第4章 校内デート(前編)
結局、藤原大和の放課後は、一人の美しい妖狐によって、いとも容易く奪われた。
断るという選択肢もあったはずだ。だが、最後の最後に見せられた、あの子供のような笑顔を前にしては、どうすることもできなかった。
「ふんふふーん♪」
隣を歩く琥珀凛は、上機嫌に鼻歌まで歌っている。その手には、どこから取り出したのか、一本のチョークが握られており、まるで指揮棒のように軽やかに振られていた。 完全に、遠足気分の子供である。
その、ある意味純粋な姿に、藤原大和は、もはや怒る気力さえ失いつつあった。
大和が投げやりに案内する、その先。
「……ここが、美術室です」
「藤原くん、絵は得意かしら? 私をモデルに、一枚どう?」
そう言って、凛は部屋の隅にあったデッサン用の石膏像の隣に立つと、腰に手を当て、蠱惑的な流し目でポーズを決めてみせた。 大和は、そのわざとらしいおふざけを完全に無視し、無言で教室を出ていこうとする。
「あら、つれないのね。じゃあ、こっちはどうかしら?」
諦めない凛は、今度は静物デッサン用に置かれていたベルベットの布を、さっと肩に羽織ると、窓の外を眺めながら、物憂げな表情で悲劇のヒロインを演じ始めた。 大和は、深いため息をつき、歩みを止めない。 すると、凛はさっと彼の前に回り込み、出口を塞いだ。
「じゃあ、これなら! お願いっ!」
両手を胸の前で合わせ、上目遣いで、可愛らしく小首を傾げる。並の男なら、間違いなくここで陥落するであろう、あざとさの最終兵器。 だが、大和の心は、凪いだままだった。
「……いい加減にしてください」
その、心底呆れきった声に、凛はぷうっと頬を膨らませた。そして、まるで何かを閃いたかのように、にやりと笑う。
「ふーん。色仕掛けがダメなら、こっちにしましょうか」
彼女は、ずっと手に持っていたチョークを、くいっと大和に向けた。
「あなた、確か読書が趣味だったわよね? 『本の虫』さん」
「……それが何か?」
「じゃあ、抜き打ちテストよ!」
凛は、くるりと踵を返すと、黒板に向かって、さらさらといくつかの漢字を書き出した。
『憂鬱』 『薔薇』 『魑魅魍魎』
「さあ、読んでごらんなさい? 本の虫のあなたなら、もちろん、こんな漢字くらい、わけないわよね?」
それは、教師が生徒を試すというよりは、ただの意地の悪い挑戦だった。
だが、大和は、その文字を一瞥すると、何の感情も込めずに、淡々と答えた。
「『ゆううつ』、『ばら』、『ちみもうりょう』。……ですよね?」
「なっ……!」
「美術室でやることじゃないと思いますが。次、行ってもいいですか?」
完璧な回答と、あまりにも正論なツッコミ。 凛のしたり顔が、驚きと屈辱に固まる。
――パキッ。
彼女の手の中で、チョークが乾いた音を立てて、真っ二つに折れた。
「ふ、ふんっ! あなたの実力を、少し試してあげただけよ! さあ、次に行くわよ!」
凛は、折れたチョークをポケットにねじ込み、顔を真っ赤にしながら、そそくさと美術室を後にするのだった。 大和が、疲労困憊の足取りで次に案内したのは、巨大なドーム状の建物だった。
「……次は、体育館です」
「あら、つれないのね。じゃあ、体育館でかけっこでもする? 私に勝てたら、今日のところは解放してあげてもよくってよ?」
「結構です。どうせ、妖力でインチキするんでしょ」
「失礼しちゃうわね。純粋な身体能力よ」
「どっちにしろ、勝ち目がないのでお断りします」
大和が、きっぱりと拒絶した、その時だった。
凛は、にやり、と妖狐のような笑みを浮かべた。
「――残念。拒否権は、ないわ」
言うが早いか、凛は「鬼ごっこ、開始!」と高らかに宣言すると、軽やかなステップで大和から距離を取った。
「ちょっ、本気ですか!?」
「先生は、いつだって本気よ。さあ、捕まえてごらんなさい、藤原くん!」
だだっ広い体育館で、突如として、教師と生徒の奇妙な鬼ごっこが始まった。 凛は、ひらりひらりと蝶のように舞い、大和を挑発する。その動きは、人間のものとは思えないほどにしなやかだった。 だが、大和は、意外なほど冷静だった。 彼は、闇雲に追いかけることはしない。ただ、じっと、凛の動き、呼吸、重心の移動、その全てを観察している。
凛が、一瞬、フェイントに引っかかった大和を見て、くすりと笑った、その隙だった。 大和が、まるで予測していたかのように、逆方向へと踏み込み、すっと手を伸ばす。
――ぽん。 その手は、いとも容易く、凛の肩に触れた。
「……え?」
凛は、何が起きたのか分からない、という顔で固まった。 まさか、こんなにもあっさりと捕まるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「……はい、終わりですよね。次、行きますよ」
「ま、待ちなさい!」
凛の負けん気に、完全に火がついた。
「今のは練習よ、練習! 次は、私が鬼!」
「いや、だから、俺はやらないと……」
「問答無用!」
有無を言わさず、今度は凛が追いかける番になった。
だが、ここでも、凛の予想は大きく裏切られる。物静かで、運動など全くしそうにない大和が、驚くほど身軽なのだ。ひょい、ひょいと、まるで木の葉のように、凛の猛追をかわしていく。
「な、なんで捕まらないのよ!」
「……別に、普通に逃げてるだけです」
ぜえぜえと肩で息をし始めた凛は、ついに、プライドをかなぐり捨てた。
(……ええい、ままよ!)
ほんの少しだけ、足先に妖力を込める。 瞬間、彼女の身体は、人間の動体視力では捉えられないほどの速度で、大和の背後へと回り込んだ。
――ぺしっ。
今度こそ、凛の手が、大和の背中を、確実にとらえた。
「はぁ、はぁ……ど、どう? これで、私の勝ちよ!」
勝ち誇った顔で胸を張る凛に、大和は、心底呆れきった、冷たい視線を向けた。
「……やっぱり、インチキするんじゃないですか」
その、あまりにも正論な一言に、凛の勝利の喜びは、一瞬にして消し飛ぶのだった。
「で、ここが図書室です。自習の時間に、お世話になりましたね」
「知ってまーす。静かで、イタズラするにはもってこいの場所よね」
凛は、悪戯っぽく片目をつぶってみせる。大和がため息をつこうとした、その時だった。
「――こっちよ」
凛は、またしても大和の手を掴むと、一般的な書架から離れ、図書室の最も奥にある、薄暗い一角へと彼を導いた。
そこは、ほとんどの生徒が足を踏み入れないであろう、「郷土史料コーナー」だった。古い紙とインクの匂いが、静かに鼻腔をくすぐる。
「……こんな場所、あったんですね」
「ふふっ、あなたの知らない学校の顔も、たまにはいいでしょう?」
凛は、楽しそうに埃をかぶった書架を眺めると、やがて、一冊の和綴じの本を、慣れた手つきで引き抜いた。
「ほら、見てごらんなさい」
彼女が開いたページに描かれていたのは、九つの尾を持つ、一体の白狐の墨絵だった。
「……授業で話した、妖狐伝説の本ですか」
「ええ。この土地の歴史を記した、古い文献の写しよ」
凛は、その古風な狐の絵を、どこか愛おしむように、そっと指でなぞった。
「人間は、こうやって物事を記録し、伝えていくのね。でもね、藤原くん。本当のことは、いつだって、こうやって物語の中に閉じ込められて、忘れられていくものなのよ」
その横顔は、教師のものではなく、五百年以上を生きてきた「当事者」の、達観した、しかし、どこか寂しげな表情だった。
大和は、その言葉の意味を、痛いほど理解できた。
「……じゃあ、本当のことを、先生が俺に教えてくれるんですか」
その問いに、凛はゆっくりと顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「さあ、どうかしら。それは、これからのあなたの態度次第、ね」
彼女は、ぱたん、と本を閉じると、何事もなかったかのように書架に戻した。
「さて、案内はまだ続くのでしょう? 次はどこかしら」
いつもの調子に戻った彼女に、大和は少しだけ、心臓が跳ねるのを感じていた。




