第8章 大和の答え
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴が鳴り止み、本鈴のメロディが校舎に響き渡る。 それは、生徒たちにとっては拘束時間の始まりを告げる合図であり、学校というシステムが正常に稼働している証拠でもあった。
「――はい、号令」
教壇に立った琥珀凛が、出席簿を置きながら短く告げる。 日直の気怠げな「起立、礼」の声に合わせて、クラス全員がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、頭を下げる。 窓から差し込む午後の日差しが、舞い上がる埃をキラキラと照らしていた。
「着席。……ええと、前回はどこまで進みましたっけ。教科書の84ページを開いてちょうだい」
凛の声は、今日も張りがあって聞き取りやすい。 パラパラと紙がめくられる乾いた音。シャーペンをカチカチと鳴らす音。誰かが小さくあくびをする声。 どこにでもある、ありふれた歴史の授業の幕開けだ。
「今日は、戦乱の世が終わりを告げ、新たな統治の形が模索された時代について話します。……権力者たちは、何を恐れ、何を守ろうとしたのか。現代にも通じるテーマですよ」
凛はそう言うと、真っさらな黒板に向かい、チョークを走らせ始めた。
カツ、カツ、カツ。
硬質なチョークの音が、午後の気怠い教室に響き渡る。
「――この時、歴史は大きく動きました。一人の武将の決断が、その後の百年の泰平を築いたのです」
教壇の上、琥珀凛の声は朗々として、よく通る。
彼女が語るのは、教科書に載っている数百年も前の出来事だ。
クラスメイトたちは、それを単なる知識の羅列として聞き流し、あるいは退屈そうに欠伸を噛み殺している。
けれど、藤原大和だけは違った。
彼だけが知っている。彼女が語るその歴史は、彼女自身がその目で見つめ、その肌で感じてきた「記憶」そのものであることを。
彼女の言葉の端々に滲む、実感を伴った重み。
それが、どうしようもなく大和を不安にさせた。
(……遠い)
ノートに視線を落とし、大和は奥歯を噛み締めた。
昨夜、ベッドの上であれほど固く決意したはずだった。迷いはないと、そう思ったはずだった。
だが、いざこうして「教師」として、「あやかし」として振る舞う彼女を前にすると、圧倒的な断絶を感じずにはいられなかった。
彼女は、五百年を生きている。
俺が生まれる遥か昔から、この国の移ろいを見つめ、多くの出会いと別れを繰り返してきた存在。
対して俺は、たった十七年しか生きていない、未熟な子供だ。
(俺の『一生』なんて、彼女にとっては瞬きするほどの一瞬なんじゃないか?)
昨夜の彼女の言葉が蘇る。
『私の光になってくれる?』
その願いに応えたいと思った。けれど、それは「一瞬の光」で終わってしまうかもしれない。俺が老い、死んだ後、彼女はまた一人で、永遠に近い時間を孤独に過ごすことになるのではないか。
それは、彼女にとって救いになるのか。それとも、より深い絶望を植え付けるだけの、残酷な行いなのではないか。
チッ、チッ、チッ……。
教室の壁に掛かった時計の秒針が、無慈悲に時を刻む。
放課後が、迫っている。
約束の時間が近づくたびに、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
(それに……)
大和は、顔を上げ、凛の背中を見つめた。
その背中には、目には見えないけれど、深く悲しい傷跡があることを俺は知っている。
人間への憎しみ。母を奪われた悲しみ。
俺は「人間」だ。彼女から母を奪った種族の末裔だ。
たとえ彼女が「許す」と言ってくれたとしても、俺自身が、その罪深さに耐えられるのだろうか。
彼女の隣で笑う資格が、本当に俺にあるのだろうか。
「……藤原くん」
不意に、名前を呼ばれた。
ハッとして顔を上げると、凛が教壇からこちらを見下ろしていた。
教室中の視線が集まる。
「この問題、答えてくれるかしら」
彼女の瞳は、穏やかだった。
けれど、その奥には、微かな震えが見て取れた。
彼女もまた、怖いのだ。
五百年の孤独を賭けた答えを待つ時間が。拒絶されるかもしれないという可能性が。
それでも彼女は、気丈に教師として振る舞い、俺を信じて待っている。
(……俺が迷って、どうするんだ)
彼女の震える瞳を見た瞬間、大和の中の霧が、すっと晴れていくのを感じた。
資格があるかどうかじゃない。時間の長さじゃない。
今、彼女が震えている。その事実だけで十分だ。
「……藤原くん?大丈夫?」
俺は、立ち上がった。
椅子がガタッと音を立てる。
「はっ!……はい。答えは――」
大和は、凛の目を真っ直ぐに見つめ返して回答した。
それは授業の答えであり、同時に、放課後への予行演習でもあった。
声は震えなかった。
・
キーンコーンカーンコーン……。
回答が終わると同時に、終業のチャイムが鳴り響いた。
全ての授業が終わり、ざわざわと生徒たちが帰り支度を始める。
「はい、席に着いて。帰りのホームルームを始めます」
凛の声で、浮足立っていた教室が少しだけ静まる。
彼女は教卓に手をつき、教室全体を見渡した。
「今週もお疲れ様。週末、羽目を外しすぎないようにね。それから……」
凛は、黒板の隅に書かれた「掃除当番」の文字を指差した。
「朝も言ったけど、今日はワックスがけがあるから、掃除当番の班は残ること。サボって帰ろうとしたら……わかってるわよね?」
「うげぇ、マジでやるんすかー」
「先生、手伝ってよー」
「はいはい、文句言わない。先生も職員室で仕事があるんだから。終わったらちゃんと報告に来なさい。以上!」
凛がパンと手を叩くと、日直が「起立、礼」と号令をかける。
「さようならー!」
元気な声と共に、生徒たちが一斉に席を立ち、教室は瞬く間に放課後の喧騒に包まれた。
カバンを掴んで飛び出していく者、掃除用具を取りに行く者、廊下で談笑する者。
その、ごった返す教室の雑踏の中で。
ふと、凛の視線が俺を捉えた。
彼女は、生徒たちに対応しながら、ほんの一瞬だけ、こちらを見て――艶やかに目を細めた。
その瞬間。
周りの喧騒が、フッと遠のいた気がした。
――『待ってる』
耳ではない。脳裏に直接、鈴のような声が響いた。
妖術だ。
「言霊」や「念話」の類だろうか。
彼女は、誰にも気づかれないように、俺の心だけに届く言葉を送ってきたのだ。
驚いて顔を上げると、凛はもう黒板の方を向いて、何事もなかったかのように掃除の指示を出していた。けれど、その耳がほんのりと赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
(……やってくれるな)
大和は、口元が緩むのを必死に噛み殺した。
日常の中に紛れ込ませた、二人だけの秘密の通信。
その愛らしい反則技が、俺の背中を強く、強く押した。
凛が教科書を閉じ、教室を出て行く。
その背中を見送る俺の心に、もう迷いは欠片も残っていなかった。
日常の時間は終わり、ここからは、二人だけの時間が始まる。
もう、迷いはない。
恐怖も、不安も、時間の壁も、全て抱えて生きていく。
大和は、カバンを握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
行こう。
彼女が待つ、あの場所へ。




