第1章 運命の出会い (前半)
始業式から一週間が過ぎた。
あれだけ学校中を騒がせた絶世の美女、琥珀凛は、驚くべき速さでクラスに溶け込んでいた。彼女が教壇に立てば男子生徒は目を輝かせ、廊下を歩けば女子生徒からも憧れの視線が注がれる。完璧な教師、それが今の彼女の評価だった。
「じゃあ、みんな気をつけて帰ってねー!」
ホームルームの終わり、ひらひらと手を振る凛の姿は、まさしく聖母のようだった。その喧騒を背に、藤原大和は一人、静かに席を立つ。
「……帰るか」
いつも一人だ。友人がいないわけではないが、放課後まで誰かと行動を共にするのは、どうにも気疲れしてしまう。
そんな彼の背中を、職員室の窓からじっと見つめる視線があった。
(あの子、藤原くん……。いつも一人なのね。友達、いないのかしら)
凛は、なぜか気にかかるその生徒の後ろ姿を、小さくなるまで見送っていた。
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苔むした石段を上り、鳥居をくぐる。ひんやりとした神聖な空気が、火照った思考を冷ましてくれる。
「ふぅ……着いた。やっぱり、ここが一番落ち着くな」
大和はいつものベンチに腰を下ろし、文庫本を開いた。春の午後の柔らかな日差し、心地よい風、そしてページをめくる音。完璧な時間が、そこには流れていた。
その心地よさに、つい、うとうとと……。
――はっ、と意識が浮上した時、世界は様変わりしていた。
あれほど明るかった空は深い藍色に染まり、あたりはすっかり夜の闇に沈んでいる。まずい、完全に寝過ごした。
「……ん?」
神社の入り口の方から、誰かが歩いてくる足音が聞こえる。こんな時間に誰だろうか。大和は咄嗟に、身を隠すように本殿の影へと移動した。
「……なんで私が残業なのよ! 全く! 今日は美容室に行こうと思ってたのに!」
聞こえてきたのは、不機嫌そうな、しかし聞き覚えのある声。そして、コツン、と小さな石を蹴り飛ばす音。
闇に目が慣れてくると、そこにいる人物の姿が浮かび上がってきた。
(琥珀、先生……?)
大和は息を呑んだ。なぜ彼女が、こんな夜更けに一人で神社に? 聞こえないように、そっと呟く。
凛はそんな大和の存在に気づくはずもなく、天を仰いで大きなため息をついた。
「あー……。今日は、満月か。満月の夜は、これだから嫌なのよね……」
その言葉が、やけに不吉に響いた。
大和が「何が嫌なんだろう」と不思議に思った、その瞬間だった。
「……っ!」
凛の身体が、淡い光を放ち始めた。
月の光に呼応するかのように、その光は次第に強さを増していく。
「あああああッ!」
苦悶の絶叫。彼女の身体がぐにゃりと歪み、人としての輪郭が崩れていく。あまりに非現実的な光景に、大和は思考が停止する。
やがて、琥珀色の閃光が弾けた。
光が収まった後、そこに立っていたのは、一匹の美しい狐だった。
月光を浴びて輝く、美しい琥珀色の毛並み。その背に走る、一筋の白い線。
大和は、目の前で起きたことが理解できなかった。ただ、呆然と立ち尽くす。
その物音に、狐の姿になった凛が、はっと顔を上げた。
――視線が、交わった。
「「へ……?」」
少年と、狐。
お互いに、そこにいるはずのない存在を認め、声にならない声を漏らした。
致命的な、沈黙。
時間が、凍りつく。
(なんで、この子が、こんな時間に!? まだいたの!? ていうか、よりにもよって、一番見られたくない姿を、見られたァァァァァ!!!)
凛の脳内は、絶叫とパニックで埋め尽くされた。
まずい。まずいまずいまずい! 人間にこの姿を見られるのは、一族の禁忌。口封じをしなければ。
凛はパニックに支配された頭で、一つの結論を導き出す。
――殺す。
カッと目を見開き、目の前の生徒へと殺気を放った。
「――妖術、『金縛りの言霊』」
凛が低く呟くと、大和の身体はまるで縫い付けられたかのように動かなくなった。
「……なぜ、ここにいる」
いつもの凛先生の声とは似ても似つかぬ、冷たく、地の底から響くような声。背筋がぞっと凍りつくような、絶対的な捕食者の声だった。
「この姿を見たということは……生きて帰れると思うなよ、小僧」
琥珀色の狐は、ゆっくりと大和に歩み寄る。
「私は、妖だ。お前のような人間一人、この場で食い殺すことも、存在もろともこの世から消し去ることだってできるのだぞ」
完璧な脅し。普通の高校生ならば、腰を抜かして命乞いを始める場面。
だが、大和は違った。
彼は恐怖に震えるでもなく、ただ、じっと、目の前の美しい狐を見つめていた。その凪いだ瞳は、殺気を受けてもなお、揺らぐことがない。
「…………」
「…………だから、その……」
凛は、拍子抜けした。
脅しが、全く効いていない。それどころか、なんだか品定めでもされているような視線すら感じる。完璧だったはずの威厳が、ガラガラと崩れていく。
「あ、ああ、もうっ! なんで藤原くんがこんなところにいるのよ! ていうか、この脅しに屈しないってどういう神経してるの!? 普通は泣き叫ぶところでしょ!」
冷徹な妖の声はどこへやら。いつもの、少し高めのヒステリックな声に戻ってしまっていた。




