琥珀色の天秤
私の心の中に、一つの天秤がある。
片方には、五百年以上を生きてきた妖狐としての「プライド」と「退屈」。
そして、もう片方には、「藤原大和」という、たった一人の人間の少年。
最初は、圧倒的に前者が重かったはずなのに。いつからだろう。この天秤が、ぎしり、ぎしりと、不規則に揺れ始めたのは。
美術室での、私の完璧なポージングを無視した、あの呆れ顔。抜き打ちで出した、意地の悪い漢字テストを、いとも容易く解いてみせた、あの涼しい顔。
(……むかつく)
私の仕掛けた罠に、彼は少しも動じない。それどころか、いつも一枚上手を行く。それが、たまらなく悔しくて、腹立たしい。
体育館での鬼ごっこ。
純粋な身体能力だけで、あの朴念仁を翻弄してやるはずだったのに。いとも容易く捕まえられたのは、私の方だった。
負けず嫌いが発動して、思わず妖力まで使ってしまった後の、彼の、あの冷たい視線。
(……別に、インチキしたくてしたわけじゃないわよ)
ただ、負けたくなかった。彼に、「やっぱり大したことない」なんて、思われたくなかった。
ただ、それだけだったのに。
私のイタズラは、いつからか、彼を困らせたいという当初 の目的から、少しずつズレ始めていた。
彼が、どんな顔をするのか、見たい。
彼が、どんな声を出すのか、聞きたい。
彼の、あの凪いだ水面のような心を、もっと、もっと揺さぶってみたい。
それは、退屈しのぎとは似て非なる、もっと衝動的で、熱を帯びた感情だった。
図書室の片隅で、古文書を見せた時の、彼の真剣な眼差し。
「本当のことを、先生が俺に教えてくれるんですか」
その言葉に、私の心の奥が、ちくりと痛んだ。
本当のこと。私の、本当の姿。本当の、心。
それを知りたいと、この人間は言うのだろうか。
そして、音楽室。
なぜ、弾いてしまったのだろう。母が遺してくれた、あの曲を。
誰にも見せたことのない、私の最も柔らかで、脆い部分。
彼が、ただ黙って、静かに聴いていてくれると、なぜか、わかっていたから。
彼の隣は、不思議と、心が凪いでいく。
中庭での、他愛もない会話。
私のイタズラを、ヤケになっていると見抜き、サンドイッチの話や、学校生活の話に、静かに付き合ってくれる。
気づけば、私は、彼に「会って」いた。
教師としてでもなく、妖狐としてでもなく、ただの「私」として。
だから、決めたのだ。
私の聖域である、あの神社に、彼を連れて行こうと。
そして、もし、それでも彼が、あの凪いだ瞳を変えないのなら。
(……見せて、あげても、いいかもしれないわね)
人間が決して足を踏み入れることのない、私たちの、本当の世界。
『妖怪横丁』。
天秤が、大きく傾いた。
私のプライドや退屈よりも、彼への興味と、芽生え始めたこの名もなき感情の方が、ずっと、ずっと重くなっている。
その事実に、まだ気づかないふりをしながら、私は彼の手を引いた。
さあ、行きましょ。
私の、本当の世界の、入り口へ。




