第4章 校内デート(後編)
「……ここが、音楽室」
その言葉を聞いた瞬間、それまでおちゃらけていた凛の足が、ぴたりと止まった。 放課後の音楽室は、生徒の姿もなく、静まり返っている。窓から差し込む西日が、床に長い光の帯を描き、空気中の埃をきらきらと輝かせていた。
それまでの喧騒が嘘だったかのように、凛はふっと口を閉ざした。 彼女は、まるで何かに吸い寄せられるかのように、部屋の中央に鎮座するグランドピアノへと、ゆっくりと歩み寄っていく。
「…………」
黒く艶やかな蓋を、そっと指でなぞる。 そして、静かに椅子に腰を下ろすと、鍵盤の上に、ためらうように、その白い指を置いた。
――ぽろん。
一つの音が、静寂の中に響く。
そして、次の瞬間、凛の指が、まるで水が流れるかのように、鍵盤の上を滑り始めた。
奏でられたのは、大和が一度も聞いたことのないメロディだった。 クラシックでも、ポップスでもない。もっと古く、どこか物悲しい、忘れられた王国のための子守歌のような曲。一つ一つの音が、夕暮れの光に溶けては消えていく。
大和は、言葉を失っていた。 目の前にいるのは、いつも自分をからかってくる、あのイタズラ好きな先生ではなかった。 長い、長い時を生きてきた者が持つ、深い郷愁と、癒えることのない寂しさ。その横顔は、触れたら壊れてしまいそうなほど、儚く、美しかった。
やがて、曲が終わり、最後の音が、静寂の中に吸い込まれていく。 長い、沈黙。
「……昔、母が、よく弾いてくれた曲よ」
ぽつり、と凛が呟いた。その声は、いつになく、か細く聞こえた。 だが、次の瞬間。 彼女は、まるで仮面をつけ直すかのように、ぱっと顔を上げ、いつもの完璧な笑顔を浮かべた。
「さて、感傷に浸るのはここまで! 私の秘密の場所に付き合ってくれたんだから、今度はあなたの番よ」
「……先生。もう、帰っていいですか」
「へ? え? なんで?」
きょとん、と効果音がつきそうな顔で、凛は小首を傾げた。
その、あまりにもわざとらしい仕草に、大和の額に青筋が浮かぶ。
「だって先生、話も全然聞いてないじゃないですか。それに、どうせこの学校のことなんて、全部知ってるんでしょ?」
図星、という言葉が、胸のあたりにぐさりと突き刺さる。
だが、ここで動揺するほど、彼女もやわではない。凛は、ふふん、と余裕の笑みを浮かべてみせた。
「そうよ。藤原くんの言う通り、全部熟知しているわ。だって、いつ不慮の事故で、狐の姿に戻ってしまうか分からないもの。逃げ道くらい、確保しておかないと」
言うが早いか、彼女の腰のあたりから、ぽんっ、と可愛らしい音を立てて、一本のふさふさとした尻尾が現れた。琥珀色の、美しい尻尾が、楽しそうにゆらゆらと揺れている。
「……それ、悪ふざけが過ぎますよ。誰かに見られたらどうするんですか」
「いいじゃない。今、ここには私たち二人しかいないんだから」
むしろ、見せびらかすかのように、凛は尻尾をぱたぱたと振ってみせた。その、あまりにも無防備な姿に、大和は深いため息をつくしかない。
「じゃあ、藤原くん。帰る前に、一つだけ付き合ってちょうだい」
「……まだ、何かあるんですか」
「あなたが、この学校で一番好きな場所はどこ? そこを、私に紹介してくれたら、今日のところは解放してあげるわ」
それは、イタズラでも、取引でもない、純粋な「問い」。
凛の瞳が、初めて、からかいの色ではなく、真剣な好奇心の色を宿していることに、大和は気づいた。
「…………わかりました。行きますよ」
根負けしたのは、自分の方だった。
「ただし、外に出るので、その尻尾は隠してください」
「はいはーい」
凛は、満足そうに頷くと、ぱっと尻尾を消してみせた。その変わり身の早さには、もはや感心するしかなかった。
大和が、凛を案内したのは、彼がいつも昼食を食べている、校舎裏手の中庭だった。
季節の花が静かに咲き誇る、彼だけの聖域。
「……なんだ、ここか」
凛は、まるで知っていたかのような口ぶりで、そう呟いた。
「……絶対、わかってたでしょ」
大和が、ぼそりと独り言のように言う。
「んー? なにか言ったかしら?」
「いえ、なんでも。じゃあ、案内は終わったので、俺は帰りますね」
踵を返そうとする大和の袖を、凛は慌てて掴んだ。
「待って。もう少しだけ。……少し、話をさせて」
「帰るって言いましたよね。話って、なんですか」
その、どこか真剣みの籠もった声に、大和は足を止める。
凛は、少しバツが悪そうに視線を逸らしながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「ごめんね。今日は、付き合わせちゃって。私……なんだか、ヤケになってたみたい」
「……でしょうね。色々と、ありすぎですから」
「そうよ。あなたに正体は見られるわ、散々こき下ろされるわで……本当に、大変だったんだから」
少しだけ、素直な本音が漏れる。その、年相応の(?)弱音に、大和は少しだけ毒気を抜かれた。
「……それで、なんでここが好きなの?」
凛が、純粋な好奇心で尋ねる。
「ここですか。……一人になれるし、静かだからです。風の音、草が揺れる音。……聞いてると、心地いいんですよ」
「……そうね。私も、好きよ。こういう場所。昔を思い出すわ」
凛が、どこか遠くを見るような、穏やかな表情で呟く。 初めて見る、彼女のそんな顔に、大和はかける言葉を見つけられずにいた。これまでの喧騒が嘘のような、静かな時間が二人の間に流れる。 その沈黙を破ったのは、凛の方だった。
「そういえば、あなた」
「はい」
「いつもお昼はサンドイッチだけど、飽きないの?」
唐突な、あまりにも日常的な質問。大和は少し面食らった。
「……見てたんですか」
「当たり前じゃない。先生は、生徒のこと、ちゃーんと見てるのよ?」
凛は、悪戯っぽく笑う。だが、その表情には、からかい以外の色が混じっているように見えた。
「……別に。自分で作ってますし、簡単なのが一番なんで」
「あら、そうなの。ちゃんと栄養考えないと、大きくならないわよ?」
「……ほっといてください」
そっぽを向く大和に、凛はくすくすと笑う。
「じゃあ、もう一つ。……学校は、どう? 楽しい?」
それは、教師として、ごく当たり前の質問。だが、彼女から投げかけられると、全く違う意味を持っているように聞こえた。大和は、少し考えてから、正直に答える。
「楽しいとか、つまらないとか、あまり考えたことないです。ただ、通うべき場所だから、通ってるだけで」
「ふぅん……。まあ、そんなものかもしれないわね。でもね、藤原くん。その『ただ通うだけ』の毎日も、ずっと後になってから、かけがえのないものだったって気づいたりするものよ」
その言葉には、五百年以上を生きてきた者だけが持つ、不思議な重みがあった。
大和は、その横顔を見ながら、ふと、からかうような気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
「昔って、一体何年前の話ですか」
ここがチャンスとばかりに、大和は少し意地悪く、嘲笑うように言った。ささやかな、仕返しだった。
その言葉に、凛の眉が、ぴくりと吊り上がる。
「……うるさいわね! 女性に年齢を聞くのは、野暮ってものでしょ!」
「はいはい」
「『はい』は一回!」
いつもの調子が戻ってきた凛に、大和は「してやったり」と、内心で少しだけ笑った。
だが、凛は次の瞬間、まるで何かを閃いたかのように、ぱっと顔を輝かせた。
「よし、決めた! あなた、この後、時間ある?」
唐突な質問に、大和は面食らう。
「へ?」
「どうせこの後、いつもの神社に行くつもりだったんでしょ?」
「ええ、まあ。ここで少し休んでから、行こうかなと」
「なおさら、ちょうどいいじゃない! さあ、行きましょ!」
凛は、大和の腕をぐいと掴むと、有無を言わさぬ力で歩き始めた。
「え、ちょっ……!」
ノリノリの凛と、その強引さに、呆気に取られて引きずられていく大和。
結局、彼が彼女の手のひらの上で転がされているという事実は、今日も変わらないようだった。




