第2章 大和の日常(前編)
自宅のドアを開け、鍵をかける。その、いつもと変わらない動作が、ひどく現実感のないものに感じられた。
藤原大和は、玄関にへたり込むようにして、大きく息を吐いた。
(……狐)
脳裏に焼き付いて離れないのは、月光の下で苦しげに息をしていた、あの美しい琥珀色の姿。
あの凛とした、完璧な美貌を持つ琥珀先生が、妖狐。
あまりに非現実的な情報が、頭の中でぐるぐると回り続けている。夢だったのではないか。疲れていて、幻覚でも見たのではないか。
だが、肌に残る夜の空気の冷たさと、早鐘のように鳴り続ける心臓が、あれは紛れもない現実だったと告げていた。
「……これから、どうなるんだ」
誰に聞かせるともない呟きが、静まり返った家に虚しく響いた。
明日から、一体どんな顔をして先生に会えばいいのか。答えなど、出るはずもなかった。
浅い眠りの底で、何度も同じ光景が再生された。
月光の下、苦悶に歪む美しい顔。絹を裂くような絶叫と、人を人ならざるものへと変貌させる、あまりに禍々しく、そして美しい琥珀色の光。
「……っ」
藤原大和は、心臓が跳ねるのを感じて目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨夜の出来事が夢ではなかったと無慈悲に告げている。頭が鉛のように重い。寝たような、寝ていないような、曖昧な感覚だけが身体にまとわりついていた。
顔を洗い、トーストをかじり、制服に袖を通す。いつもと寸分違わぬ朝のルーティン。だが、その一つ一つの動作に、全く現実感がなかった。
自分の日常は、昨日、あの神社で終わってしまったのではないか。
今日から始まる一日は、一体どんな顔をして自分を待ち受けているのだろう。
「……行くか」
重い足取りで玄関のドアを開ける。
学校までの見慣れた道が、まるで知らない場所のように感じられた。すれ違う生徒たちの楽しそうな笑い声が、ひどく遠い世界のものに聞こえる。彼らは知らないのだ。自分たちの学校に、人間ではないモノが紛れ込んでいることを。そして、自分がその秘密を、よりにもよって共有してしまった、唯一の人間であることを。
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教室の扉を開ける手が、ためらいがちに止まる。
深呼吸を一つして、意を決して中へ入った。
(……いた)
教壇の近くで、同僚の教師と穏やかに談笑している琥珀凛の姿が、真っ先に目に飛び込んできた。
完璧な笑顔。優雅な立ち姿。昨夜、狐の姿で錯乱し、涙さえ浮かべていた姿など、まるで幻だったかのように、そこには完璧な「琥珀先生」がいた。
その完璧さが、逆に大和の背筋をぞわりとさせた。
――目が、合った。
凛は、にこり、と完璧な笑みを浮かべたまま、ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に冷たい光を宿した。
大和は咄嗟に視線を逸らし、自分の席へと足早に向かう。心臓が、早鐘のようにうるさい。
やがて、朝のホームルームが始まった。
「皆さん、おはようございます」
凛が教壇に立ち、いつもと変わらぬ鈴の鳴るような声で挨拶をする。その声を聞くだけで、大和の胃はきりりと痛んだ。
ホームルームが終わり、生徒たちが各々の授業の準備を始める、その時だった。
「藤原くん、ちょっといいかしら?」
凛の声が、教室に響いた。
クラス中の視線が、一斉に大和へと突き刺さる。
「教材を準備室まで運ぶのを、少し手伝ってもらえない?」
「えー、いいなー」「大和、役得じゃん」
周囲から羨望と嫉妬の混じった声が上がるが、大和の耳には届いていなかった。これは、ただのお願いではない。昨夜の続きを告げる、召喚状だ。
「……はい」
断れるはずもなく、大和は静かに立ち上がり、凛のもとへと向かった。
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凛の隣を、少し距離を置いて歩く。彼女から香る、甘く上品な匂いが、今はただの毒のように感じられた。
準備室とは違う方向へ向かう廊下で、凛はふと足を止め、一番近くにあった空き教室の扉に手をかけた。
「入って」
有無を言わさぬ声。
凛は、大和を教室の中へとぐいと押し込み、背後で扉を閉めた。
カチャリ、と無機質な鍵の音が響く。
二人きりになった瞬間、凛が纏う空気が一変した。
聖母のような微笑みは消え失せ、そこに立っていたのは、昨夜と同じ、地の底を思わせる冷徹な瞳をした「妖」だった。
「藤原くん。改めて聞くわ。昨日のことは、黙っているのよね?」
その声は、絶対的な捕食者のそれだった。
「私にとっても、あなたにとっても、それが最善の選択。もし、あなたが誰かに話そうとする素振りや予兆を見せた、その瞬間――私はこの力を使って、あなたを亡き者にすることもできるの。わかっているわね?」
完璧な脅し。だが、不思議と、大和の心は凪いでいた。
恐怖よりも先に、冷静な思考が働いてしまう。
「先生」
「なにかしら」
「俺たちがこうして二人きりで空き教室にいる姿を誰かに見られる方が、よっぽどまずいんじゃないですか? それこそ、余計な噂が広まりますよ」
「……え?」
凛の冷徹な仮面に、ぴしりと亀裂が入った。
その動揺を、大和は見逃さない。
「先生の秘密は、黙っています。誰かに話そうとも思っていません。だから、こちらも一つ、よろしいですか?」
「……な、なにかしら?」
ペースを握ったことを確信し、大和は、昨夜からずっと感じていたことを、そのまま口にした。
「その脅し方、正直、ちょっとイタイですよ。先生には、似合いません。やめた方がいいと思います」
「…………は?」
凛は、呆気に取られた顔で固まった。
500年の時を生きてきて、幾人もの人間を恐怖の底に叩き込んできた妖狐の脅し文句が、目の前の高校生に、「イタイ」の一言で一蹴された。
彼女の頭の中が、真っ白になる。
「……あ、ご、ごめんなさいね。もう、しないわ。……そ、それじゃあ、もう教室に戻ってちょうだい」
かろうじてそれだけを絞り出し、凛はぷいっと顔を背けた。その耳が、ほんのり赤く染まっているのを、大和は見逃さなかった。
「わかりました。では、失礼します」
軽く一礼し、大和は空き教室から出ていった。
一人残された教室で、凛は、わなわなと肩を震わせる。やがて、その震えは爆発した。
「なっ……なによ、アイツ……! イタイって言ったわよね!? この私に向かって、イタイですって!?」
顔を真っ赤にして、声にならない叫びを上げる。
「覚えてなさいよ……! 絶対に、目にもの見せてやるんだから! あームカつく! イライラする!!」
美しき妖狐の、ささやかな復讐劇の幕が、今、静かに上がった。




