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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
序章:転生と邂逅

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第十話「秋の訪れ」

秋が深まってきた。


屋敷の庭も、少しずつ装いを変えている。松の緑は変わらぬが、楓の葉が緋色に染まり始め、風に揺れるたびにはらはらと舞い落ちる。白い砂利の上を転がる落ち葉は、まるで季節の移ろいそのものを形にしたかのようだ。


我が名は玄丸。黒猫の姿で藤原家の屋敷に暮らす元魔導王である。この世界に来てから、月が満ち欠けを繰り返し、季節が移ろい、我は少しずつこの平安の世に馴染んでいった。真白の優しさに包まれ、真澄や実俊という守護者たちと出会い、猫としての日々に不思議な充足感さえ覚えるようになっていた。


だが、世の中に変わらぬものなど、ない。秋が深まるということは、冬が近づくということだ。そして時の流れは、時に静かな悲しみを運んでくる。



朝の光が障子を透かして差し込む頃、我は目を覚ました。いつもならば真白が傍にいて、我の寝顔を微笑みながら見つめていたりするものだが、今朝は真白の姿が見当たらない。


布団には彼女の体温がまだほんのりと残っている。我は布団から這い出し、伸びをひとつして部屋を出た。廊下の板の冷たさが肉球に伝わってくる。秋も深まると、朝の冷え込みが厳しくなってくるものだ。


奥の部屋のほうから、声が聞こえてきた。真白の声だ。いつもの柔らかな響きとは少し違う、どこか沈んだ調子が混じっている。


「母上、今日のお加減はいかがですか」


我は音を立てないように部屋の前まで近づき、僅かに開いた障子の隙間から中を覗いた。真白が母の枕元に座っている。母は布団に横たわり、顔色はあまり良くない。以前会った時よりも、やつれて見える気がした。


「真白、心配しないで。少し疲れているだけよ」


母の声は穏やかだが、力がない。真白の表情は硬く、無理に笑顔を作っているように見えた。母の手を両手で包み込むように握りしめている。その指先が、微かに震えていた。


我は静かに部屋に入った。物音に気づいた真白が振り向く。


「あら、玄丸。おはよう。早起きね」


真白の声が僅かに明るくなる。だが、その目の奥には不安が滲んでいた。


我は真白の膝に飛び乗り、そっと丸くなった。真白の手が我の背中を撫でる。その手の温もりが、いつもよりも少し、震えているように感じられた。


「玄丸も、母上にご挨拶してちょうだい」


真白に促され、我は母のほうを向いた。母が優しい目で我を見つめている。


「まあ、玄丸。いつも真白の傍にいてくれて、ありがとうね」


母の手が伸びてきて、我の頭を撫でた。その手は温かいが、以前よりも細く、力が弱い。生命の気が薄れているのを、我は感じ取っていた。


「玄丸は、本当に賢い子。まるで人の心が分かるみたい」


母がそう言って微笑む。我は「にゃあ」と小さく鳴いた。分かっている。お前の言わんとしていることも、真白の不安も、全て分かっている。


「真白」


母が真白の顔を見つめる。


「あなたは強い子よ。どんなことがあっても、きっと乗り越えられる」


「母上、何をおっしゃるのです。母上はすぐに良くなられますわ」


真白の声が僅かに上ずる。母はただ優しく微笑むだけだった。


「ええ、そうね。でも、もしもの時のために。玄丸がいてくれるから、私も安心していられるわ」


母の手が、また我の頭を撫でた。その手の温もりが、どこか遠い場所へ向かおうとしているような、そんな儚さを感じさせた。



昼過ぎ、真白は庭に出て縁側に座っていた。秋の陽射しが優しく降り注ぎ、楓の葉が風に揺れている。赤や黄色に色づいた葉が、時折はらりと落ちては白砂の上を転がっていく。


我は真白の隣で丸くなっていた。真白は何も言わず、ただ庭を見つめている。その横顔に浮かぶ表情は、いつもの穏やかさの中に、どこか寂しげな影を宿していた。


「綺麗ね」


真白がぽつりと呟く。


「秋の庭は、いつ見ても美しいわ。でも、どこか寂しくもある」


真白の手が、無意識に我の背を撫でる。


「玄丸」


真白が我に語りかける。


「母上の病が、なかなか良くならないの。お医者様も、陰陽師の方々も、色々と手を尽くしてくださっているのだけれど」


真白が膝の上で手を組む。その指が、互いに強く握り合っている。


「実俊様も、陰陽寮の文献を調べて、病を癒やす術がないか探してくださっているそうよ。真澄も、薬草を集めてくれたり、結界を張ったりしてくれている」


真白の声が、だんだんと小さくなっていく。


「でも、母上は少しずつ、少しずつ、弱っていくの」


我は真白の膝に顔を乗せた。真白が俯いて、我の頭を両手で包み込む。


「怖いの、玄丸。母上を失うのが、怖い」


その言葉を聞いて、我の胸が締め付けられた。真白の不安が、痛いほどに伝わってくる。


「母上は、いつも私に言っていたの。『生きとし生けるもの、全てに始まりと終わりがある。それが世の理である』と」


真白が空を見上げる。高い秋の空に、薄い雲が流れている。


「理では分かっているの。でも、心が、受け入れられない」


真白の目から、一筋の涙が伝った。


我は、言葉が欲しいと思った。真白を慰める言葉が。だが我には言葉がない。だから、我は真白の頬に顔を擦り寄せた。猫ができる、精一杯の愛情表現だ。


「ありがとう、玄丸」


真白が我を抱きしめる。


「あなたは、私の心を支えてくれる」


真白の腕の中で、我は目を細めた。せめて、この温もりだけでも、真白の心を支えられたらと願う。


「私も、母上のようになりたいと思っていた。優しく、強く、どんな困難にも立ち向かえる人に」


真白の声が、決意を帯びてくる。


「だから、私も強くならなければ。母上が心配しないように、笑顔でいなければ」


真白が顔を上げる。その目には涙が滲んでいたが、同時に、強い意志の光も宿っていた。


「玄丸、あなたも強いのでしょう?」


真白が我を見つめる。我は何も答えられない。だが、真白の目をじっと見つめ返した。


強い、か。我はかつて、力こそが強さだと思っていた。だが今、真白を見ていて思う。本当の強さとは、悲しみの中でも立ち上がり、他者を想い、笑顔を絶やさないことなのではないか、と。


「ふふ、玄丸。あなた、本当に不思議な猫ね。まるで、私の心が読めるみたい」


真白が微笑む。その笑顔は、まだ少し寂しげだったが、以前よりも明るさを取り戻していた。


「さあ、そろそろ戻りましょう。母上の様子を見に行かなければ」


真白が立ち上がる。我は真白の腕の中で、庭を振り返った。秋の日差しを浴びて、楓の葉が美しく輝いている。



夕刻、真澄が母の部屋から出てきた。その表情は、いつもの冷静さを保ちながらも、どこか重苦しさを湛えていた。


「真澄、母上のお加減は」


真白が声をかける。真澄は一瞬、言葉に詰まった。それから、静かに口を開く。


「お医者様の診立てでは、快方に向かう兆しは見えないとのことでございます」


「そう、ですか」


真白の顔が、僅かに青ざめる。


「ですが、お母上は強いお方です。必ずや、この病魔を乗り越えられましょう」


真澄の言葉には、確信よりもむしろ、祈りに近いものが込められていた。


「真澄、ありがとう。私、母上の傍にいてまいります」


「姫君」


真澄が真白を呼び止める。


「お母上は、姫君に元気でいてほしいと願っておられます。ですから、どうか。無理に笑顔を作らずとも、ありのままのお気持ちを大切になさってください」


真白が真澄を見つめる。その目が、僅かに潤む。


「でも、私が泣いていたら、母上が心配なさるわ」


「それでも、姫君が無理をなさっているほうが、お母上はもっと心を痛められましょう」


真澄の言葉に、真白は黙り込んだ。しばらくの沈黙の後、真白は小さく頷いた。


「分かりました。ありがとう、真澄」


我は真白の足元にいた。真白が屈んで、我を抱き上げる。


「玄丸も、一緒に来てくれるわね。あなたがいてくれると、心強いの」


我は「にゃあ」と小さく鳴いた。当然だ。我はどこへでも、真白と共に行く。



母の部屋に入ると、薄暗い室内に香の匂いが漂っていた。病を癒やすという薬草を焚いているのだろう。母は布団に横たわり、目を閉じて静かに眠っている。


真白が母の枕元に座る。我は真白の膝の上で丸くなった。


「母上」


真白が静かに呼びかける。母が薄く目を開けた。


「あら、真白。それに玄丸も」


母の声は弱々しいが、優しさに満ちていた。


「お加減はいかがですか」


「ええ、少し良くなった気がするわ」


母がそう言って微笑むが、それが真実かどうか、誰にも分からない。


「玄丸、いつも真白の傍にいてくれて、ありがとうね。この子は、本当に不思議な子。まるで人の言葉が分かるかのよう」


母が真白を見る。


「真白、あなたにはこの子がいる。きっと、あなたを守ってくれるわ」


「母上、何をおっしゃるのです。母上はすぐに良くなられます。そうして、また一緒に庭で月を見ましょう」


「ええ、そうね。月見、楽しみにしているわ」


母が優しく微笑み、再び目を閉じた。呼吸は浅く、規則的だ。また眠りに落ちたようだった。


真白が母の手をそっと握る。その手を握りしめたまま、真白は動かない。我は真白の膝の上で、じっとしていた。


窓の外から、秋の夕暮れの光が差し込んでくる。空が赤く染まり、やがて紫に変わっていく。


真白の手が、我の背を撫でた。その手の温もりが、少し震えているのを感じた。


我は、心の中で誓った。どんなことがあっても、真白を支えようと。言葉にできない慰めを、ただ温もりで伝え続けようと。



夜になり、月が空に昇った。満月には少し欠けているが、それでも明るい月だ。その光が障子を透かして、部屋の中を淡く照らす。


真白は、まだ母の傍にいた。我も、真白の膝の上にいる。


「綺麗な月ね」


真白が呟く。


「母上、月が見えますか」


母は目を閉じたまま、小さく頷いた。


「ええ、見えるわ。とても綺麗。真白の歌も、聞きたいわ」


「はい」


真白が少し考えてから、静かに詠み始めた。


「秋深く庭に散りゆく紅葉かなされど心は春を待ちけり」


真白の声が、静かに部屋に響く。その瞬間、部屋の空気が僅かに震えた気がした。言霊の力だろうか。真白の言葉に、何か特別な力が宿っているのを感じる。


「良い歌ね」


母が微笑む。


「秋が過ぎれば、また春が来る。そう、全ては巡るのよ。真白、あなたは強い子。どんな時でも、春を待つ心を忘れないで」


「はい、母上。玄丸も、一緒にいてくれるから」


母が我を見る。


「ね、玄丸」


我は「にゃあ」と小さく鳴いた。そうだ。我は、真白と共にいる。春を待つその時まで、ずっと。


母が安心したように微笑み、また目を閉じた。その寝顔は穏やかで、苦しみの色はない。ただ静かに、眠っているだけだ。


真白が、我を抱きしめた。


「玄丸、あなたは私の希望よ」


真白の声が、我の耳元で囁く。


「どんなに暗い夜でも、あなたがいれば、朝を待つことができる」


真白の腕の中で、我は目を閉じた。月の光が、部屋を優しく照らしている。


季節は巡り、時は流れる。秋が深まれば冬が来て、やがて春が訪れる。その時まで、我は真白と共にいよう。どんな悲しみがあろうとも、どんな困難が訪れようとも。


それが、我にできる唯一のことであり、そして我が真白に捧げる、言葉なき誓いであった。

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