第1章 運命の出会い (後半)
金縛りの術は解かれていない。だというのに、大和は身体の自由が効かないことよりも、目の前で「完璧な教師」の仮面がガラガラと崩れ落ちていく様に、ただただ困惑していた。
さっきまでの殺気はどこへやら。美しい琥珀色の狐は、まるで子供のようにわたわたと狼狽えている。
「いや……その……」
大和はようやく、凍りついていた思考を再起動させ、口を開いた。
「怖くない、というか。綺麗だなって……。いや、なんていうか、自分でも混乱してるんですけど」
「はぇ……?」
凛は、予想外すぎる感想に、素っ頓狂な声を上げた。綺麗? この姿が? 一族から忌み嫌われた、この琥珀の毛並みが?
大和は続ける。
「というか先生こそ、どういう神経してるんですか。さっき、生徒に向かって『食い殺す』とか『存在もろとも消す』とか言いましたよね? 普通、教師が生徒に言う言葉じゃないですよ」
「そ、それは……! あなたが全部見ているのが悪いのよ!」
「寝過ごしただけです。不可抗力です」
「だとしても! 普通はもっとこう、命乞いとか……!」
「普通は教師が狐にならないんですよ」
売り言葉に買い言葉。もはやどちらが脅していて、どちらが脅されているのか、完全に分からなくなっていた。
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「はぁ……はぁ……」
ひとしきりの言い合いを終え、狐の姿の凛は、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。妖力を使うより、よっぽど疲れる。
彼女は観念したように、大きなため息をついた。
「……わかった。よし、わかったわ」
凛は一度気持ちを切り替えるように、パン、と前足で地面を叩いた。
「この件は、お互いに黙っていることにしましょう。いい? 私もあなたの口を封じたりしない。その代わり、あなたも誰にも言わない。それが一番の解決策よ。わかった?」
有無を言わさぬ、取引の提案。大和はこくりと頷いた。
「わかりました。今見たことも、この会話も、他言無用ということで」
「そうよ。そして、明日からの学校生活も、これまで通りに接すること。私は副担任の琥珀凛、あなたは生徒の藤原大和。それ以上でも、それ以下でもないわ。いいわね?」
「了解です」
話がまとまったことに安堵し、凛はふっと身体の力を抜いた。
「わかったのなら、さっさと帰りなさい! もう何時だと思ってるの! 子供はとっくに寝る時間よ!」
急に保護者のようなことを言い出す凛に、大和は少しむっとした。鞄を拾い上げながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぼそっと呟く。
「……子供じゃないし。というか、そっちこそ何百年も生きてる妖怪なら、おばさんじゃん」
――ぴくっ。
その瞬間、凛の狐の耳が、ありえない角度に跳ね上がった。
境内の空気が、再び氷点下にまで下がる。
「……なんか言った?」
地を這うような低い声。先ほどの殺気とは質の違う、純度100%の怒りが、そこにはあった。
「い、いえ、何も……」
「『お・ば・さ・ん』って言ったわよね!? 聞こえたわよ! こっちは! 生徒に馬鹿にされないように! 年齢詐称して! 必死に生活してるのよ! あなたに何がわかるっていうの!?」
怒りの感情に任せ、凛は大和に襲いかかった。と言っても、じゃれつくように前足でぺちぺちと叩くだけで、全く威力はない。
「私の気持ちなんて、あなたなんかにわかるもんですか! どんなに惨めで、虐げられた人生だったか! ううっ……もう、こんなことになるなら、山から降りてくるんじゃなかった……!」
怒っていたかと思えば、急にその瞳に涙を浮かべる。感情の起伏が、あまりにも激しい。
その悲痛な声に、大和は、自分が本当に言ってはいけないことを口にしてしまったのだと、ようやく理解した。
「……あの」
「なによ!」
「ごめんなさい。俺が、言いすぎました」
それは、心の底からの謝罪だった。
「その……狐の姿の先生、本当に、綺麗ですよ。嘘じゃなくて」
真摯な瞳でそう告げられ、凛はぐっと言葉に詰まる。
怒りも悲しみも、彼の真っ直ぐな言葉の前に、行き場を失ってしまった。
「……っ、今更お世辞言ったって、何も出ないわよ! ……いいから、もう帰って!」
凛はぷいっとそっぽを向き、金縛りの術を解いた。
身体の自由を取り戻した大和は、もう一度、「すみませんでした」と頭を下げ、帰りの身支度を済ませる。
「……では、失礼します」
声をかけたが、凛からの返事はなかった。
ただ、暗い森の奥へと、その琥珀色の姿がすっと消えていくのが見えただけだった。
一人残された境内で、大和は大きく息を吐く。
自分の日常が、今、決定的に、非日常に侵食されてしまった。
美しい副担任の、致命的な秘密。
これから、一体どうなってしまうのだろうか。
答えは、夜の闇の向こう側だった。




