物や人が集まる場所だと聞く。異世界でも市場は情報の宝庫だった。この世界の市も、きっと興味深いものが多いだろう。
それに、真白が一人で出かけるのは少し心配だ。真澄が護衛として付いていくとはいえ、何が起こるか分からない。
我は、真白の後を追うことにした。
*
真白が屋敷を出た後、我は慎重に後を追った。塀を越え、屋根を伝い、人目を避けながら進む。猫の体は軽く、身のこなしも素早い。誰にも気づかれずに移動するのは容易だった。
真白は牛車に乗り、真澄と侍女二人を伴って市へと向かっている。我は屋根の上から牛車を追い、時には道の脇を走り、時には木の枝を渡って進んだ。
都の街並みは、思いのほか賑やかだった。朝の陽射しの中、人々が行き交い、商人たちが声を張り上げて商品を売っている。異世界の都市とは違う、独特の活気がある。
やがて、牛車が市の近くで止まった。真白が牛車から降りる。真澄が周囲を警戒しながら、真白を導く。
市は、想像以上に大きかった。様々な店が立ち並び、布地、陶器、食べ物、薬草、装飾品など、ありとあらゆるものが売られている。人々の熱気と、物の匂いが混じり合い、独特の空気を作り出していた。
我は市の端にある木に登り、真白の姿を追った。真白は香木を扱う店に入っていく。我は木の上から、じっと見守った。
しばらくして、真白が店から出てきた。手には小さな包みを持っている。香木を買えたようだ。真白の表情は、少し安堵したように見えた。
次に、真白は果物を売る店に向かった。秋の果物が山積みになっている。柿、栗、梨。どれも美味しそうだ。
真白が果物を選んでいる間、我は周囲を観察した。市には様々な人々がいる。商人、貴族、僧侶、子供たち。そして、その中に、怪しげな人影も混じっている。
我の目が、一人の男に止まった。
汚れた着物を着た、痩せた男だ。その男は、真白の方をじっと見ている。その目つきには、何か良からぬ意図が感じられた。
我は警戒した。あの男、何か企んでいるのではないか。
だが、真白は気づいていない。果物を選ぶことに夢中で、周囲への警戒が薄い。真澄は近くにいるが、人混みの中で全てを見通すのは難しいだろう。
我は木から降り、真白に近づこうとした。
その時、人混みの中で我を見つけた子供が叫んだ。
「猫だ!黒猫がいるぞ!」
子供の声に、周囲の人々が我を見る。我は慌てて人混みの中に隠れた。
まずい。目立ってしまった。
我は店の影に隠れ、真白の様子を窺った。真白は果物を買い終え、次の店へと向かっている。真澄が後ろに付き従い、侍女たちが荷物を持っている。
我は慎重に真白の後を追った。だが、人混みの中で真白を見失わないようにするのは、思いのほか難しい。
そして、その時だった。
我が一瞬、真白から目を離した隙に、真白の姿が見えなくなった。
我は慌てて周囲を見回した。どこだ。真白はどこに行った。
人混みをかき分けて探す。だが、真白の姿が見当たらない。
しまった。見失ってしまった。
我は焦りを感じた。真白を一人にするわけにはいかない。あの怪しい男もいる。何か起きたら、大変だ。
我は市の中を駆け回った。真白を探して、必死に。
*
真白は、ある店の前で立ち止まっていた。薬草を扱う店で、様々な香りが漂っている。
「真澄、この店も見てみましょう」
真白が店に入ろうとした時、ふと気づいた。
「あれ……玄丸は?」
真白が周囲を見回す。
「玄丸!玄丸!」
真白の声が、市の中に響く。だが、返事はない。
「姫君、どうなさいました」
真澄が尋ねる。
「玄丸がいないの。さっきまで、確かに近くにいたのに」
真白の声が、不安に震える。
「姫君、玄丸殿は屋敷でお留守番のはずでは」
真澄が言う。
「いいえ、付いてきていたわ。気配で分かるもの」
真白が必死に周囲を探す。
「玄丸!どこにいるの!」
真白の声が、だんだんと切迫してくる。侍女たちも慌てて周囲を探し始めた。
「姫君、落ち着いてください。玄丸殿なら、すぐに見つかりましょう」
真澄が真白を落ち着かせようとする。だが、真白の不安は募るばかりだった。
「玄丸……どこにいるの……」
真白の目に、涙が浮かぶ。
「もしも、誰かに連れて行かれたら……」
真白の声が震える。
我は、その声を聞いた。
真白が、我を探している。我を心配している。
我は真白の方へ駆けた。人混みをかき分け、必死に。
「玄丸!」
真白の声が、また聞こえた。
「にゃあ!」
我は大きく鳴いた。真白に、ここにいると知らせるために。
「玄丸!」
真白の顔が、我を見つけて輝いた。
我は真白の元へと駆け寄った。人の足の間をすり抜け、障害物を飛び越え、ただひたすらに真白の元へ。
「玄丸!」
真白が屈んで、我を抱き上げた。
「良かった……本当に良かった……」
真白の腕の中で、我は真白の顔を見上げた。真白の目には、涙が溢れていた。
「心配したのよ、玄丸。もしも、あなたがいなくなったらと思うと……」
真白の声が震える。
「もう、勝手に付いてきてはだめよ。でも……」
真白が我を強く抱きしめた。
「無事で良かった」
真白の温もりが、我を包む。我は、胸が熱くなるのを感じた。
真白は、我をこんなにも心配してくれるのか。
我は、ただの猫だというのに。
「姫君、玄丸殿は無事でございましたな」
真澄が近づいてくる。その顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「ええ、見つかったわ。良かった」
真白が涙を拭う。
「玄丸、あなた、本当に心配させないでちょうだい」
真白が我を見つめる。その目は優しく、そして少し怒っているようでもあった。
我は「にゃあ」と小さく鳴いた。すまない、真白。心配をかけた。
「もう、あなたったら」
真白が微笑む。その笑顔を見て、我は安堵した。
真白は、笑ってくれた。
それが、何より嬉しかった。
*
その後、真白は市での買い物を続けた。だが、今度は我を抱いたままだ。
「もう、離しませんからね」
真白が我を抱きしめながら、店を巡る。
我は真白の腕の中で、市の様子を観察した。こうして高い位置から見ると、市の全体像が良く分かる。
様々な人々が行き交い、商品が売り買いされ、活気に満ちている。異世界の市場とは違う、独特の雰囲気だ。
そして、我はあの怪しい男の姿も見つけた。男は、真白から距離を取って立っている。真澄がいるため、近づけないのだろう。
我は男を睨んだ。もしも、真白に何かしようとしたら、容赦はしない。
だが、男は結局、何もせずに人混みに消えていった。真澄の存在が効いたのだろう。
真白は、薬草や果物、それに美しい布地などを買い終え、満足そうだった。
「良い買い物ができたわ」
真白が我に語りかける。
「母上も、きっと喜んでくださるわ」
真白の声が、明るい。我は「にゃあ」と鳴いて答えた。
「さあ、帰りましょう。玄丸も疲れたでしょう」
真白が牛車の方へと歩き始める。
我は真白の腕の中で、今日のことを思い返していた。
市での出会い。真白の心配そうな顔。そして、再会の喜び。
我は、真白にとって、どれほど大切な存在なのだろうか。
真白の温もりが、我の心を満たしていく。
かつて、我は一人だった。誰も信じず、誰にも頼らず、ただ理だけを追い求めていた。
だが、今は違う。
真白がいる。真白の温もりがある。
それが、我にとって、何よりも大切なものになっていた。
*
屋敷に戻ると、真白は母の部屋へと向かった。我も、真白と共に。
「母上、良い香木が手に入りましたわ」
真白が包みを開ける。中から、上質な香木が現れた。
「まあ、良い香りね」
母が微笑む。
「ありがとう、真白。あなたは本当に優しい子ね」
母の手が、真白の手を握る。
「そして、玄丸も一緒だったのね」
母が我を見る。
「ええ。玄丸は、市まで付いてきてくれたの」
真白が我を撫でる。
「でも、途中で見失って、とても心配したわ」
真白の声が、また少し震える。
「だって、玄丸がいなくなったら、私……」
真白の目が、また潤む。
「真白」
母が優しく言う。
「玄丸を、大切にしてあげてね」
「はい、母上」
真白が頷く。
「玄丸は、私の大切な……」
真白が言葉を探す。
「家族、よ」
真白がそう言って、我を抱きしめた。
家族、か。
我は、その言葉の重みを感じた。
家族。血の繋がりはないが、心で繋がっている存在。
真白にとって、我はそういう存在なのか。
ならば、我も、真白を家族だと思おう。
守るべき、大切な家族だと。
我は「にゃあ」と小さく鳴いた。
そうだ、真白。お前は、我の家族だ。
母が、優しく微笑んでいた。
「良い子ね、玄丸。真白を、よろしくね」
母の手が、我の頭を撫でる。
我は、また「にゃあ」と鳴いた。
承知した。真白を、必ず守る。
それが、我の使命だ。
秋の陽射しが、部屋を優しく照らしていた。




