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放課後、君は月夜に啼く  作者: 藤風大地


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第2章 大和の日常 (中編)

空き教室から自分のクラスへと戻る、わずか数十メートルの廊下が、ひどく長く感じられた。

藤原大和の頭の中は、先ほどの出来事で飽和状態だった。

冷徹な妖の仮面。脅し文句を「イタイ」と一蹴された瞬間の、間の抜けた顔。そして、真っ赤になって怒りを爆発させていた、人間らしい(妖だが)素顔。

琥珀凛という存在が、もはや情報量の多すぎる奔流となって、大和の思考をかき乱していた。

(……これから、どうなるんだ)

自分の席に戻り、頬杖をつく。

教室は、いつも通りの、ありふれた授業前の光景が広がっていた。友達と昨日のテレビの話をする者、慌てて宿題を終わらせようとしている者、静かに本を読んでいる者。

誰も知らない。ほんの数分前、あの廊下の先で、自分たちの副担任と一人の生徒が、世界の理を揺るがすような密約を交わしたことなど。

この教室の中で、世界の秘密を知ってしまったのは、自分だけ。その事実が、まるで自分だけを分厚いガラスで覆ってしまったかのような、奇妙な疎外感をもたらした。

隣の席の健太がニヤニヤしながら話しかけてきた。

「お前、凛先生と二人っきりでどこ行ってたんだよ。しかも、なんか先生、顔赤くなかったか? 何したんだ、おい!」 「……別に、何もしてない。教材を運んでただけだ」 「嘘つけー! 絶対なんかあっただろ! 女子の視線、すごいことになってるぞ」

健太に言われ、ふと周りを見渡せば、クラス中の女子生徒たちが、こちらを興味津々な、あるいは少し嫉妬の混じった視線で見ていることに気づく。 (最悪だ……) 大和は適当に健太をあしらいながら、頬杖をついた。教室は、いつも通りの、ありふれた授業前の光景が広がっている。だが、自分だけがその輪から弾き出され、分厚いガラスで覆われてしまったかのような、奇妙な疎外感が胸に広がっていた。

やがて、授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。

一時間目は、数学。年配の教師が、気怠そうな声で数式を黒板に書き連ねていく。

sin、cos、tan……。これまで、何の疑問も持たずに受け入れてきた記号の羅列が、今はひどく空虚なものに見えた。世界には、こんな数式では到底証明できない、狐に変身する美しい先生が存在するというのに。

教師の声は、まるで遠い場所から聞こえてくる雑音のようだった。

二時間目は、古典。

『……さて、この一節から読み取れる作者の心情ですが』

平安時代の貴族が抱いた、会えぬ人への恋心。そんなものは、五百年以上も生きてきた妖狐の、怒りや羞恥心に比べれば、なんてちっぽけなものなのだろうか。

教科書の文字が、ただの黒いインクの染みにしか見えない。

そして、三時間目。

教室の空気が、ふわりと華やいだ。甘く、上品な香りと共に、彼女が教室に入ってきたからだ。

「はい、皆さんこんにちは。歴史の授業を始めますよ」

琥珀凛だった。

彼女は、何事もなかったかのように、完璧な笑顔を浮かべて教壇に立つ。その姿は、朝の空き教室で顔を真っ赤にして怒っていた人物と、到底同一とは思えなかった。

その完璧な仮面に、大和は言いようのない畏怖すら感じる。

「今日は、この地域に古くから伝わる伝承について、少し触れてみたいと思います」

凛がそう言った瞬間、大和の心臓が、どくりと大きく跳ねた。

クラスの他の生徒たちは、「えー、昔話ー?」などと、興味なさげな反応を示している。

すると、一番前の席の男子生徒が、少し茶化すように手を挙げた。

「先生ー、それってただの昔話ですよね? 正直、テストにも出ないし、あんま興味ないんスけど」

教室に、くすくすという笑いが漏れる。少し意地の悪い、教師を試すような質問だった。 大和は、凛がどう返すのかと、固唾を飲んで見守った。 しかし、凛は少しも表情を崩さなかった。それどころか、楽しそうに目を細めて、その生徒に語りかけた。

「いい質問ね、田中くん。確かに、昔話はただのお話だと思われがち。でもね、歴史っていうのは、テストの点数を取るためだけにあるんじゃないの」

彼女の声は、不思議なほどよく通った。

「例えば、この村の妖狐伝説。なぜ、狐だったと思う? それは、昔の人々がお米を作って生活していて、そのお米を食べてしまうネズミを、狐が退治してくれたから。つまり、狐は神様の使いだって、感謝されていたの。その感謝の気持ちが、伝説という形で今に残っているとしたら……どうかしら? ただの昔話も、昔の人々のリアルな生活や祈りが詰まった、タイムカプセルのように思えてこない?」

凛の巧みな話術に、教室は水を打ったように静まり返っていた。 「へぇ……」と、質問した田中くん本人も、素直に感心した声を漏らしている。凛は、クラス全体を見渡して、にこりと微笑んだ。教師としての、圧倒的なカリスマ性がそこにはあった。

だが、大和だけは、その言葉の本当の意味を理解していた。

「では、改めて、この村には、昔から妖狐、特に九尾の狐にまつわる伝説が多く残されています。表向きは、人に災いをもたらす存在として語られることが多いのですが……」

凛は、教室内をゆっくりと見渡しながら、言葉を続ける。

そして、その視線が、一瞬だけ、ぴたりと大和の上で固定された。

目が合う。

彼女の瞳の奥が、悪戯っぽく、きらりと輝いた。

「――文献によっては、実は人間を守る、心優しい存在として描かれているものもあるんですよ。面白いでしょう?」

それは、他の誰にも分からない、大和ただ一人に向けられたメッセージだった。

『あなたが見た私も、その一面でしかないのよ』とでも言うような、挑戦的な視線。

大和は、ゴクリと喉を鳴らした。これは、授業の皮を被った、彼女からの牽制。あるいは、仕返し。

心臓が、うるさい。平穏だったはずの日常が、スリリングな心理戦の舞台へと変貌してしまった。

つまらないと思っていた授業が、今は息をすることも忘れるほどの緊張感に満ちている。

彼女が黒板に文字を書く、その美しい後ろ姿。あの艶やかな髪に混じる、一筋の白い線。

ふと、昨夜見た、琥珀色の毛並みを思い出す。あの背中に走っていた、月光を浴びて輝く、白い一筋の光を。

目の前の教師と、昨夜の狐の姿が、だぶって見える。

完璧な先生の頭に、ぴょこんと狐の耳が生えている幻覚さえ見えそうだった。

(……まずいな)

もはや、授業の内容など、一文字も頭に入ってこない。

ただ、彼女の一挙手一投足から、目が離せなくなっていた。

――キーンコーンカーンコーン……。

やがて、午前中の終わりを告げるチャイムが、教室に鳴り響いた。

その音は、まるでゴングのように、大和の耳には聞こえていた。

緊張の糸が、ぷつりと切れる。

「よーし! 昼だー!」

解放感に沸き立つ生徒たちの喧騒を、大和はどこか遠くに聞いていた。

静かな場所で、一人になって、この混乱した頭を冷やしたかった。

いつもの場所へ行こう。

大和は、自分の弁当を手に、静かに席を立った。

その背中を、一対の美しい瞳が、楽しそうに細められて見送っていたことなど、彼はまだ知る由もなかった。

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