第十二話「猫又の噂」
猫が戻ってきた翌日、屋敷の周辺は安堵の空気に包まれていた。消えた猫たちが無事に家に戻り、飼い主たちは喜びに沸いている。だが、人々の間では、相変わらず噂が飛び交っていた。
「きっと猫又の仕業だったのよ」
「いや、座敷童子が助けてくれたのでは」
「神仏の加護に違いない」
様々な憶測が語られるが、真実を知る者は誰もいない。いや、一匹だけ、真実を知る黒猫がいるのだが。
我が名は玄丸。昨夜、あの事件を解決した張本人、いや張本猫である。
この日、我は縁側で日向ぼっこをしながら、昨夜のことを思い返していた。
寂しい式神。主を失い、ただ温もりを求めていた小さな魂。
あれを成仏させたのは、正しい選択だったのだろうか。
我はかつて、正しさなど気にしたことはなかった。理に適っているか、力があるか。それだけが判断基準だった。
だが、今は違う。
正しさとは何か。優しさとは何か。
真白と過ごす中で、我は少しずつ、そういったことを考えるようになっていた。
「玄丸」
真白の声が聞こえた。振り返ると、真白が実俊と一緒に庭に出てきたところだった。
「実俊様がいらしてくださったの」
真白が微笑む。実俊は相変わらず堅苦しい表情で、我を見ている。
「やあ、玄丸殿。相変わらず立派な毛並みだな」
実俊が我に話しかける。最近、この男は我を「玄丸殿」などと呼ぶようになった。猫に敬称をつけるとは、奇妙な男だ。
我は「にゃあ」と軽く鳴いて挨拶した。
「実俊様、あの猫の件を調べてくださったそうなの」
真白が言う。
「ああ。陰陽寮でも、あの件は話題になっていてね」
実俊が懐から巻物を取り出した。
「妖怪の仕業かと思い、色々と調べてみたのだが」
実俊が巻物を開く。そこには、様々な妖怪の絵が描かれていた。
「猫又、化け猫、猫魅……猫に関する妖怪は数多くいる。だが、いずれも猫を攫うという記録はない」
実俊の説明に、真白が頷く。
「では、やはり妖怪ではなかったのですね」
「おそらく。猫たちが無事に戻ってきたことを考えると、悪意のある存在ではなかったのだろう」
実俊がそう言って巻物を閉じる。
「ただ、気になることがひとつある」
「何ですか?」
真白が尋ねる。
「廃屋の庭に、式神の残滓が残っていたそうだ」
実俊の言葉に、我は耳をぴくりと動かした。
「式神……ですか」
「ああ。おそらく、主を失った式神が、寂しさのあまり猫を集めていたのだろう。そして、何らかの理由で、猫たちを解放した」
実俊の推理は、ほぼ正しい。さすがは陰陽師見習いだ。
「まあ、可哀想に」
真白が悲しそうな顔をする。
「主を失った式神は、やがて消えてしまうのでしょう?」
「ああ。魂の依代を失った式神は、長くは存在できない」
実俊が頷く。
「だが、その式神は、消える前に猫たちを解放した。おそらく、誰かに諭されたのだろう」
「誰かに?」
「ああ。式神は、自分の意志だけでは、そこまでの判断はできない。誰かが、その式神に語りかけたのだ」
実俊の目が、我に向けられた。
「もしかして……」
実俊が何か言いかけたが、すぐに首を振った。
「いや、まさかな」
まさか、とは何だ。我を疑っているのか、この男は。
我は尻尾を揺らして、知らんぷりをした。
「ところで、真白殿」
実俊が話題を変える。
「あの、猫又の話だが」
「はい」
「都の北の山に、年老いた猫又が住んでいるという噂がある」
実俊の言葉に、我は興味を引かれた。猫又、か。
「その猫又は、人に害をなすことはなく、むしろ山の守り神として崇められているそうだ」
「まあ、そうなのですか」
真白が目を輝かせる。
「ええ。いつか機会があれば、調査してみたいと思っている」
実俊がそう言って、また我を見た。
「玄丸殿も、興味があるのではないかな」
我は「にゃあ」と鳴いた。興味がないわけではない。だが、今は真白の傍を離れるわけにはいかない。
「ふふ、玄丸は私の傍がいいのよね」
真白が我を抱き上げる。
「そうですか」
実俊が少し残念そうな顔をした。だが、すぐに表情を引き締める。
「では、私はこれで。また何かあれば、お知らせします」
「ありがとうございます、実俊様」
真白が頭を下げる。実俊が去った後、真白は我を抱いたまま、庭を歩いた。
「猫又、か。玄丸、あなたはいつか猫又になるのかしら」
真白が我の頭を撫でる。
猫又、ね。
我は元々猫ではないから、猫又になることはないだろう。だが、この世界の猫たちは、長生きすれば妖怪になるのか。
興味深い話だ。
*
夕方、我は一人で庭を散策していた。真白は母の看病で部屋にこもっており、我は少し時間を持て余していた。
庭の隅で、我は石に座って考え事をしていた。
昨夜の式神のこと。実俊の推理。そして、猫又の噂。
この世界には、我が知らない理がまだたくさんある。
式神。妖怪。言霊。
全てが、我がいた異世界とは異なる理で動いている。
だが、根本的な部分では、同じなのかもしれない。
理とは、世界を動かす法則だ。
異世界では、魔力と五行の理が世界を構成していた。
この世界では、それに加えて、言霊や妖気、神仏の力が複雑に絡み合っている。
我は、この世界の理を、まだ完全には理解していない。
「にゃあ」
我は小さく鳴いて、立ち上がった。
理を理解するには、まだ時間がかかるだろう。だが、焦る必要はない。
我には、時間がある。
そして、真白がいる。
真白と共に過ごす中で、我はこの世界の理を、少しずつ学んでいけばいい。
その時、背後から気配を感じた。
我は振り返った。
そこには、真澄が立っていた。
「玄丸殿」
真澄が我に声をかける。
「昨夜、屋敷を出られたようでござるな」
真澄の声は静かだが、どこか確信に満ちていた。
我は「にゃあ」と鳴いた。誤魔化すつもりはない。
「猫の件、お見事でござった」
真澄が微笑む。
「式神を成仏させ、猫たちを救う。まこと、玄丸殿らしい采配でござる」
真澄は全てを見ていたのか。いや、推測しただけかもしれない。
「玄丸殿」
真澄が真剣な顔になる。
「お主、ただの猫ではござらぬな」
真澄の目が、我を見据える。
「妖か、それとも神か。あるいは……」
真澄が言葉を切る。
「まあ、良い。お主が何者であろうと、姫君を守る存在であれば、拙者は味方でござる」
真澄がそう言って、我に頭を下げた。
「これからも、姫君を頼み申す」
我は「にゃあ」と鳴いた。
当然だ。真白を守ることは、我の使命だ。
「ところで、玄丸殿」
真澄が立ち上がる。
「お主は、理の階位について、どこまで理解しておられるか」
理の階位、か。
我は興味を引かれた。真澄が何を言おうとしているのか、聞いてみたい。
「この世界の理には、階位がございます」
真澄が語り始める。
「最も低い階位は、物理の理。石が落ちる、水が流れる、といった自然の摂理でござる」
我は頷いた。それは、どの世界でも共通の理だ。
「次の階位は、生命の理。生物が生まれ、成長し、やがて死ぬという循環」
真澄の説明は、分かりやすい。
「そして、その上に、霊的な理がございます。魂、妖気、神仏の力。これらは、物理や生命の理を超越した存在」
真澄の目が、我を見る。
「お主が使う力は、おそらくこの霊的な理の領域でござろう」
我は驚いた。真澄は、我が魔法を使えることを知っているのか。
「拙者も、半妖ゆえ、理の階位を感じ取ることができます。そして、お主からは、極めて高位の理を感じるのでござる」
真澄の言葉に、我は少し考えた。
理の階位、か。
確かに、我がいた異世界でも、魔法には階位があった。初級、中級、上級、そして超級。
だが、真澄が言う理の階位は、それとは少し違う。
物理、生命、霊的。
この三つの階位は、単なる力の強弱ではなく、理の本質的な違いを示している。
「玄丸殿」
真澄が我に近づく。
「お主が、どれほどの理を操れるのか、拙者には分かりません。ですが、ひとつだけ、忠告させていただく」
真澄の声が、低くなる。
「理の階位を上げることは、危険を伴います。高位の理を扱えば扱うほど、この世界との齟齬が生じる。やがて、世界そのものに拒絶される可能性がございます」
真澄の言葉に、我は身が引き締まる思いがした。
世界に拒絶される、か。
確かに、我がいた異世界でも、理を極めすぎた者は、世界から弾かれることがあった。永劫炉の暴走も、その一例だ。
「ゆえに、お主には、慎重であっていただきたい」
真澄がそう言って、我の頭を撫でた。
「姫君のためにも」
我は「にゃあ」と鳴いた。
分かっている。我は、もう二度と、理を暴走させるつもりはない。
真白を守るために、我は理を使う。
だが、その理は、決して暴走させてはならない。
真澄が去った後、我は空を見上げた。
秋の空は高く、清々しい。
理の階位、か。
この世界には、まだ我が知らない深淵がある。
だが、焦ることはない。
ゆっくりと、少しずつ、この世界の理を学んでいけばいい。
真白と共に。




