第8章 大和と月夜
世界は、昨日までと同じ顔をして回っていた。
通学路のざわめき。教室の喧騒。チャイムの音。
けれど、藤原大和の目に映る景色は、まるでフィルターを一枚取り払ったかのように、鮮やかさを増していた。
(……不思議だ)
席に座り、窓の外を流れる雲を眺める。
ほんの一ヶ月前まで、俺はこの景色を「退屈」という言葉で塗りつぶしていた。
変化のない毎日。平穏だけれど、どこか色のない世界。そこで俺は、ただ時間を消費するだけの傍観者だった。
――ガラリ。
教室の扉が開く音がした。
一瞬で、空気が変わる。
クラス中の視線が、一点に吸い寄せられる。
かつては、その光景を冷めた目で見ていた。突然現れた異物。日常を脅かす、美しくも危険な兆しとして。
「はい、席について。ホームルームを始めますよ」
「――先生、なんか今日ニヤけてなーい?」
「てか、また寝坊っすか? 髪、ちょっと跳ねてますよー」
教室の隅から、遠慮のない野次が飛ぶ。
凛は「うっ……!」と一瞬言葉に詰まり、慌てて手櫛で髪を直しながら、わざとらしく咳払いをした。
「う、うるさいわね! 寝坊じゃありません! ちょっと……考え事をしていただけよ!」 「えー、怪しいー」
「彼氏でもできたんじゃないのー?」
ドッと湧く教室。 他愛のない冷やかし。平和すぎる朝の風景。
クラスメイトたちは誰も知らない。この美しき副担任が、数時間前まで五百年の孤独に泣いていたことも、俺たちが種族の壁を越える決断をしようとしていることも。
二人の想いの重さなんて関係なしに、世界は残酷なほど「日常」の顔をして、時の歯車を回し続けている。 そのことが、なぜか今の俺には、ひどく滑稽で、同時に愛おしく思えた。 この騒がしくて平凡な世界こそが、彼女が守りたかったものであり、俺たちがこれから生きていく場所なのだから。
凛が、赤くなった顔で教室を見渡す。その視線が、クラスの生徒たちを順になぞり――そして、俺のところで、ぴたりと止まった。
目が合う。
ほんのコンマ数秒の交差。
けれど、その一瞬だけで、十分だった。
彼女の瞳の奥に宿る、微かな揺らぎ。
教師としての仮面の下に隠された、不安と、期待と、そして信頼。
以前のような、俺を試すような挑発的な色はもうない。
そこにあるのは、昨夜、月明かりの下で見せた、あの等身大の「月夜」の瞳だった。
ふと、記憶が春の日の体育館へと巻き戻る。 あの始業式の日。壇上で完璧な挨拶をする彼女を見て、俺は何て思ったっけ。 ――『堅苦し。』 そう吐き捨てて、興味なさげに視線を逸らしたんじゃなかったか。 美しくはあるけれど、どこか作り物めいていて、自分とは住む世界が違う、冷たい彫像のような存在。退屈な日常に現れた、ただの「異物」。そう決めつけて、心を閉ざしていた。
あの時の俺は、何も知らなかったのだ。 その完璧な仮面の下に、五百年の孤独と、泣きたくなるほど純粋な優しさが隠されていることを。 堅苦しい挨拶の裏で、生徒たちと仲良くなりたくてウズウズしていた、不器用な可愛らしさを。
今、目の前にいる彼女は、もう遠い世界の住人じゃない。 手が届く場所にいて、俺と同じように悩み、笑い、そして俺を必要としてくれている、一人の女性だ。 かつて「堅苦しい」と切り捨てたその全てが、今はどうしようもなく愛おしい。
(……綺麗だ)
俺は、心の中でそう呟いた。
それは、始業式の日に感じたような、単なる造形への感想ではない。 彼女の魂そのものに触れたからこそ溢れ出た、偽りのない想いだった。
あの日、彼女を初めて見た時も、同じ言葉を思ったかもしれない。けれど、その意味は決定的に違っていた。
あの時は、造形としての美しさへの感嘆。
今は、彼女が背負ってきた五百年の孤独、母を想う優しさ、不器用な強がり……その魂の全てを含めた、愛おしさとしての「綺麗」だった。
「……藤原くん? どうかしたのかしら」
俺があまりにも熱心に見つめていたせいだろう。凛が、不思議そうに首を傾げた。
クラスメイトたちが「お、大和また見られてるぞ」「役得だなー」と冷やかす。
以前なら、面倒くさいと顔をしかめていただろう。
でも、今は。
「……いえ。今日も、先生が素敵だなと思いまして」
俺は、真っ直ぐに彼女を見て、そう答えた。
教室が「ヒューヒュー!」と茶化す声で沸き立つ。
凛は、虚を突かれたように目を丸くし、それから、みるみるうちに耳まで真っ赤に染めた。
「なっ……! ちょ、ちょっと!からかわないでちょうだい!」
慌ててコホンと咳払いをし、必死に教師の顔を取り繕う彼女。
その姿を見て、俺は自然と口元が緩むのを止められなかった。
これが、運命でなくて何だろう。
あの日、神社で出会ったこと。お互いに反発し、イタズラを仕掛け合い、そして惹かれ合ったこと。
その全てが、今日、この答えを出すための助走だったのだとしたら。
俺は、この宿命を喜んで受け入れよう。
「はいはい、もう静かに。連絡事項に移りますよ」
凛はパンと手を叩いて生徒たちの私語を制すると、教卓の上のメモに視線を落とした。 その表情は、一瞬にして「教師」の顔へと切り替わっていた。
「まず、進路希望調査票の提出は今日までです。まだ出していない人は、放課後までに必ず私のところへ持ってくること。……田中くん、聞いてる? あなたのことよ」
「うぇっ、マジすか。忘れてたー」
「忘れないの。自分の将来のことでしょう?」
教室に小さな笑いが起きる。凛は呆れたようにため息をつきつつ、淡々と次の連絡へ移った。
「それから、今日の午後の体育ですが、昨日の雨でグラウンドの状態が悪いので、体育館に変更になります。シューズを忘れないように。あとは……掃除当番の班は、放課後ワックスがけがあるから残ってください。以上」
「えー、今日ワックスかよー」
「ダルいー」
生徒たちから不満の声が上がるが、凛は「文句言わない!」とピシャリと跳ね除ける。
進路、授業変更、掃除当番。
あまりにもありふれた、学校というシステムの歯車を回すための事務連絡。 凛はそれを、完璧に、そして優雅にこなしていた。
その姿は、どこからどう見ても、生徒を導く頼もしい副担任そのものだ。つい数時間前まで、孤独に震えて涙を流していた姿など、微塵も感じさせない。
(……すごいな)
大和は、頬杖をつきながら、その仕事ぶりを眩しく眺めていた。
彼女はこうして、五百年の間、ずっと一人で戦ってきたのだ。人間社会という異界の中で、完璧な仮面を被り続けて。
けれど、俺だけは知っている。
その仮面の下にある、素顔の彼女を。
一通りの連絡を終え、凛が顔を上げる。
「それでは、ホームルームを終わります。一時間目の準備をして、席に着いていなさい」
ホームルームが終わる。
凛は、教室を出る間際、もう一度だけ俺を振り返った。
言葉はない。けれど、その視線は確かにこう言っていた。
『待ってる』
俺は、小さく頷き返した。
放課後。約束の刻。
俺たちの、本当の物語が始まる。




