第7章 大和と凛のそれぞれの想い(後編)
鍵を開け、ドアを閉めると、部屋の中はシンと静まり返っていた。
私は、玄関にヒールを脱ぎ捨てると、ふらつく足取りでリビングへと向かい、そのままソファへと倒れ込んだ。
「……ふぅ」
クッションに顔を埋め、深く、長い息を吐き出す。
身体中の力が抜けていくようだ。
今日一日で、数百年分の感情を使い果たした気がする。妖怪横丁での高揚感、母の墓前で吐露した悲しみ、そして、彼の手を握った時の、焦がれるような熱。
天井を見上げる。
蛍光灯の白い光が、少し眩しい。
ここは、教師「琥珀凛」が暮らすための、仮初めの城。けれど今夜は、その静寂さえもが、心臓の音を大きく反響させているようだった。
(……一晩、時間をください)
彼の言葉を思い出すたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。
怖い。けれど、それ以上に、期待してしまっている自分がいる。
私は、そっと目を閉じた。
瞼の裏に浮かんでくるのは、いつだって、あの少し生意気で、でも誰より優しい少年の顔だ。
最悪の出会いだった。
満月の夜、私の聖域である神社で、よりにもよって狐の姿を見られた瞬間。
**『殺す』と脅した私を、彼は『綺麗だ』**と言った。
あの時、私の運命の歯車は、音を立てて狂い始めたのかもしれない。
学校での日々は、私にとって初めての「戦い」であり、何よりの「遊び」だった。
授業中にわざと難しい問題を当てて、困らせてやろうとしたこと。
階段で転んだふりをして、助け起こしてもらおうとしたこと。
図書室で妖術を使って、彼の筆記用具を隠したこと。
どれもこれも、五百歳の妖狐がやることじゃない。まるで好きな男子にちょっかいを出す、人間の子供みたいだ。
彼はいつだって冷静で、私のイタズラを涼しい顔でかわし、時には正論でやり込めてきた。
『その色仕掛けとも取れる脅しは、通じませんよ』
悔しかった。ムカついた。でも、私を「特別」扱いせず、対等に向き合ってくれるその態度が、どうしようもなく嬉しかった。
中庭でのランチ。
私の弱音に気づき、静かに隣にいてくれた彼。
『一人になれるし、静かだからです。……聞いてると、心地いいんですよ』
あの時、私は確信したのだ。この子となら、言葉を交わさなくても通じ合える気がすると。
そして、今夜。
母の墓前で、私は全てを賭けた。
忌み嫌われた琥珀色の髪。人間への憎しみと、それでも信じたいという祈り。
彼は、その全てを受け止めてくれた。
『暖かくて、どこか懐かしくて……暗闇を照らしてくれる、綺麗な色です』
あの一言で、私は救われた。
五百年の呪いが解けた瞬間だった。
(……ヤマト)
名前を心の中で呼ぶだけで、身体の奥が熱くなる。
もう、教師と生徒という関係には戻れない。戻りたくない。
私は、彼の「光」になりたい。そして彼にも、私の「光」でいてほしい。
もし明日、彼が手を差し伸べてくれるなら。
私はもう、迷わない。
どんな禁忌も、どんな運命も、彼と一緒なら越えていける。
ソファの上で、私は自分の手をぎゅっと握りしめた。
明日が来るのが、こんなにも待ち遠しくて、こんなにも怖いのは、生まれて初めてだった。
いつの間にか、眠ってしまっていた。
張り詰めていた糸が切れたように、意識は深い微睡みの底へと落ちていく。
いつ以来だろう、夢を見るなんて。
あやかしにとっての睡眠は、ただの休息であり、力の回復のための儀式に過ぎない。人間のように、記憶の整理や願望が映像となって現れることは、滅多にないことだった。
けれど、今夜は違った。
意識が沈んでいく中で、ふわりと、懐かしい香りに包まれた。
線香の匂いでも、花の香りでもない。もっと根源的な、陽だまりのような匂い。
――あ……。
視界が、柔らかな光に満たされる。
そこは、まだあの一族の隠れ里が、平和な静寂に包まれていた頃の記憶。
私は、小さな子供だった。
縁側で、ぽかぽかと暖かい日差しを浴びながら、誰かの膝の上に頭を預けている。
「月夜」
頭上から降ってくる、鈴を転がしたような優しい声。
見上げれば、そこには雪のように白い肌と、慈愛に満ちた瞳を持つ女性がいた。
母、宵月。
彼女の白く細い指が、私の髪をゆっくりと、愛おしむように梳いている。
「今日も元気ね。その琥珀色の髪が、お日様を浴びてきらきらと輝いているわ」
「……お母様」
幼い私は、くすぐったくて、嬉しくて、母の膝に顔を擦り付ける。
ふと、庭の方を見れば、一人の大柄な男性が立っていた。
父、玄威。
腕を組んで、厳格な顔をしているけれど、私たちを見るその瞳には、まだあの激しい憎悪の炎はなく、不器用な温かさだけが宿っていた。
「玄威様も、こっちにいらして月夜の髪を見てやってくださいな。本当に、綺麗な色ですよ」
「……ふん。わしは向こうで書物を読んでいる」
父は素っ気なく答えるけれど、その口元がわずかに緩んでいるのを、幼い私は知っていた。
ああ、懐かしい。
胸が締め付けられるほどに、愛おしい風景。
まだ人間との争いが激化する前。
父が狂気に囚われる前。
そして、母がまだ、温かかった頃。
私が「穢れた子」ではなく、ただの愛される娘として存在できた、最初で最後の、幸福な記憶。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
夢の中の私は、そう願いながら、母の温もりに身を委ねていた。
――けれど。
その平穏は、まるで薄氷が砕けるように、唐突に、そして無慈悲に消え去った。
ドォォォォォォンッ!!
鼓膜を破るような轟音と共に、視界いっぱいの赤が、世界を塗り替えた。
熱い。痛い。息ができない。
先ほどまで優しく降り注いでいた陽だまりは、全てを焼き尽くす業火へと姿を変えていた。
「母様!」
私は叫んだ。喉が裂けんばかりに、その名を呼んだ。
けれど、返事はない。
パチパチと木々が爆ぜる音。ゴオオオと風を巻いて荒れ狂う炎の音。そして、鼻をつく焦げ臭い匂いと、鉄の錆びたような血の匂い。
それらが混ざり合い、なんとも言えない吐き気を催す悪臭となって、あたりに充満していた。
「いや……いやぁぁぁ!」
周りからは、同胞たちの断末魔の叫び、子供たちの泣き声、怒号、悲鳴。
かつて美しかった里は、死体が転がり、鮮血が飛び散る、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
私は声が枯れるまで叫び続けた。父の名を、母の名を。
だが、運命は残酷だ。
私の脳裏にこびり付いて離れない、あの決定的な瞬間が、スローモーションのように再生される。
炎の向こう。
母様が、立っていた。
白い着物は泥と煤で汚れ、その美しい顔は悲痛に歪んでいる。
「母さ――」
駆け寄ろうとした、その刹那。
何かが、閃いた。
鋭い銀色の光が、母の身体を貫いた。
「……っ!」
母の身体が、ふわりと宙に舞い、そして崩れ落ちる。
私は、燃え盛る炎の中を、転がるようにして駆け寄った。
抱き起こした母の身体は、驚くほど軽かった。
「母様! 母様! 目を開けて! お願い!」
私の涙が、母の頬に落ちる。
母の瞳が、うっすらと開かれた。そこには、いつもの慈愛に満ちた光が、最期の灯火のように宿っていた。
震える手が、私の髪に触れる。
「月夜……」
「はい、母様! 私はここよ!」
「……月夜。この一筋の白いのは……一族の誇りよ」
母は、私の琥珀色の髪に混じる、白い線を指先で愛おしそうに撫でた。
「この髪は……一筋の光として、いつか必ず……誰かを、導いてあげてね……」
「母様! ダメ、行かないで!」
母の手から、力が抜ける。
その身体温度が、急速に失われていく。
そして、その輪郭が、ふわりと解け始めた。
「……愛してるわ……」
最期の言葉と共に、母の身体は無数の光の粒子となって弾けた。
私の腕の中に残ったのは、ただの虚空。
母だった光たちは、夜空へと舞い上がり、そして炎の熱気にかき消されるようにして消えていった。
「あ……ああ……あああああああッ!!」
私は、何もない夜空に向かって、慟哭した。
私の光が、消えた。
世界が、闇に閉ざされた瞬間だった。
――バッ!
目が覚め、私は弾かれたように飛び起きた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
荒い呼吸が部屋に響く。額にはびっしりと冷や汗が浮かび、心臓が早鐘を打っている。
私は震える手で、自分の腕や顔をペタペタと触った。
「私……! 私……っ!」
温かい肌の感触。柔らかい頬。焦げた匂いもしなければ、炎の熱さもない。
ここは燃え盛る里じゃない。私の部屋だ。
「……はぁ。夢、か。……そっか」
全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
深く、息を吐き出す。
嫌な汗をかいてしまった。それにしても、あんなに鮮明な夢を見るなんて。
「てか、私……ソファで寝ちゃってたのか。うぅ……身体が、イテテて……」
変な体勢で寝ていたせいで、背中と腰が悲鳴を上げている。まるで錆びついたロボットみたい。
バキボキと関節を鳴らしながら、ふと壁掛け時計に目をやった。
針は、7時30分を回っていた。
「…………は?」
思考が数秒停止する。
7時30分。
いつもなら、完璧なメイクと着替えを済ませて、優雅に紅茶を飲んでいる時間。
教師たるもの、常に余裕を持って出勤するのが私のポリシー。
「――って、嘘でしょ!? 寝坊じゃん!!」
叫び声と共に、私はバネ仕掛けのように跳ね起きた。
「やばいやばいやばい! 昨日そのまま寝ちゃったから、お風呂もまだ! 化粧も! スーツのアイロンも! あぁもう! 最悪!!」
五百年の孤独? 過去のトラウマ? 運命の答え?
そんな感傷に浸っている暇なんて、一秒もない!
遅刻したら、生徒への示しがつかないじゃないの!
「とりあえずシャワー!!! 急げ私!!」
私は脱ぎ捨てた服を蹴散らしながら、洗面所へと猛ダッシュした。
ドタンバタンと騒がしい音が、静かな朝のマンションに響き渡る。
美しき妖狐の運命の朝は、まさかの大遅刻ギリギリのドタバタ劇で、騒々しく幕を開けたのだった。




