第7章 大和と凛のそれぞれの想い(前編)
自室の天井を見上げながら、藤原大和は深く、長い息を吐いた。
静かだ。
つい先ほどまでいた、あの極彩色の提灯が揺れる異界の喧騒が嘘のように、部屋の中には時計の秒針の音だけが響いている。
ベッドに仰向けになり、右手を掲げてみる。
掌には、まだ彼女の体温が微かに残っているような気がした。
冷たくて、華奢で、けれど懸命に俺を握り返してきた、あの指先の感触。
(……一晩、か)
自分で言った言葉が、重くのしかかる。
目を閉じると、瞼の裏に、琥珀凛――いいや、月夜との日々が鮮やかに蘇ってきた。
始まりは、あの満月の夜。
神社の境内で、美しい狐の姿を見た時の衝撃。
『この姿を見たということは……生きて帰れると思うなよ、小僧』
『殺す』と脅しておきながら、どこか抜けていて、赤面して怒っていた彼女。
『イタイって言ったわよね!? 聞こえたわよ!』
学校での、子供じみたイタズラの数々。
『つまらない授業で、悪かったわね』
あの手この手で俺を困らせようとして、結局は自分が墓穴を掘り、むきになっていた愛すべき姿。
『鬼ごっこ、開始!』
中庭でサンドイッチを食べながら見せた、ふとした寂しげな横顔。
『その「ただ通うだけ」の毎日も、ずっと後になってから、かけがえのないものだったって気づいたりするものよ』
あの言葉には、彼女の過ごしてきた五百年の重みが滲んでいた。
そして、今日。 妖怪横丁で、はしゃぎながら俺の手を引いた、無邪気な少女のような笑顔。 『ふふん。どう? あなたたちの世界より、よっぽど賑やかで、楽しそうでしょう?』
なにより母の墓前で流した、琥珀色の涙。
――『私のこの色は、あなたにはどう見える?』
『母が言ったような……人を導く、光に見える?』
震える声で問われた言葉が、胸を締め付ける。
彼女は五百年の間、ずっと孤独だった。
実の父に「業火の色だ」と疎まれ、愛する母を人間に奪われ、それでもなお、人間を信じようとして、一人で山を降りてきた。
その長い長い時間の果てに、彼女がようやく見つけた「光」の可能性が、俺だったのだ。
(……俺に、務まるのか?)
不安がないと言えば、嘘になる。
相手は、五百歳を超える妖狐。生きる時間も、背負っている歴史の重さも、十七年の人生しか歩んでいない俺とは比べ物にならない。
それに、彼女の母を奪ったのは、俺たち人間だ。その因縁は、きっと簡単には消えない。これから先、種族の違いや、世間の目という壁にぶつかることもあるだろう。
「先生と生徒」という禁忌どころの話ではない。「人間とあやかし」という、決して交わってはならない二つの線。
常識的に考えれば、ここで手を引くのが正解だ。
「やっぱり無理です」と断れば、彼女はきっと、傷ついた顔を見せないように笑って、「そうよね」と去っていくだろう。そして二度と、俺の前で本当の姿を見せることはなくなる。
それでいいのか?
――嫌だ。
即座に、心が叫んだ。
彼女が傷つくところなんて、見たくない。
彼女がまた、あの冷たい仮面を被って、孤独な夜に戻っていくなんて、想像しただけで胸が張り裂けそうになる。
俺は、彼女のことが知りたい。
イタズラ好きなところも、意外と涙脆いところも、強がっているけれど本当は誰より寂しがり屋なところも。
その全てが、どうしようもなく愛おしい。
(……炎なんかじゃ、ない)
暗闇の中で、もう一度、彼女の瞳の色を思い浮かべる。
あの琥珀色は、俺の退屈でモノクロだった日常を、鮮やかに照らしてくれた光だ。
彼女が俺を「光」だと言ってくれるなら、俺にとってもまた、彼女は「光」そのものなのだ。
もし、彼女の過去が重いというのなら、一緒に背負えばいい。
もし、人間とあやかしの間に壁があるのなら、何度でも乗り越えればいい。
俺は、彼女の手を離したくない。
起き上がり、窓の外を見る。
夜空には、あの日と同じ月が輝いていた。
「……決めた」
迷いは、消えた。
恐怖も、不安も、全て飲み込んで、俺は彼女の隣に立つ。
教師と生徒としてではなく、一人の男として。
明日の放課後。
俺は、俺なりの言葉で、彼女に伝えよう。
五百年の孤独を終わらせるための、たった一つの答えを。
決意と共に目を閉じると、意識は急速に深い水底へと沈んでいった。
.
――ピチャリ。
水の跳ねる音が、静寂を破った。
目を開けると、そこは真っ白な世界だった。
空も、壁もない。ただ、足元には鏡のように磨かれた水面が広がり、どこまでも続く白の世界を映し出している。
「……どこだ、ここ」
自分の声でさえ、すぐに白に溶けて消えてしまう。
完全な無音。完全な静寂。
恐怖を感じるほどに美しい世界。だが、次の瞬間、その平穏は唐突に破られた。
――ポツン。
視界の端に、黒い「点」が現れた。
それは、ただの色ではない。この純白の世界にあって、そこだけ空間が削り取られたような、絶対的な「虚無」。
点は、墨汁を垂らしたようにじわりと広がり、形を変えながら、俺の方へと向かってくる。
(……逃げなきゃ)
本能が警鐘を鳴らす。あれに触れてはいけない。あれに飲み込まれれば、俺という存在は跡形もなく消滅する。
俺は走った。水飛沫を上げ、出口のない白の世界を、ただひたすらに。
だが、黒い闇は質量を増し、津波のように背後に迫る。
逃げ場はない。出口もない。
(まだ……死ねない!)
恐怖の中で、たった一つの想いだけが、篝火のように燃え上がった。
まだ、伝えていない。
あの琥珀色の瞳に。俺の答えを。俺の覚悟を。
ここで終わるわけにはいかないんだ!
「うわああああああッ!」
迫り来る闇に飲み込まれそうになった、その刹那。
――スッ。
誰かが、俺の前に立った。
逆光で顔は見えない。だが、その背中は、どこか懐かしく、そして泣きたくなるほどに力強かった。
「……え?」
その人物は、迫り来る闇に向かって、静かに何かを口にした。
口は確かに動いている。
けれど、俺の耳には何も届かない。
言葉? 呪文? それとも、誰かの名前?
その人物が右手をかざした瞬間、世界を飲み込もうとしていた巨大な黒い闇は、まるで最初から存在しなかったかのように、霧散して消滅した。
静寂が戻る。
助かったのか。
俺が呆然とその人物を見つめていると、ふいにその手が伸びてきて――。
トン。
俺の額を、子供をあやすように、優しく小突いた。
「――っ!」
ガバッ! と俺は跳ね起きた。
荒い呼吸。背中にはびっしりと冷や汗をかいている。
窓の外からは、雀の鳴き声と、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
「……夢、か」
額に手を当てる。
そこには、あの指先の感触が、まだ微かに残っているような気がした。
あれは一体、誰だったのだろうか。
心臓の鼓動はまだ早かったが、不思議と恐怖は消えていた。むしろ、背中を押されたような、力強い勇気が湧いてくるのを感じた。
大和はベッドから降り、カーテンを開け放った。 途端に、容赦のない朝日が部屋になだれ込んでくる。 窓の外では、雀がのんきにさえずり、近所の家からは朝食を作る食器の音や、誰かが出かけるドアの音が聞こえてくる。
リビングに降りてテレビをつけると、女性アナウンサーがいつもと変わらない笑顔で、今日の天気と占いの結果を読み上げていた。 トースターからはパンの焼ける香ばしい匂いが漂い、コーヒーメーカーがコポコポと音を立てる。 何もかもが、昨日と変わらない。 世界は、藤原大和という一人の高校生が、今日、人生を変える決断をしようとしていることになんて、微塵も気づいていない。
(……拍子抜けするくらい、普通だな)
大和は、苦笑いを浮かべながら熱いコーヒーを啜った。
もっとドラマチックな朝かと思っていた。雷が鳴るとか、空気が張り詰めているとか。 けれど、現実はどこまでも平穏で、退屈なほどに「日常」だった。
だが、それでいい。
このありふれた日常の中で、俺だけが、特別な秘密と覚悟を抱いている。
制服のボタンを一つ一つ留めるたびに、腹の底に重たい熱が溜まっていくのを感じた。
「……行こう」
カバンを持ち、玄関のドアを開ける。 広がるのは、雲ひとつない、突き抜けるような青空。 何の変哲もない、けれど二度と戻らない朝が始まっていた。
今日、全てが変わる。
大和は、眩しさに目を細めながら、いつもの通学路へと力強く足を踏み出した。




