第3章 凛のイタズラ(後編)
三度目の正直は、彼女の心が、ぽっきりと折れる音だったのかもしれない。
だが、五百年以上を生きてきた妖狐のプライドは、折れたままでは終わらない。むしろ、それはより硬く、より鋭く研ぎ澄まされるための、ほんの準備運動に過ぎなかった。
それからの数日間、凛の直接的な攻撃は、ぱったりと止んだ。
授業中に理不尽な質問をされることも、休み時間にわざとらしい罠を仕掛けられることも、図書室で姑息な妖術を使われることもなくなった。
彼女は、ただ、完璧な「琥珀先生」を演じ続けている。
だが、藤原大和は、その静けさが、これまでで最も不気味なものであることを肌で感じていた。
視線。
廊下の向こうから、職員室の窓から、時には、クラスメイトの背後から。
凛は、何も仕掛けてはこない。ただ、じっと、大和のことを観察しているのだ。
まるで、狩りを前にした獣が、獲物の習性、弱点、そのすべてを細心の注意を払って、分析するかのように。
その、温度のない視線を感じるたびに、大和の背筋はぞくりと冷たくなった。これは、嵐の前の静けさだ。彼女は、今度こそ絶対に失敗しない、完璧な一撃を練り上げているに違いなかった。
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その日は、週に一度の、クラス全員での大掃除の時間だった。
大和は、ジャンケンに負け、面倒な黒板係を押し付けられていた。他の生徒たちが、机を運んだり、窓を拭いたりして騒がしく動き回る中、一人、黙々と黒板を綺麗にしていく。
「みんな、ちゃんとサボらずにやってるかしらー?」
教室の後方、腕を組んで仁王立ちする、監督役の琥珀凛。
その視線が、今、自分だけに突き刺さっているのを、大和は痛いほど感じていた。
長い、長い沈黙。
そして、ついに、その時は来た。
「――藤原くん」
凛が、静かに、しかしよく通る声で、彼の名前を呼んだ。
他の生徒たちの動きが、ぴたりと止まる。
「そこ、まだ少し、チョークの跡が残っているわよ」
凛は、ゆっくりとした、優雅な足取りで、教壇へと歩み寄ってくる。
大和は、言われた箇所をもう一度、黒板消しでこすった。
「いえ、そこじゃないわ。もっと、上」
凛は、大和のすぐ真横に立つと、すっと細い指を伸ばし、黒板の一点を指し示した。近すぎる距離に、彼女の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「貸してごらんなさい。私がやってあげる」
「はい」と、大和が黒板消しを渡そうとした、その時だった。
凛は、彼の手に自分の手をそっと重ねるようにして、それを受け取った。ひやりとした、指先の感触。
彼女は、指し示した箇所を、トン、トン、と優しく叩くようにして綺麗にする。
そして、ゆっくりと、大和の方へと振り返った。
そこに浮かんでいたのは、いつもの教師の完璧な微笑みではなかった。
獲物を見つけ、その首筋に牙を立てる寸前の、妖狐の、愉悦に満ちた笑みだった。
――仕掛けた。
大和の脳内に、警報が鳴り響く。
だが、それが一体何なのか、まだ、彼には分からなかった。
結局、凛はそれ以上何もしてこなかった。ただ、掃除の終わりまで、大和のすぐそばに立ち、愉悦の笑みを浮かべていただけだった。
そして、終業のチャイムが鳴り、帰りのホームルームが始まる。
「よし、みんな! 一日お疲れ様! 今日の先生の授業、どうだったかしら?」
凛が、上機嫌な声でクラスに問いかける。
生徒たちからは「わかりやすかったー!」や「代講じゃなくて、ずっと先生がいい!」といった声が飛び交った。
だが、その言葉にも全く耳を貸さず、一人、さっさと帰る準備をしている生徒がいた。藤原大和だ。
その超然とした態度に、凛はぴくりと眉をひそめる。
「――藤原くん!」
凛は、わざと教室中に響き渡るような大きな声で、彼を呼び止めた。
「あなた、放課後、ちょっと手伝って欲しいことがあるの」
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周りからは「またかよ!」「いいなー!」「先生! 俺が代わりにやります!」と、様々な声が上がる。
凛は、それを優雅に手で制した。
「みんなは帰っていいわよ。藤原くんは優秀だから、明日の授業の準備を手伝ってもらうだけ。じゃあ、気をつけて帰ってね」
クラスメイトたちが教室から出ていき、二人きりになる。
「じゃあ藤原くん、行くわよ」
凛に催促され、大和は無言で後に続いた。
人気のない廊下を歩いていると、不意に、大和の方が足を止めて口を開いた。
「先生、一つだけいいですか」
「……なに?」
「そんなに、俺のこと信用できませんか? あと、今日の呼び出しは、俺への仕返しですよね」
「へ?」
またしても、凛は呆気に取られた。なぜ、この少年は、いつもこちらの意図を完璧に見抜いてくるのか。
「わかってますよ。昨日の『おばさん』発言とか、『イタイ』とか、先生を怒らせてしまったことなら謝ります。秘密も、絶対に漏らしませんから」
大和の真っ直ぐな言葉に、凛は思わずたじろいだ。
「そ、そんなんじゃないわよ!」
図星だった。今までの行動も、この呼び出しも、すべては彼への当てつけ。
「なら、なんでです? 手伝いって、具体的に何をすればいいんですか」
「そ、それは……理由なんて、何もないわよ! いいから、黙ってついてきなさい!」
「……どうせ、手伝ってほしいことなんて、何もないんでしょ?」
またしても、図星。
(な、なんでわかるのよ!? この子、読心術でも使えるんじゃないの!?)
凛は、内心で激しく動揺していた。このままでは、また言いくるめられてしまう。何か、何か、主導権を握り返すための、起死回生の一手を……!
「――そ、そうよ! 藤原くん、あなたに、この学校を案内してもらうわ!」
「はぁ? なんでそんなことを、俺が」
「いいじゃない! この後どうせ、いつもの神社に行って、本でも読んでるつもりだったんでしょ?」
「うっ……」
「わたくし、赴任してきたばかりで、この学校のこと、まだ全然わからないのよー」
真っ赤な嘘だ。いつ正体がバレそうになっても逃げられるよう、夜中に狐の姿で忍び込み、校内の構造はすべて把握済みである。
「……一人で勝手に見て回ればいいじゃないですか」
「まあ、ひどい! 先生、そんなこと言われると、悲しくなっちゃうなー」
「……いい加減にしてください。俺だって、怒りますよ」
「少しの間だから! ね? デートだと思って! この私と、二人っきりの校内デートよ? 光栄に思いなさいな。……よろしくね? 大和くん」
最後の切り札とばかりに、名前で呼び、上目遣いで小首を傾げる。
大和は、天を仰ぐように、長くて深いため息をついた。
「…………はぁ。わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「ほんと!? やったぁ!」
凛は、それまでの動揺が嘘だったかのように、ぱっと表情を輝かせた。
「よろしくね」
その、心底嬉しそうな、子供のような笑顔に、大和は毒気を抜かれてしまうのだった。




