プロローグ
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世界は、カーテンの隙間から差し込む、白んだ光から始まった。
「ふぁ……」
藤原大和は、肺の底から空気を絞り出すような、大きなあくびと共に重い瞼を
こじ開けた。
いつもと変わらない朝。見慣れた自室の天井。変哲も変わり映えもしない、繰り返される毎日。
この先、自分の人生が劇的に変わる瞬間など訪れるはずもない。そんな、確信にも似た諦観と共
に、大和は緩慢に身体を起こした。
「今日から学校か。春休みも、あっという間だったな」
誰に言うでもない独り言をこぼし、ベッドから抜け出す。
大和は、物心ついた頃には既に母親は病気で他界しており、父親は単身赴任で家を空けている
ため、この家で一人暮らしをしていた。 静かすぎる朝にも、もう随分と慣れてしまった。
トースターに食パンを一枚放り込み、インスタントコーヒーの粉をマグカップに落とす。湯を沸か
す間にテレビのスイッチを入れると、女性アナウンサーの当たり障りのない声が、静寂を埋めて
いった。
『――それでは、今日の天気です。全国的に高気圧に覆われ、抜けるような青空が広がるでしょ
う。絶好のお出かけ日和となりそうです――』
「
……晴れ、か」
こんがりと焼けたトーストを咥え、湯気の立つコーヒーを一口すする。
(天気もいいことだし、今日の帰りは、あそこに行くか)
脳裏に浮かんだのは、いつもの場所。校舎の裏手から続く、少し寂れた石段を上った先にあ
る、小さな神社の境内。
御饌神神社
そこが大和にとって、誰にも邪魔されない最高の読書スペースだった。
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新学期。新たな季節の始まりだというのに、体育館に充満する空気はどこか淀んでいた。
壇上で続く、校長の退屈な挨拶。右から左へと聞き流しながら、大和は早くこの堅苦しい時間か
ら解放されたいと、心から願っていた。
「堅苦しい……」
思わず本音が漏れた瞬間、隣から肘でつつかれる。
「おい、大和! 今年も一緒のクラスだな、よろしく!」
「
……ああ、よろしく」
数少ない友人の一人、健太だった。彼の能天気な笑顔に、大和は少しだけ口元を緩める。
「つーか、それより見ろよ。あそこ」
健太がこっそりと顎で指し示したのは、ステージの脇に控える一人の女性。
他の教師たちとは明らかに違う空気を纏っていた。背筋をすっと伸ばした立ち姿、艶やかな黒
髪。遠目からでもわかる、その異質なまでの美しさ。
やがて、校長の紹介を受けて、その女性がゆっくりと壇上へと歩みを進めた。
瞬間、体育館の空気が変わった。
ただ、美しい、という言葉だけでは足りない。まるで物語の中から抜け出してきたかのような、現
実離れした美貌。
陶器のように滑らかな白い肌に、すっと通った鼻筋。そして、特に目を引いたのは、漆黒の髪に
一筋だけ混じる、絹糸のような白い線だった。
ざわめきが、波のように生徒たちの間を伝播していく。
凛、とした声が、マイクを通して体育館に響いた。
「皆様、はじめまして。本日より、こちらの御饌神高校に赴任いたしました、琥珀凛と
申します。担当は歴史と社会です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
彼女がそう名乗り、優雅に一礼した、その時だった。
――ざぁっ……。
微かな音が、体育館の屋根を叩いた。
窓の外は、朝の天気予報通り、雲一つない青空が広がっているはずだった。さんさんと降り注
ぐ陽光が、体育館の床に明るい光の四角形を描いている。
それなのに、窓ガラスを、きらきらと光る筋がいくつも伝っていくのが見えた。
いわゆる天気雨。
(……晴れてるのに、雨?)
大和は、窓の外の光と、屋根を叩く雨音との奇妙な不協和音に、わずかに眉をひそめた。生徒
たちのほとんどは、目の前の美しい教師に心を奪われ、その些細な天気の変化に気づいた者は
いなかった。
ただ一人、大和だけが、まるで彼女の登場を祝福するかのように始まったその不思議な雨を、
どこか腑に落ちない気持ちで見つめていた。
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全校集会が終わり、生徒たちが各々の新しい教室へと戻っていく。
「いやー
、綺麗だったな、凛先生!」
「なぁ大和! あんな綺麗な先生が担任だったら、俺、
一年間ウハウハなんだが!」
興奮冷めやらぬといった様子の健太に、大和は肩をすくめてみせる。
「さあな。俺は別に興味ない。平穏に、何事もなく一年過ごせればそれで十分だ」
「つまんねーやつ。少しは青春ってやつを謳歌しろよ」
「物語の世界じゃあるまいし。そんなドラマみたいなこと、起きるわけないだろ」
軽口を叩き合っていると、教室の扉が開き、担任の教師が入ってきた。そして、その隣には――
。
「えっ……」
健太が息を呑む。
そこに立っていたのは、先ほどまで壇上にいた、琥珀凛その人だった。
「えー
、紹介する。今年度、このクラスの副担任を受け持っていただくことになった、琥珀先生だ」
担任の言葉を合図に、凛が再び優雅な笑みを浮かべる。
「改めまして、琥珀凛です。
一年間、よろしくお願いいたします」
次の瞬間、教室は歓喜の雄叫びに包まれた。
その喧騒の中、大和は一人、静かに凛を見ていた。
なぜか、ふと、彼女と目が合った気がした。気のせいかもしれない。だが、その唇が、ほんのわ
ずかに、悪戯っぽく弧を描いたように見えた。
平穏な日常。変わり映えのしない毎日。
その鉄壁だと思っていた日常に、小さな、しかし、とてつもなく美しい亀裂が入ったような気がし
て、大和は知らず、ごくりと喉を鳴らした。




