第2章 大和の日常 (後編)
解放感に沸き立つ生徒たちの喧騒を、大和はどこか遠くに聞いていた。
緊張の糸がぷつりと切れた身体は、静寂を求めている。この混乱した頭を冷やすには、いつもの場所が一番だ。
大和は自分の弁当を手に、静かに席を立った。
その背中を、一対の美しい瞳が、楽しそうに細められて見送っていたことなど、彼はまだ知る由もなかった。
教室の喧騒を背に、大和はまるでそこから空気を押し出すかのように、ゆっくりと廊下を歩き始めた。弁当の重みよりも、頭の中に居座る思考の方がよっぽど重い。
(……『心優しい存在』、か)
脳裏で、歴史の授業中の凛の声が再生される。
クラスの誰もが、ただの昔話として聞き流していたであろう、あの言葉。だが、自分にだけ向けられた、あの挑戦的な視線。あれは、間違いなく意図されたメッセージだった。
あれは牽制だったのか。『あなたの知っている私は一面でしかない』という。
それとも、朝の仕返し? 『授業という舞台では、私の独壇場よ』という、教師としてのプライドを見せつけたのか。
あるいは、もっと別の……。
考えれば考えるほど、思考は迷宮に迷い込んでいく。たった一人の転校生によって、これまで鉄壁だと思っていた自分の平穏な日常が、いとも容易く掻き乱されている。その事実が、どうしようもなく腹立たしかったし、同時に、心のどこかで奇妙な高揚感を覚えている自分もいることに気づいてしまい、さらに混乱した。
今はただ、誰にも邪魔されない場所で、この熱くなった頭を冷やしたかった。
気づけば、足は自然と、いつもの場所へと向かっていた。
校舎の裏手にある、小さな中庭。ほとんどの生徒はその存在すら知らず、用務員が手入れする季節の花が、ひっそりと咲いているだけのお気に入りの場所だった。
木陰にあるベンチに腰を下ろし、ようやく一人になれたことに、大和は深く息を吐く。
(午後の最初の授業は、なんだっけ……)
弁当の包みを開きながら、先ほどの授業を思い出す。あの挑戦的な視線。これから、あの緊張感が日常になるのかと思うと、少し胃が痛んだ。
「はぁ……」
ため息交じりに、そんな独り言を言った、その時だった。
「――つまらない授業で、悪かったわね」
すぐ背後から、澄んだ声が降ってきた。
「うわっ!?」
大和は心臓が飛び跳ねるほどの驚きに、思わず変な声を上げて振り返った。
そこに立っていたのは、弁当の入った可愛らしい風呂敷包みを手に、にこりと微笑む琥珀凛、その人だった。
「せ、先生……。なんで、ここが……?」
「あなたをつけてきたからに、決まっているでしょう? 気づかなかったの?」
悪びれもせず、凛はそう言ってのける。まさか、尾行されていたとは。全く気づかなかった。
「……ところで」
凛は、品定めするように中庭を見渡し、少し眉をひそめた。
「こんな陰気臭いところで、毎日一人でご飯を食べているの? 友達いないのかしら」
「……余計なお世話です。俺は、こっちの方が性に合ってるんで」
「あっそ。じゃあ、私もここで食べようかしら」
「なんでそうなるんですか!」
凛は、大和の抗議など聞こえないふりをして、ずかずかと隣に腰を下ろした。近すぎる距離に、彼女の上品な香りがふわりと漂い、大和の心臓を無駄に速くさせる。
「いいじゃない。光栄に思いなさい? こんな綺麗な女性と、ランチをご一緒できるのよ? 都会に行けば、お金を払ってでも美人とお食事したい、なんていう殊勝な殿方もいるらしいわよ?」
「そうですか。俺はそんな大人にはなりませんし、今はただ、一人で静かに食べたいんですが」
「……可愛くないわね。その性格、友達に嫌われるわよ?」
「嫌われて結構です。数だけいても意味がない。本当に心を許せる友人が、一人か二人いれば、それで十分なんで」
大和がサンドイッチを一口食べながらそう答えると、凛は意外そうな顔をして、そして、ふっと楽しそうに笑った。
「なら、その数少ないご友人の一人に、私なんてどうかしら?」
「……なんで、そうなるんですか」
呆れて、二口目のサンドイッチを頬張る。
「だって、私たち、秘密を共有する仲じゃない。いわば共犯者よ? これからあなたが困った時、色々と助けてあげられるかもしれないわよ?」
そう言って、凛は蠱惑的に小首を傾げてみせた。長い髪が、さらりと揺れる。
それは、並の男子高校生なら一瞬で魂を抜かれるであろう、完璧な「色仕掛け」。
だが、大和は表情一つ変えなかった。
「……その色仕掛けとも取れる脅しは、通じませんよ。あと、そのキャラ、朝の教室でも言いましたけど、やっぱりやめた方がいいです」
サンドイッチを食べ終えた大和は、牛乳パックを一気に煽ると、そのまま静かに立ち上がった。
「……ごちそうさまでした。俺は、先に失礼します」
「なっ……!」
残された凛は、あっけにとられて、去っていく大和の背中を見つめることしかできなかった。
.
「……あいつめ」
一人になった中庭で、凛は悔しそうに唇を噛んだ。
まただ。また、あの少年は、私のペースをいとも簡単に崩していく。
「いいわ。そっちがその気なら……午後の授業では覚えてなさいよ?」
復讐を誓い、凛は自分の弁当からおにぎりを一つ取り出すと、腹いせのように大きな口で、がブリと頬張った。
(んぐっ……!?)
だが、勢いよく頬張りすぎたせいで、米粒が変なところに入ってしまった。
「ごほっ! げほっ、ごほっ……!」
完璧な美女教師が、一人、中庭で涙目になってむせている。そんな情けない姿を、今は誰にも見られていないことが、せめてもの救いだった。




