第5章 凛と妖怪横丁 (後編)
翠風のおじさんが去っていった後、俺たちの間に、少しだけ静かな時間が流れた。
周囲の喧騒は変わらない。相変わらず、一つ目小僧は団子を売り、ろくろ首は熱燗を運び、頭上を一旦木綿がひらひらと飛んでいく。
けれど、先ほどまでの「ただの異世界観光」という浮かれた気分は、少しなりを潜めていた。
月夜が、ふと空を見上げる。
この世界には太陽も月もない。ただ、黄昏時の淡い光が、永遠に続いているだけだ。その横顔に浮かぶ、どこか寂しげな陰りを見て、俺は自然と口を開いていた。
「……先生って、本当に色々あって、今、先生をやってるんですね」
俺の言葉に、月夜は視線を戻し、自嘲気味に笑った。
「そうよ。私は特別に大変なの。……さっきのおじさんの話、聞いてたでしょ?」
一族の汚点。勘当された身。
その言葉の重みが、琥珀色の瞳の奥に沈殿している。
「なんか、人間もそうですけど……肌の色だったり、人種が違ったりするだけで、差別は起こりますもんね」
「そうね。あなた達人間は、肌の色や信じるものの違い、たったそれだけのことで、何回も、何千回も争ってきたじゃない」
月夜は、手の中の湯呑みを、どこか遠い目で見つめながら呟いた。
その瞳には、茶屋の提灯の灯りではなく、もっと古い、燃え盛る戦火の記憶が映っているようだった。
「私は、五百年以上、あなた達のことを見てきたわ。……人間というのは、賢いくせに、愚かよね。『正義』という言葉を盾にして、自分と違うものを『悪』と決めつけ、排除しようとする。四百年前、私たち妖狐が一族同士で争ったのも、元を辿れば、人間のそういう『排除の理屈』に巻き込まれたからよ」
「……排除の理屈、ですか」
「ええ。理解できないもの、自分たちより強いもの、そして……自分たちと『違う』もの。人間は、それを恐れ、遠ざけ、やがて刃を向ける」
大和は、言葉を返せなかった。歴史の授業で習った数々の戦争、そして現代でもなくならない差別のニュース。それらが、彼女の言葉を裏付けていた。
月夜は、ふっと自嘲気味に笑うと、大和の方を向いた。
「でもね、皮肉なものよ。そうやって人間が抱く『恐怖』や『畏れ』といった負の感情こそが……かつては、私たち『妖怪』という存在を形作っていたの」
「え……?」
大和は怪訝な顔をする。恐怖が、妖怪を作る?
「ヤマト。そもそも、妖怪って、なんだと思う?」
唐突な問いかけ。大和は少し考えてから、答える。
「……不思議な力を持つ怪物、とか? お化け、とか……」
「半分正解で、半分間違いね」
月夜は、人差し指を立てて、ちっちっ、と振ってみせた。
「妖怪とはね、『現象』であり『解釈』なのよ」
「解釈……?」
「そう。昔の人間にとって、夜の闇は、今よりもっと濃くて、恐ろしいものだった。山で神隠しに遭うのも、嵐で家が壊れるのも、疫病が流行るのも……すべては人間の知恵では説明がつかない、恐ろしい『現象』だった。だから、人間はそれに名前をつけて、形を与えたの」
彼女は、通りを歩く様々なあやかしたちを、愛おしそうに見渡した。
「風が木々を揺らす音を『天狗の仕業』とし、川の深淵への恐怖を『河童』とし、夜道の不安を『送り狼』とした。……そうやって、理由のわからない恐怖に『妖怪』という名前を与えてキャラクター化することで、人間は心の安定を保ってきたのよ。つまりね」
月夜は、琥珀色の瞳で、真っ直ぐに大和を射抜いた。
「私たちは、人間の『闇への想像力』が生み出した、鏡写しの存在。あなた達が世界をどう見ているか、その『視点』そのものなのよ」
「……なるほど」
大和は、唸るように息を吐いた。
「人間がいるから、妖怪がいる。……僕たちが恐れるから、あなた達が存在できる」
「ご名答。……でもね」
そこで、月夜の声のトーンが、すっと下がった。少しだけ、寂しそうな響きを帯びて。
「それは、もう『昔』の話」
彼女は、茶屋の軒先で揺れる、電気ではない、蝋燭の火が灯る提灯を見上げた。
「今はもう、妖怪は人間を驚かしたりしないし、人間も妖怪を必要としていない。……妖怪自体の存在意義が、薄れているのよね」
そこには、五百年の時を経て変わりゆく世界を見つめてきた、彼女なりの「諦観」があった。
月夜の言葉は、湯気と共に夜気へと溶けていった。
「科学、文明、電気……。人間は『光』を手に入れた。真夜中でも真昼のように明るい街、天気予報で予測できる嵐、医学で解明される病。かつて『不可解』だったものは、すべて『科学』という名の新しい魔法によって、理路整然と説明されるようになったわ」
彼女は、自分の手のひらをじっと見つめる。
「解明された闇に、私たちの居場所はない。かつて畏怖の対象だった私たちは、今やただの『迷信』か、あるいはゲームや漫画の中の『キャラクター』として消費されるだけの存在になった。……ここはね、ヤマト」
彼女は、賑わう妖怪横丁の通りへ視線を向けた。
「人間に忘れられ、行き場を失った神様やあやかしたちの、巨大な『老人ホーム』みたいなものなのよ」
自嘲気味な笑み。だが、そこには不思議と悲壮感はなく、ある種の穏やかな諦めのようなものが漂っていた。
大和は、賑やかに酒を酌み交わす鬼や、楽しそうに走り回る唐傘お化けたちを改めて見た。彼らが、時代に取り残された存在だなんて、今の今まで考えもしなかった。
「……でも」
大和は、口を開いた。
「昔の伝承がただの迷信だとしても……僕の住んでいる地域は、ずっと狐の伝説が根付いていました。だから、完全に忘れ去られたわけじゃないと思います」
都会ではどうか知らない。けれど、あの御饌神神社の周りには、確かに「気配」のようなものが残っていた。だからこそ、大和はあの場所を聖域として愛していたのだ。
「ふふっ、そうね。田舎の、それもあんな神社の近くだからこそ、私たちがまだ『隣人』として認識されやすかったのかもしれないわね」
月夜は、肘をついて、悪戯っぽく俺の顔を覗き込んだ。
「だからなのね。現にあなたは、あの日、私の正体を見ても、腰を抜かしたり、悲鳴を上げたりしなかった」
「……ああ」
大和は、腑に落ちたように頷いた。
「確かに。『ありえない』とは思ったけど、『怖い』とは思いませんでした。……むしろ、昔読んだ図鑑の答え合わせをしているような、不思議な納得感がありましたから」
「それよ」
月夜が、パチンと指を鳴らす。
「恐怖ではなく、理解と納得。それが、これからの私たちが人間と関わっていくための、唯一の細い糸なのかもしれないわね」
「……理解、ですか」
「ええ。畏れ敬われる『神』としてではなく、ただそこにいる不思議な『隣人』として。……まあ、私みたいに人間に化けて、社会科教師なんてやってる変わり者は、そうそういないけどね」
そう言って、彼女はケラケラと笑った。
その笑顔を見て、大和は思った。
時代が変わっても、闇が消えても、彼女はここで、あるいは人間界で、確かに生きている。
そして自分は、そんな彼女の秘密を知る、数少ない「理解者」になれたのだと。
「さて! 湿っぽい話はおしまい!」
月夜は、ぱん、と手を叩いて立ち上がった。
「せっかくのデートよ? 次は、もっと楽しいところに行きましょう! さっき言ってた、絶品の湯豆腐屋さんはどうかしら!」
「……デートって言いました?」
「あら、言わなかったかしら? さあ、行くわよヤマト!」
彼女は再び、俺の手をぐいと引いた。
その手の温もりは、妖怪だとか人間だとか関係なく、確かにそこに在るものだった。
彼女に手を引かれ、俺たちは再び、賑やかな横丁の波へと飛び込んだ。
そこからの時間は、まさに「異世界デート」の名にふさわしい、驚きと楽しさに満ちたものだった。
まずは、さっき話に出てきた『豆腐小僧』の店へ。
お盆を持った弱々しい少年妖怪がおずおずと差し出してきたのは、紅葉おろしとネギがたっぷり乗った、湯豆腐だった。恐る恐る口に運ぶと、大豆の濃厚な甘みと、出汁の効いたつゆが口いっぱいに広がり、思わず「うまっ!」と声が出た。
月夜は「でしょ?」と得意げに笑い、自分の分の豆腐を、ふうふうと冷まして上品に食べていた。
腹ごしらえの後は、腹ごなしの散策だ。
『唐傘お化け』が一本足で器用にジャグリングをする大道芸を見たり、『小豆洗い』がシャカシャカとリズミカルに小豆を洗う音に合わせて、謎の音ゲーのような遊びに興じたり。
骨董品屋では、勝手に動き出す市松人形に追いかけ回され、二人して息を切らして逃げ回ったのも、今となっては笑い話だ。
「はぁ、はぁ……! もう、あの子ったら、しつこいんだから!」
「先生が余計なこと言って怒らせるからでしょ!」
「あら、私はただ『髪がパサパサね』って言っただけよ?」
「それが一番言っちゃダメなやつですよ!」
路地裏で肩を並べて座り込み、二人で顔を見合わせて、吹き出した。
ケラケラと笑う月夜の横顔は、教室で見せる完璧な笑顔よりも、ずっと幼く、そしてずっと綺麗だった。
俺は、狐の面の奥で、彼女に見とれていた。
妖怪だとか、人間だとか、先生だとか、生徒だとか。
そんな肩書きは、この不思議な夜の中では、湯気のように溶けてなくなってしまっていた。ただ、楽しい。その純粋な感情だけが、今の俺たちを繋いでいる。
しばらくして、笑いがおさまると、月夜はすっと立ち上がり、着物の裾を払った。
その表情が、ふと、真剣なものに変わる。
「……さて。随分と遊んじゃったわね」
彼女は、横丁の空を見上げた。
いつの間にか、淡い夕暮れ色は濃紺の夜へと変わり、妖しい月がぼんやりと浮かんでいる。
「楽しかった?」
彼女の問いに、俺は素直に頷いた。
「はい。……非日常すぎて、一生忘れられない体験になりそうです」
「ふふっ、そう。なら、よかった」
月夜は、嬉しそうに目を細めると、俺の方へと手を差し伸べた。
「じゃあ……そろそろ、行きましょうか」
「え? 帰るんですか?」
俺がそう尋ねると、彼女は、いたずらっぽく首を横に振った。
「ううん。違うわ」
そして、彼女は、この妖怪横丁のさらに奥。
賑やかな光が途絶え、静寂と闇が支配する、小高い丘の方を指差した。そこには、古びた屋敷のようなシルエットが、月明かりに浮かび上がっている。
「最後は……『あそこ』に行こうか」
その声は、どこか決意を秘めたように響いた。
あそこ。
彼女が最後に選んだ場所。
俺の直感が告げていた。きっと、そこが、この「デート」の終着点であり――彼女の秘密の核心に触れる、本当の場所なのだと。
「……はい」
俺は、差し出された彼女の手を、強く握り返した。
二人の影が、月明かりの下、静かに奥へと消えていく。
物語は、いよいよ、誰も知らない深淵へと進んでいく。




