第6章 月夜の祈り (後編)
帰りも、来た時と同様に、空間がぐにゃりと歪むゲートをくぐった。
行きとは違い、どこか名残惜しさを感じながら、その光の渦へと足を踏み入れる。 全身を冷たい水に浸したような感覚と、内臓がふわりと浮き上がるような浮遊感。視界が白く弾け、平衡感覚が曖昧になる。
――トン、と。 土の感触が、足の裏に戻ってきた。
「……っ、ふぅ」
俺は思わず、大きく息を吐き出した。 肌を撫でる風が、少しだけ生ぬるい。つい先ほどまでいた、あの冷たく澄んだ霊気とは違う、湿り気を帯びた人間界の空気だ。 遠くで、車の走る走行音が微かに聞こえる。虫の鳴き声、風に揺れる木々の音。それら全てが、ここが俺の知る「日常」であることを告げていた。
俺は、顔につけていた狐の面をそっと外した。
すると、身体を包んでいた不思議な力が霧散していくのがわかる。視線が高くなり、手足が伸び、背中に感じていたあの愛らしい尻尾の重みも消え失せた。 自分の手を見る。そこにあるのは、琥珀色の毛に覆われた獣の手ではなく、見慣れた人間の手。着ていたはずの子供用の着物も、いつの間にか学生服へと戻っていた。
「……戻った、んですね」
夢から覚めたような感覚で、俺はボソッと呟いた。
隣を見れば、月夜もまた、あの神々しくも美しい半獣人の姿から、いつもの「琥珀凛」の姿へと戻っている。
浴衣からスーツへ。狐耳も尻尾もない、完璧な人間の女性の姿へ。
けれど、その瞳だけは、まだあの幽玄な世界の色を宿したまま、静かに俺を見つめていた。
「ええ。お疲れ様、ヤマト。……ううん、藤原くん」
彼女が、意識して呼び名を戻したのが分かった。 そのことに、少しだけ胸がちくりと痛んだ。あの世界での、二人だけの秘密のような距離感が、急速に「教師と生徒」という枠組みに戻されていくような気がしたからだ。
「……あれ?」
ふと、ポケットから取り出したスマホの画面を見て、俺は目を疑った。
液晶に表示されている時刻は、まだ午後六時を少し回ったところだった。
感覚的には、あちらの世界で食事をし、散策し、墓参りをして……ゆうに三時間は過ごしていたはずだ。空だって、あちらでは完全に夜の闇に包まれていた。 けれど、こちらの世界では、まだ夕暮れの名残が空の端に残っている。時計の針は、出発してから一時間程度しか進んでいない。
「壊れたのかな……」
「ううん、壊れてないわよ」
不思議そうにスマホを振る俺を見て、凛はくすりと笑った。伸びをするように大きく両手を上げ、凝り固まった身体をほぐす。
「人間界とあっちとでは、時間の流れが違うのよ。向こうの方が、少しだけ早く時が流れるの。竜宮城のお話とは逆ね」
「なるほど……。まさに異世界、ですね」
「ふぅー……。どぉ? 少しは楽しめた?」
凛が、悪戯っぽく小首を傾げて聞いてくる。 俺は、先ほどの光景を脳裏に蘇らせた。賑やかな百鬼夜行通り、温かい湯豆腐、そして、青白い灯籠が揺れる、あのお母さんの墓前。
「ええ。日常では絶対に味わえない体験で……正直、面白かったですよ。それに」
「それに?」 「先生の、本当の故郷を見られて、よかった」
それは、お世辞抜きの本心だった。 恐怖よりも、驚きよりも、何よりも「知れてよかった」という温かい感情が、胸に残っている。 俺の言葉に、凛は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに目を細めた。
「……そう。それはよかったわ」
彼女の声が、優しく夜気に溶ける。 短い沈黙。けれど、それは気まずいものではなく、互いに今日の出来事を反芻するような、心地よい静寂だった。
「……じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。先生こそ」
名残惜しさを振り切るように、俺は軽く会釈をして、石段を降りようと背を向けた。
石段に足をかけた、その時だった。
背後から、凛とした、けれどどこか縋るような声が降ってきた。
「あぁ、そうだ」
振り返ると、彼女は鳥居の下に佇んでいた。 夕闇に沈みゆく神社の境内で、彼女の姿だけが、淡く発光しているように見える。 そこには、余裕ぶった教師の顔も、妖狐としての威厳もない。 ただ、不安と期待をないまぜにした瞳で答えを待つ、一人の女性の顔があった。
「返事……ちゃんと、聞かせてね」
明日の放課後。 俺が出すと約束した、答え。
彼女の「光」になれるのか。その孤独ごと、彼女の人生を背負う覚悟があるのか。
俺は、彼女の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、力強く頷いた。
「……わかりました。必ず」
もう一度、深く一礼をして、俺は今度こそ背を向けた。
石段を降り、いつもの通学路を歩き出す。 アスファルトの道。並び立つ電柱。自動販売機の明かり。 見慣れたはずの景色が、なぜか少しだけ違って見えた。世界の裏側にある「もう一つの世界」を知ってしまったからだろうか。それとも、俺自身の心持ちが変わってしまったからだろうか。
夜道を歩きながら、右手をそっと握りしめる。 繋いでいた彼女の手の温もりが、まだ掌に焼き付いているようだった。 冷たくて、華奢で、けれど力強かった、あの感触。
(……考えろ)
俺は自分自身に言い聞かせる。
一時の感情で動いてはいけない。同情で決めてもいけない。
これは、彼女の五百年の想いに応えるための、俺の一生をかけた選択だ。
長い、長い一日が終わろうとしていた。
そして明日、俺たちは、新しい関係へと踏み出すことになる。
その答えを見つけるために、俺は夜の闇の中を、一歩ずつ踏みしめるようにして家路を急いだ。




