第8章 そして、君は月夜に笑う
キーンコーンカーンコーン……。
放課後のチャイムが、気怠げに、しかし高らかに鳴り響いた。 それは、生徒たちを教室という檻から解放する合図だ。
「よっしゃー! 部活行こうぜ!」
「ねえ、この後カフェ行かない?」
「あー、俺今日バイトだわ。マジだりぃ」
教室から、廊下から、昇降口から、無数の声が溢れ出す。
エナメルバッグを肩にかけた野球部員が、廊下をドタドタと走っていく。
吹奏楽部がチューニングする不揃いな音が、遠くの校舎から風に乗って聞こえてくる。
カップルが人目を忍んで手を繋ぎ、女子グループがスマホを見ながら甲高い笑い声を上げる。
圧倒的な、日常。
誰もが「明日」が来ることを疑わず、今日の延長線上に未来があると信じている、平和で騒がしい放課後の風景。
その喧騒の中を、俺は一人、逆らうように歩いていた。 すれ違う生徒たちの笑顔が、ひどく遠い世界の出来事のように感じる。 彼らにとっての今日は「ただの金曜日」だが、俺にとっては、人生が分岐する運命の一日だ。
校門を抜け、通学路を外れる。 背後から聞こえる日常の音が、少しずつ遠ざかっていく。 代わりに聞こえてくるのは、自分の心臓の音と、砂利を踏みしめる足音だけ。
世界はこんなにも普通で、退屈なほどに平和だ。 なのに、俺の掌だけが、じっとりと汗ばんでいる。
行くぞ。 彼女が待っている。
山の麓。 鬱蒼と茂る森の入り口に立つ、古びた鳥居を見上げる。 ここから先は、俺たちだけの聖域だ。
長い石段を、一歩ずつ踏みしめる。
息が切れる。足が重い。けれど、その足取りに迷いはなかった。
頂上にたどり着くと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
西の空が、燃えるような茜色と、夜の訪れを告げる群青色に二分されている。
黄昏時。
「誰そ彼」時。
人とあやかしの境界が最も曖昧になる、一瞬の魔法の時間。
その境界線に、彼女は立っていた。
境内の真ん中。古びた神楽殿の前で、琥珀凛は、沈みゆく夕日を背に受けて、俺を待っていた。
風が吹き、彼女の長い黒髪と、スカートの裾を揺らす。
その姿は、初めて会った時よりも、ずっと儚く、そして美しく見えた。
「……来たのね」
俺の足音に気づき、凛が振り返る。
その表情は硬かった。まるで、処刑台に向かう罪人のように、不安と恐怖に震えている。
俺は、呼吸を整え、彼女の目の前まで歩み寄った。
「待たせて、すみません」
「ううん。……来てくれて、ありがとう」
凛は、力なく微笑んだ。
そして、意を決したように、真っ直ぐに俺の目を見た。
「聞かせて。……あなたの、答えを」
その声が、微かに上擦る。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
言葉にするのは怖い。でも、伝えなければ始まらない。
「先生。……いいえ、月夜さん」
俺が真名で呼ぶと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「俺は、人間です。あなたは、あやかしです。俺たちの生きる時間は違うし、背負っている歴史も違う。……あなたが憎むべき人間の一人として、俺がここに立つ資格があるのか、昨日の夜、ずっと考えていました」
凛が、痛ましげに顔を伏せる。拒絶の言葉だと思ったのかもしれない。
俺は、一歩踏み出した。
「でも、どれだけ考えても……俺の結論は一つでした」
「え……?」
顔を上げた彼女の瞳を、逃さず捉える。
「俺は、あなたのいない世界なんて、もう考えられない」
風が止んだ。
「あなたがイタズラして笑う顔も、強がって怒る顔も、一人で泣いていた夜も。その全部が、俺にとっては、何よりも大切な『光』なんです。……あなたが俺を光だと言ってくれるなら、俺は、あなたの影になってもいい。あなたの孤独も、過去も、全部一緒に背負います」
俺は、震える彼女の手を、そっと両手で包み込んだ。
「俺の命は、あなたに比べれば一瞬かもしれません。でも、その一瞬の全てを使って、あなたを愛します。……だから」
俺は、万感の想いを込めて、告げた。
「俺と、生きてください」
静寂。
世界から、音が消えたようだった。
凛は、ぽかんと口を開け、信じられないものを見るように俺を見つめていた。
やがて。
その琥珀色の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……っ、う……うあぁ……っ!」
教師の仮面も、五百歳の威厳も、全てが崩れ落ちる。
彼女は、子供のように顔を歪め、しゃくり上げながら泣きじゃくった。
「……本当に、いいの? 私で、いいの? 化け物よ? おばさんよ? 重い女よ?」
「全部知ってますよ。……それがいいんです」
「ばか……っ! 藤原くんの、ばかぁ……っ!」
凛は、俺の胸に飛び込んできた。
俺は、その華奢な身体を強く抱きしめる。
温かい。
これが、俺たちが選んだ現実だ。
どれくらい、そうしていただろうか。
太陽は完全に沈み、空には満月が輝き始めていた。
腕の中で、凛がもぞもぞと動き、顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。化粧も崩れて、目は真っ赤だ。
けれど、俺には、それが世界で一番愛おしいものに見えた。
「……ねえ、ヤマト」
彼女は、鼻をすすりながら、恥ずかしそうに言った。
「はい。」
率直に返事をした。
「私、今、ひどい顔してるでしょ」
「はい。ひどいです」
「正直ね! ……でも、あなたしか見てないから、いいわ」
そう言って。
彼女は、涙の跡が残る頬を緩ませ、満月のように明るく、柔らかく、笑った。
「――ありがとう。私の、光」
その笑顔を見た瞬間。
俺たちの夜明けが、ようやく訪れたことを知った。
放課後、君は月夜に啼いていた。
けれど今、君は月夜に笑っている。
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。
これは、人間とあやかしが紡ぐ、長く、そして短い、久遠の恋の始まりの物語。




