第5章 凛と妖怪横丁 (中編)
賑やかな提灯の光と、あやかしたちの喧騒。
この『妖怪横丁』では、俺の手を引く彼女こそが日常で、狐の子供の姿になってしまった俺の方がよっぽど異物だった。
そんなことを考えていると、不意に、月夜が足を止めた。
「そういえば、呼び名、どうしましょうか」
「え? 『先生』でいいんじゃないですか?」
「だーめ。ここでは、私は『先生』じゃないもの」
彼女は、くるりと振り返ると、楽しそうに自分の狐の耳をぴこぴこと動かしてみせた。
「私は、本来の名前の『月夜』。藤原くんは……そうね、『ヤマト』でいっか」
「……そのまんま、行くんですね」
「あら、何か不満?」
「いえ、別に」
俺たちがそんなやり取りをしていると、不意に、月夜が通りの向こう一点を見つめ、ぱっと顔を輝かせた。
「さあ! 行くわよ!」
凛は、俺の小さな手をぐっと強く握ると、提灯の光が連なる喧騒の中へと、自信満々に歩き出した。 子供の姿になってしまった俺の歩幅などお構いなしに、彼女はすいすいと人混み(妖混み?)を抜けていく。俺は、その白い浴衣の袖を必死で掴み、小走りで後を追うしかなかった。
「ちょっ、月夜さん! 早いですよ!」
「あら、ごめんなさい。でも、ぼやぼやしてると、はぐれちゃうわよ? ここは、迷子になった人間が、二度と帰ってこられない場所でもあるんだから」
楽しそうに笑う彼女の言葉が、本気なのか冗談なのか、俺には判別がつかない。 俺たちは、まず、ひときわ賑やかな大通りへと出た。
「ここは『百鬼夜行通り』。この横丁で、一番のメインストリートよ」
月夜が指し示した先には、想像を絶する光景が広がっていた。
道端の屋台では、一つ目の小僧が、真っ赤に焼けた目玉のような串焼きを売っている。
「へい、らっしゃい! 焼きたての『一つ目団子』だよ!」という威勢のいい声が飛ぶ。俺は、思わず「うっ」と喉を詰まらせた。
「あそこの店、美味しいのよ。ヤマトも一本、食べてみる?」
「……丁重に、お断りします」
その隣では、ろくろ首の女将が、ありえないほど首を長く伸ばして、店の二階にいる客に熱燗を届けていた。
骨董品屋の店先では、古い唐傘が一本足でぴょんぴょんと跳ね回り、客引きをしている。
「……すごい」
恐怖よりも、いつしか好奇心が勝っていた。
見るものすべてが、俺の常識を破壊していく。こんな世界が、あの神社の、本殿のすぐ裏に広がっていたなんて。
「ふふん。どう? あなたたちの世界より、よっぽど賑やかで、楽しそうでしょう?」
俺の反応を見て、月夜は満足そうに胸を張る。
「こっちの世界じゃ、人間が恐れる『あやかし』も、人間が捨てた『道具』も、みんな、こうやって肩を寄せ合って生きてるの。人間界みたいに、陰湿ないじめも、面倒な人間関係もない。……まあ、たまに、食うか食われるかの、命のやり取りはあるけれど」
「……物騒なこと、さらっと言わないでください」
俺がジト目で睨むと、彼女は「あら、ごめんなさい」と舌を出した。その仕草は、教師の「琥珀凛」ではなく、五百歳の妖狐「月夜」そのものだった。彼女は、この世界にいる時が、一番生き生きとしているように見えた。
「あ、見て、ヤマト。あそこ」
月夜が指差したのは、薄暗い路地の奥だった。 「あれは『鳴釜』よ。吉凶を占う、釜のあやかし。あの釜が鳴る音で、未来を占うの」
ぼう、と暗闇の中で、釜がひとりでに不気味な音を立てている。
「あっちの角を曲がれば、『豆腐小僧』のやってる、絶品の湯豆腐屋があるわよ。後で連れてってあげる」
彼女は、まるで自分の庭を案内するかのように、次から次へと、この世界のルールを俺に教えてくれる。
それは、これまで彼女が俺に見せてきた、イタズラ好きな姿でも、教師の姿でもない。 自分の故郷を、大切な人間に、誇らしげに紹介する、一人の「女の子」のような顔だった。
俺が、そんな彼女の横顔に見とれていると、不意に、月夜が足を止めた。
「あら?」
通りの向こうから、ひときわ大きな影が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「やだ、あの人、まだ生きてたんだ」
「え?」
「翠風のおじさん!」
彼女が声を張り上げた先。そこにいたのは、自分の身長の三倍はあろうかという、巨大な天狗だった。長い鼻、山伏のような装束、背中に携えた羽。まさに、図鑑で見た天狗そのものだ。
その天狗が、月夜の声に気づき、大きな目をさらに見開いた。
「おお、月夜ではないか! ぬし、久々じゃのう! 元気にしとったか!」
「久しぶり! そうね、多分、30年ぶりくらい?」
「そうか、もうそんなに経つか!」
――30年。
俺の頭は、その会話のスケールに、一瞬ついていけなかった。
(30年ぶりって……俺が生まれて、大人になるまでの倍近いぞ……? 妖怪にとって、それが『久々』の単位なのか……?)
世界が、ぐらり、と揺らぐような感覚。
「あぁ、そうだ、おじさん、紹介するわね!」
月夜が、俺の背中をばしっと叩く。
「こっち、『ヤマト』! えーっと……遠い親戚? みたいな? とにかく、私の弟みたいなものよ!」
(なんなんだよ、その雑な設定は! こっちは、さっきからパニック続きだっていうのに!)
内心で叫びながらも、ここで固まるわけにはいかない。俺は、小さな狐の姿のまま、巨大な天狗を見上げて、必死に声を絞り出した。
「は、はじめまして! ヤマトです! よ、よろしくお願いします!」
「おお! はじめましてだな、ヤマト! いい名前じゃないか!」
翠風は、にかっと笑うと、巨大な手のひらで、俺の背中を思い切り叩いた。
「――がはっ!」
「男なんだから、もっとハッキリせんか!」
「い、いひゃいれす……(痛いです)」
「もう、おじさん、強すぎよ!」
そう言って笑う月夜も、俺の背中を、ばしん! と叩いた。
「いひゃっ!?」
「「ぬはははは!」」
豪快に笑う天狗と、楽しそうに笑う月夜。俺は、二人の強烈な歓迎に、ただ咳き込むことしかできなかった。
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翠風の案内で、俺たちは近くの茶屋へと場所を移した。
出された緑茶を一口飲んで、ようやく人心地(妖心地?)がつく。
「しかし、月夜がここに戻ってくるとは、珍しいのう」
翠風が、湯呑みをすすりながら、しみじみと言った。
「ヤマトが、こっちの横丁には馴染みがなくて。一度、ちゃんと紹介しておきたくってさ」
「そうか、そうか」
翠風は、鷹揚に頷く。
「……それで、親父さんには、もう会うたのか?」
その一言で、茶屋の空気が、ぴしり、と凍った。
月夜が、飲もうとしていたお茶を、激しくむせる。
「ゲホッ、ゲホッ……! ……あ、あいつに? 会うわけないじゃない!」
「なんだ。まだ、仲直りしとらんのか」
呆れたような、しかし、どこか優しい翠風の視線に、月夜は、ふいっと顔をそむけた。
「……一生、よくならないわよ。私は、あの一族の、汚点だもの」
その声は、小さく、震えていた。
俺は、息を呑んだ。思い出したのだ。あの夜、神社で、彼女が泣きながら叫んだ言葉を。
――『どんなに惨めで、虐げられた人生だったか!』
彼女の抱える闇の、その一端に、今、触れてしまった。
重くなった空気を、翠風の温かい声が、ふわりと包んだ。
「んー。わしは、おぬしのその琥珀色の毛並みも、一筋の白い光も、黄金に輝いて、美しくて好きなんじゃがのう」
「……っ」
「……まあ、一族同士のいざこざに、他種族のわしが口を出すことはできん。じゃが、あんまり、思いつめるなよ」
翠風は、そう言って立ち上がると、俺の頭に、ぽん、と大きな手を置いた。
「じゃあ、わしはそろそろお暇するかの。ここの勘定は、わしが払っておく」
「え、おじさん、いいよそんな!」
「かまわん、かまわん。――ヤマト、楽しんでいけよ。そして」
翠風は、悪戯っぽく、片目をつぶった。
「月夜を、頼んだぞ」
その言葉の意味を、俺が理解するよりも早く、彼は「じゃあの」と手を振り、茶屋を後にしていった。
残された俺と月夜の間に、少しだけ、気まずい沈黙が流れた。




