琥珀色の絶望と、小さな愉悦
森の奥深く。月光すら届かぬ闇の中、琥珀凛――否、月夜は、震える身体を必死に抱えていた。
(ありえない、ありえない、ありえない!)
思考が、同じ言葉をただ繰り返す。
致命的な失態。なぜ、あんなに警戒していた満月の夜に、よりにもよって自分の聖域であるあの神社で、完全に油断しきっていたのか。500年以上の時を生きてきて、これほどの失態は初めてだった。
そして、何よりも屈辱的なのは。
見られた。生徒に。あの、藤原大和という少年に。
妖としての、絶対的な捕食者としての威厳を込めて、完璧な脅しをかけたはずだった。あの冷たく、地の底から響くような声は、並の人間ならば魂ごと凍りつかせ、失禁して命乞いを始めるレベルのものだ。
それなのに。
彼は、泣きも叫びもせず、ただ凪いだ瞳でこちらを見つめ返し、そして、言ったのだ。
――『綺麗だなって』
(……っ!)
思い出すだけで、全身の毛が逆立つような、言いようのない羞恥心がこみ上げてくる。
妖としての尊厳が、木っ端微塵に砕かれた気分だった。あれは同情? それとも、ただの天然? どちらにせよ、私の妖狐としてのプライドは、完全に地に堕ちた。
そして、極めつけは。
――『そっちこそ何百年も生きてる妖怪なら、おばさんじゃん』
「~~~~~~~~ッ!!」
瞬間、怒りが羞恥心を上回り、沸点に達した。
地面に転がっていた手頃な岩を、前足で思い切り蹴り飛ばす。ゴッと鈍い音を立てて、岩は闇の中へと消えていった。
「お、おばさんですって!? あのクソガキ……! 人の気も知らないで!」
妖狐としての威厳も、教師としての体裁も、今はどうでもよかった。
ただただ、琥珀凛という「うら若き女性(26歳設定)」の仮面を被る私が、年端もいかぬ少年に、最大級の侮辱を受けたという事実だけが、腹の底でマグマのように煮え繰り返っている。
「覚えてなさいよ……!」
しばらく、荒い息を繰り返していたが、やがて、ふっと冷静さが戻ってきた。
そうだ。殺さなかったのは、正解だったかもしれない。
あの少年は、他の人間とは明らかに違う。私の正体を見ても、脅しをかけても、全く動じなかった。それどころか、こちらのペースを完全に乱してみせた。
(面白い……)
これまでの人間は、二種類しかいなかった。私を崇める者か、私を畏れる者か。
だが、彼はそのどちらでもない。
初めてだった。私の本質を見ても、態度を変えなかった人間は。
「藤原、大和……」
その名前を、舌の上で転がしてみる。
退屈しのぎ、のつもりだった。だが、彼はどうやら、私の想像を遥かに超える、極上の玩具になってくれそうだ。
――ふふっ。
闇の中で、月夜の口元が、三日月のように吊り上がった。
「明日からが、楽しみになってきたじゃないの」
秘密を共有してしまった、ただ一人の人間。
彼が一体、どんな反応をしてくれるのか。どんな表情を見せてくれるのか。
これまでの退屈な日常が、一瞬にして色鮮やかなものに変わっていく予感がした。
まずは、手始めに、どんなイタズラを仕掛けてやろうか。
妖狐の瞳が、悪戯っぽく、きらりと黄金色に輝いた。
こちらは、凛(月夜)の気持ちを描いた章となります。
章の終わりには凛sideの章を描いていきます。




