エピローグ
ひとしきり泣いて、ようやく涙が枯れた頃。 月夜は、真っ赤になった目をこすりながら、少しバツが悪そうに鼻をすすった。
「……あーあ。せっかくの化粧が台無しだわ」
「元が綺麗だから、大丈夫ですよ」
「……さらっとそういうこと言うようになったわね、君は」
月夜は、じとりと俺を睨むけれど、その口元は緩んでいる。 彼女は、俺の腕の中から離れると、少しだけ居住まいを正して、俺の顔を覗き込んだ。
「……ねえ、ヤマト」
「はい。なんですか?」
「一つ、提案があるんだけど」
彼女は、少し照れくさそうに視線を泳がせてから、意を決したように言った。
「ふたりでいる時くらい……敬語、やめない?」
「敬語……ですか?」
「そう。だって、私たちはもう、ただの『教師と生徒』じゃないんだもの」
月夜は、俺の手をそっと握り直した。
「対等な……パートナー、なんでしょう? だったら、先生って呼ぶのも、堅苦しい敬語も、ナシにしたいの。……どうかしら?」
上目遣いで同意を求められ、俺は思わず言葉に詰まる。 頭では理解できる。けれど、染み付いた習慣というのは、そう簡単には抜けないものだ。
「あー……。わ、わかりま……いや、わかった」
「うん」
「でも、急には……難しい、かもです」
最後につい、「です」をつけてしまう。 月夜が、ぷっと吹き出した。
「ふふっ。変なの」
「しょうがないじゃないですか。……いや、ないだろ。……うーん、やっぱり違和感がすごい……です」
頑張ってタメ口を使おうとするたびに、脳内の「生徒としての自分」が警鐘を鳴らし、語尾が迷子になる。 そんな俺の眉間の皺を見て、月夜は楽しそうにクスクスと笑った。 そして、すっと手を伸ばすと――。
――トン。
人差し指で、俺の額を優しく小突いた。
「……下手くそ」
その声は、呆れているようで、とろけるほどに甘かった。
「うっ……。面目ない……」
「ふふ。まあ、いいわ。五百年生きてる私だって、あなたに甘えるのは初心者だもの。お互い様ね」
月夜は、小突いた額の場所を、今度は掌で優しく撫でてくれた。
「ゆっくりでいいわ。……これから、時間はたくさんあるんだから」
「……そう、だな。善処……するよ」
俺がぎこちなく答えると、二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑い合った。
月明かりの下、不器用な二人の影が、寄り添うように揺れている。 特別な夜の、ありふれた、けれど最高に幸せな会話だった。
月明かりの下、寄り添う二人の影は、いつまでもそこにあった。
互いの体温を確かめ合うように。
五百年の孤独を埋めるように。
世界は、祝福に満ちているように見えた。
風は優しく、月は明るく、夜の静寂さえもが二人を優しく包み込んでいる。
誰もが、この物語のハッピーエンドを疑わないような、幸福な光景。
――だが。
その光が届かない、境内の深い闇の奥。
樹齢数百年を越える御神木の、さらに高い枝の上から、その様子を冷ややかに見下ろす一つの影があった。
「……へぇー」
静寂を切り裂くことのない、独り言のような呟き。
それは、鈴を転がしたような、可愛らしくも不気味な、少女の声だった。
影は、枝の上で足をぶらぶらと揺らしながら、楽しそうに目を細める。
その瞳は、闇夜に溶け込むような、底知れぬ漆黒。
「仲良くなってるじゃーん」
クスクス、と忍び笑いが漏れる。
幸せそうな二人を見るその視線には、祝福の色など微塵もない。あるのは、獲物を品定めするような、純粋な好奇心と、昏い悪意だけ。
「いいね、いいねぇ。愛だねぇ、恋だねぇ」
少女は、すっと立ち上がり、夜空に浮かぶ満月を見上げた。
「でもさぁ……忘れちゃダメだよ?」
彼女は、誰に聞かせるでもなく、歌うように囁いた。
「月は、満ちれば欠けるもの。……光が強ければ強いほど、影もまた、濃くなるんだからさ」
ザワリ、と。
風もないのに、森の木々が一斉にざわめいた。
次の瞬間、枝の上にいたはずの少女の姿は、黒い霧のように掻き消えていた。
残されたのは、不穏な余韻と、静かな夜だけ。
二人はまだ、気づかない。
その背後に忍び寄る、新たな運命の足音に。
物語は、まだ終わらない。
これは、彼らが「真実」を知るまでの、ほんの束の間の休息に過ぎないのだから。
【第1部 完】




