琥珀色の視線
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「はぁ……」
鏡の前、深く長い溜息が、静かな部屋に白く溶けた。
そこに映るのは、完璧な美貌を持つ一人の女性。しかしその表情は、どこか憂いを帯びている。
「よし……! 私は琥珀凛! 私の名前は、琥珀凛!」
まるで自分自身に言い聞かせるように、偽りの名前を復唱する。
今日から始まる、偽りの仮面をつけた生活。 妖狐という本来の姿を隠し、人間として、高校教師として生きていく。
すっと指先で、髪に混じる一筋の白い線に触れる。
「もう、これ、いつも目立つんだから」
人間たちからは決まって「染めてるの?」と聞かれるが、これは生まれつきの色だった。 かつて、この琥珀色の毛並みと白い線は、純白を尊ぶ一族の中で「忌み子」の証として扱われた。
――『月夜。この一筋の白いのは、
を導いてあげてね』
一族の誇りよ。この髪は、
一筋の光として、いつか必ず誰か
脳裏に蘇る、今は亡き母の優しい声。
そうだ。これは、母が遺してくれた、誇り。
「……これから新しい生活が始まるんだから、しっかりしないと!」
凛は鏡の中の自分を叱咤するように、頬をぱちんと軽く叩いた。
「そうだ。行く前に、お母さんに挨拶していかないと」
御饌神神社には、母を含む妖狐一族の魂が眠る祠がある。
(あんまり人前でやるべきじゃないけど……急ぐためには、こっちの方がいいわね)
彼女がそっと目を閉じ、再び開いた時、その姿は人間のものではなくなっていた。明るい琥珀色の体毛に覆われ、
一筋の白い輝きが月光のように美しい、
一匹の妖狐。
「ふぅ……。やっぱり、こっちが落ち着くわ」
偽りの器から解放された心地よさに、思わず満足のため息が漏れる。
「じゃ、行きますか!」
その声が響き終わるか終わらないかのうちに、琥珀色の閃光が家から飛び出していった。 人
間の目では決して捉えることのできない、神速の移動。 この姿を見られることは、大罪であり、禁忌。 それは、この地に刻まれた血の歴史が証明していた。
瞬く間に神社の鳥居をくぐり、凛は静かに人の姿へと戻る。 境内の一角にある、苔むした小さな狐の石像の前で、そっと手を合わせた。
「お母さん。私、頑張るからね」
朝の澄んだ空気が、彼女の決意を静かに包み込んでいた。
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「おはようございます! 本日より赴任いたしました、琥珀凛です!」
職員室に足を踏み入れた凛は、完璧な笑顔で挨拶をした。
「おお、君が琥珀先生か。よろしく頼むよ」
人の良さそうな校長に案内され、自分の席へと着く。
(さて、どうなることやら)
全校集会までの時間、これから始まる「教師生活」に思いを馳せる。 500年以上を生きてきた自分にとって、人間の営みなど、まるで川の流れを眺めているかのように、変わり映えのしない風景の一つに過ぎない。
「じゃあ先生方、体育館へ参りましょうか」
――退屈な生き物。
壇上の脇から、体育館に集まった幾百もの「人間」の群れを眺めながら、琥珀凛――否、月夜は内心でそっと呟いた。
歓声、私語、気怠そうな溜息。あらゆる感情が渦巻き、混ざり合い、一つの巨大な喧騒となっている。500年以上の時を生きてきた月夜にとって、人間の営みなど、まるで川の流れを眺めているかのように、変わり映えのしない風景の一つに過ぎなかった。
壇上の脇から、体育館に集まった幾百もの生徒の群れを眺める。 (眠い……。こんな形式だけの集会に、何の意味があるのかしら) 長々と続く校長の挨拶に、心の中で大きなあくびをした。
(けれど、これも修行のうち、ね)
亡き母の言葉を思い出す。『一筋の光として、いつか必ず誰かを導いてあげてね』。
一族の長である父にその毛並みを疎まれ、勘当された身。ならば、母が信じてくれたこの力を、人間社会の只中で磨き上げてやろう。父が最も嫌う、人間と深く交わることで。そんなささやかな
反骨心と、母への思慕が、月夜をこの「高校教師」という役に駆り立てていた。
この御饌神高校を選んだのも、偶然ではない。かつて、己の祖先が祀られていたという御饌神神社。その名を冠する学び舎に、何か見えざる縁を感じたのだ。
――ふと、生徒たちの群れの中に、異質な空気を放つ一点を見つけた。
物静かな黒髪の少年。他の生徒たちのように浮き足立つでもなく、ただ、どこか遠くを見るような、凪いだ瞳でこちらを見ている。その魂が纏う空気は、他の人間たちのように濁っていない。まるで、故郷の山の奥深くにある、清冽な泉の水面のように澄み切っている。
(あの子……)
見覚えがあった。この高校に赴任する前に訪れた御饌神神社。私の、母の眠るあの場所で、いつも一人、静かに本を読んでいたのが、あの少年だった。
(面白い。私の縄張りに、随分と入り浸っているのね)
やがて、校長に名前を呼ばれ、壇上へと歩みを進める。
無数の視線が突き刺さる。羨望、好奇心、そして値踏みするような雄の視線。どれもこれも、月夜にとっては取るに足らないものだった。退屈な世界に、ほんの少し、興味深いものを見つけてしまったから。
(そうだわ。ほんの挨拶代わり。ささやかなイタズラでもしてみようかしら)
凛が、そっと心の中で指を鳴らすイメージを描く。
――妖術、『天泣』。
瞬間、体育館の屋根を、ざぁっと雨が叩く音が響き始めた。 窓の外は快晴だというのに。
(あら……ちょっと、やりすぎたかしら)
ほとんどの人間が気づかない中、あの少年だけが、不思議そうに窓の外と私とを交互に見てい
る。その反応が、たまらなく面白い。
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「いやー琥珀先生、いきなり雨が降って驚きましたね」
集会後、共にクラスを受け持つ担任に話しかけられ、凛は内心の動揺を隠して微笑んだ。
「ええ、そうですね。びっくりしました」
(私がやったなんて、絶対に言えない。ただのイタズラ心でやっただなんて、口が裂けても!)
そして、教室へ。
「――このクラスの副担任を受け持っていただくことになった、琥珀先生だ」
紹介を受け、再び挨拶をすると、教室は歓喜の雄叫びに包まれた。
(うわぁ……。そんなに喜ぶことなの?)
その熱量に若干引き気味に視線を巡らせて――見つけた。
一人だけ、騒がず、こちらをじっと見つめている、あの少年。
確か名前は、藤原大和。
彼と、視線が交差する。
――ふふっ。
私は、彼にだけわかるように、ほんの少し、唇の端を吊り上げてみせた。
これから、よろしくね。私の、退屈しのぎ。
長くて退屈な教師生活。その最初の「教え子」として、あなたがどれだけ私を楽しませてくれるのか。今から、楽しみで仕方がないわ。




