第6章 月夜の祈り (前編)
賑やかだった妖怪横丁の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
俺たちは、横丁の最奥にある、小高い丘へと続く長い石段を登っていた。
あたりの空気は、ひんやりと冷たく、肌を刺すような静寂に満ちている。
道の両脇には、苔むした古びた石灯籠が、等間隔に並んでいた。その火は、先ほどまでの茶屋や屋台を照らしていた温かい朱色ではない。青白く、どこか頼りなげにゆらゆらと揺れる、まるで人魂のような光だった。
カラン、コロン。
月夜の下駄の音だけが、静かな夜に吸い込まれていく。
その背中は、いつもの凛とした教師のものでも、先ほどまで無邪気に笑っていた少女のものでもない。どこか儚く、触れれば消えてしまいそうな哀愁を帯びていた。
「……最後は、どこに連れていってくれるんですか?」
俺は、その静けさに耐えかねて、小声で尋ねた。
月夜は、足を止めず、背中を向けたまま静かに答えた。
「私のお母さんの、お墓」
「え……?」
俺は思わず足を止め、彼女の背中を見上げた。
お墓。
その言葉が、この非現実的な世界には、あまりにも不釣り合いに響いたからだ。
「……意外そうな顔をしてるわね」
俺の気配を感じ取ったのか、月夜がゆっくりと振り返る。青白い灯籠の光に照らされたその顔は、陶器のように白く、美しかった。
「妖怪は、不老不死で、死なない存在だと思っていた?」
「あ、いえ……。ただ、神秘的な存在というか、そういう『死』という概念からは、遠い場所にいるものだと……」
俺が正直に答えると、彼女は寂しげに微笑み、ふわりと揺れる自分の袖を見つめた。
「半分は正解。でも、半分は違うわ。私たちにも、終わりはあるの」
彼女は再び歩き出し、俺も慌ててその隣に並ぶ。
「でもね、人間とは少し違うのよ。人間は死ねば肉体を残し、それを土に還すでしょう? でも、私たちは違う。命の火が消えれば、光の粒となって、風に溶け、水に混ざり、あるいはこの大気に霧散して、自然そのものに還っていく」
「……遺体は、残らないんですか」
「ええ。だから、これから行く場所に、母の遺骨が埋まっているわけではないの。そこにあるのは、ただの『形』だけ」
月夜は、丘の頂上を見上げた。そこには、薄い霧が立ち込めている。
「私たちが生きていた証。誰かが覚えていてくれるための、楔のようなものね。……あやかしにとって、忘れ去られることこそが、本当の『死』だから」
忘れられることが、死。
その言葉を聞いて、俺は第五章で彼女が語った「妖怪は人間の想像力が生み出したもの」という言葉を思い出していた。
誰からも観測されず、語られず、忘れ去られた時、妖怪は完全に消滅する。
だとしたら、彼女が俺をここに連れてきた意味は――。
「さあ、着いたわ」
霧が晴れた先に、一本の大きな枝垂れ桜が見えた。
季節外れのはずなのに、その木だけは、淡く光る花びらを散らしている。
その根元に、ひっそりと佇む、小さな石碑。
月夜は、その前に静かに跪いた。
俺もまた、その隣で、息を潜めて、彼女の祈りを見つめていた。
季節外れの桜が散る中、月夜は小さな石碑の前に跪き、そっと手を合わせた。
その背中は、震えているようにも、何かを必死に堪えているようにも見えた。
俺は声をかけることもできず、ただ隣で立ち尽くすことしかできない。どれくらいの時間が経っただろうか。
「……お母さん」
月夜が、鈴が鳴るような、けれど震える声で語りかけた。
「連れてきたよ。……私が、初めて”見つけた”人間」
その言葉に、俺はハッとして彼女を見た。
月夜は、ゆっくりと立ち上がり、愛おしそうに石碑を撫でた。
「紹介するわね。私の母、宵月。……かつて、白の妖狐一族の中で、誰よりも優しく、美しかった狐よ」
「宵月、さん……」
俺がおずおずと頭を下げると、月夜は寂しげに微笑んだ。
「母はね、人間が好きだったの。いつか、人間とあやかしが、もう一度手を取り合える日が来るって、誰よりも信じていた」
彼女は、舞い落ちる光る花びらを掌で受け止めた。
「……でも、そんな母を殺したのは、母が愛した『人間』だったわ」
「……えっ」
俺の喉が、ひゅっと音を立てて引きつった。
人間が、殺した。
その事実の重さに、思考が停止する。
「驚くのも無理はないわね。……今から四百年ほど前よ。人間とあやかしの間で、大きな争いがあったの。母は、巫女のような力を持っていたから、争いを止めようとして……人間の放った矢に倒れ、その亡骸は、人間たちが山に放った炎の中に消えたわ」
月夜の声は、淡々としていた。けれど、その瞳の奥には、五百年の時を経ても消えることのない、深い悲しみの色が渦巻いていた。
「父……一族の長である玄威は、激怒したわ。人間を憎み、関わりを絶ち、一族を山深くに隠した。……そして、母と同じ白い毛並みではなく、鮮やかな『琥珀色』を持って生まれた私を、忌み子として遠ざけた」
彼女は、自分の豊かな琥珀色の髪を、ぎゅっと握りしめた。
そして、震える声で、父の言葉を代弁するように言った。
「『その色は、あの夜、山を焼き尽くした炎の色だ』……って」
「炎……?」
「ええ。父にとって、私のこの色は……愛する母を奪い、里を焼き払った、憎き人間たちの『業火』そのものに見えたのよ。私の顔を見るたびに、あの日人間が犯した過ちと、母を失った絶望を思い出してしまう……だから、私を愛せなかった」
「そんな……。先生のせいじゃ、ないのに」
俺が思わず声を上げると、月夜は首を横に振った。
「いいの。父の気持ちも分かるから。……でもね、母だけは違った」
彼女は、髪に混じる一筋の白い線を、指先で掬い上げた。
炎のような琥珀色の中に、唯一残された、母との絆。
「母は、最期に私にこう言ったの。『その毛は、何も燃やすことのない、優しく黄金に輝く色よ。そして、その一筋の白い線は、いつか人を導く光になる』って」
月夜は、石碑に向き直り、強い眼差しで告げた。
「だから私は、山を降りた。父に勘当されても、一族に後ろ指を刺されても。……私が人間社会で教師になったのは、ただの退屈しのぎじゃない。母が信じたこの色が、全てを焼く炎ではなく、人を照らす光になれるのか。……それを、確かめたかったから」
それが、彼女が「琥珀凛」という仮面を被って生きる理由。
復讐ではなく、証明のために。
憎しみではなく、祈りを捧げるために。
月夜は、ゆっくりと俺の方を向いた。その瞳が、月光を浴びて潤んでいる。
「ヤマト。私はね、賭けをしたの」
「賭け……?」
「ええ。あなたをここに連れてきたこと。私の最も大切な場所に、人間であるあなたを招き入れたこと。……もし、あなたが私の過去を知っても、変わらずにいてくれるなら」
彼女は一歩、俺に近づいた。
「母が信じた未来は、間違いじゃなかったって。……そう、思える気がしたから」
彼女の琥珀色の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
それは、五百年の孤独を溶かす、美しい涙だった。
月光を浴びて光る、彼女の涙。
それは、琥珀色の瞳からこぼれ落ちた、五百年の孤独の結晶だった。
「……先生」
俺は、無意識のうちに手を伸ばしていた。
けれど、その指先が彼女の頬に触れる寸前で、ぴたりと止まる。
触れてしまえば、もう二度と戻れない気がしたからだ。教師と生徒という、安全な関係には。
月夜は、涙を指で拭うと、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「ねえ、ヤマト。……賭けの答えは、どうかしら」
その声は震えていた。
拒絶されることを何よりも恐れる、迷子の子供のような声。
「私のこの色は、あなたにはどう見える? 父が言ったような、全てを焼き尽くす業火に見えるかしら。……それとも」
彼女は言葉を詰まらせ、祈るように俺を見た。
「母が言ったような……人を導く、光に見える?」
その問いかけは、俺の魂のありかを問うものだった。
人間として、かつて彼女の母を奪った種族の末裔として。そして、今ここに立つ一人の男として。
俺は、深く息を吸い込み、静かに答えた。
「……炎には、見えません」
俺の言葉に、月夜の目が大きく見開かれる。
「暖かくて、どこか懐かしくて……暗闇を照らしてくれる、綺麗な色です。俺は……この色を、美しいと思います」
「……っ!」
月夜が、息を呑む音が聞こえた。
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返す。
「でも、先生。……あなたの『光』になるということは、あなたのその五百年の孤独も、背負っている過去も、全てを受け止めるということです。……それは、今の俺が、軽い気持ちで『はい』と言っていいことじゃない」
俺は、拳を強く握りしめた。
中途半端な覚悟で頷けば、いつか彼女を傷つける。かつての人間たちがそうしたように。それだけは、絶対にしたくない。
「……一晩、時間をください」
「え……?」
「明日の放課後、必ず答えを出します。教師と生徒としてではなく……一人の人間として、あなたとどう向き合うか。俺なりの答えを」
それは、俺にとっての誠意だった。
月夜は、驚いたように瞬きをし、やがて、ふわりと柔らかく微笑んだ。それは、今日見たどの笑顔よりも、穏やかで、愛おしいものだった。
「……わかったわ。待ってる」
彼女は、そっと俺の手を握った。
「さあ、帰りましょう。……私たちの世界へ」
青白い灯籠の道を、二人で戻っていく。
繋いだ手の温もりだけが、確かな現実としてそこにあった。
俺たちの長い夜は、まだ明けていない。けれど、その先に待つ夜明けが、どんな色をしているのか。
俺は、明日、その答えを出しに行く。




