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放課後、君は月夜に啼く  作者: 藤風大地


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第3章 凛のイタズラ(中編)

――これは、戦争だ。

藤原大和がそう確信した日から、数日が過ぎた。

意外にも、凛からの直接的な攻撃は鳴りを潜めていた。授業中は、以前のように完璧な教師を演じ、大和を指名することも、挑戦的な視線を送ってくることもない。

だが、大和は知っていた。これは嵐の前の静けさに過ぎない、と。

その予感は、授業と授業の合間の、わずか十分間の休み時間に的中した。

次の授業の教室へ移動するため、大和は一人、廊下を歩いていた。多くの生徒で賑わう中央階段は避け、比較的、人の少ない西階段へと向かう。

階段を降りようと、踊り場に差し掛かった、その時だった。

上から、タタタッ、と慌ただしいヒールの音が聞こえてくる。そして、その音の主は、大和の目の前で、見え見えのタイミングでバランスを崩した。

「――きゃあっ!」

小さな、しかし完璧に計算された、助けを求める悲鳴。

大量のプリント用紙が、まるでスローモーションのように宙を舞う。そして、その中心で、琥珀凛が大きく身体を傾け、今にも階段を転げ落ちんとしていた。

その瞳は大きく見開かれ、助けを求めるように、真っ直ぐに大和を捉えている。

(……始まった)

大和の脳内は、驚くほど冷静だった。

普通の男子高校生ならば、憧れの美人教師の危機に、脊髄反射で駆け寄ってその身体を支えるだろう。そして、腕の中に収まった彼女の柔らかさや良い香りに、ドキマギしてしまうに違いない。

凛が狙っているのは、間違いなくそれだ。

だが、大和の脳裏に浮かんだのは、別の光景だった。

(……あの夜、神社の境内を、閃光のような速度で移動していたのは、どこのどなたでしたっけ?)

500年以上を生きてきた大妖狐。その身体能力は、人間の比ではないはずだ。

こんな、わずか十数段の階段から落ちたくらいで、怪我などするはずもない。そもそも、本当に落ちる気があるのかすら怪しい。

大和は、助けを求める凛の瞳を、凪いだ目で見つめ返した。

そして。

――すっ。

何も言わず、何のリアクションも起こさず、ただ、ひらり、と舞い散るプリント用紙を避けるように、身をかわした。

そして、そのまま、何事もなかったかのように、階段を一段、また一段と降りていく。

「…………え?」

凛は、傾いた体勢のまま、固まった。

去っていく大和の背中を、信じられないものを見るような目で見つめている。

(う、嘘でしょ!? 無視!? この私が、目の前で、こんな可憐に、助けを求めているというのに!?)

あまりの想定外の事態に、一瞬、本気でバランスを崩しかけた。

が、そこはさすが大妖狐。

とんっ、と猫のようにしなやかに、寸でのところで体勢を立て直すと、何事もなかったかのように、すっと背筋を伸ばした。

そして、顔を真っ赤にしながら、猛然と大和の後を追いかけた。

「ふ、藤原くんっ!」

「……はい、なんでしょうか」

階段の途中で追いつかれ、大和は面倒くさそうに振り返る。

凛は、怒りを必死に抑え込み、完璧な教師の笑顔を貼り付けた。

「あなた、今、先生が大変なことになりそうだったの、見ていたわよね? なぜ、助けてくれなかったのかしら?」

「はあ」

大和は、心底不思議そうな顔で、首を傾げた。

「先生、妖狐なんですよね? それくらい、余裕で対処できるじゃないですか」

「…………っ!」

正論。

あまりにも、身も蓋もない、完璧な正論だった。

凛は、ぐっと言葉に詰まり、わなわなと肩を震わせる。

「そ、そういう問題では……!」と何かを言い返そうとしたが、その時にはもう、大和は「では、失礼します」と軽く会釈をし、再び階段を降り始めていた。

一人、踊り場に残された凛は、怒りのあまり、拾い集めたプリントの束を、くしゃりと握りしめていた。

(……あの朴念仁……! 次こそは、次こそは、絶対にぎゃふんと言わせてやるんだから……!)


階段での一件以来、凛のイタズラは、より巧妙かつ陰湿なものへと進化していた。

藤原大和は、もはや平穏な学校生活など、遠い昔の記憶になりつつあることを実感していた。

その日、大和たちのクラスは、担当教師の出張により、図書室での自習となっていた。

監督として、そこに座っていたのは――言うまでもなく、琥珀凛だった。

司書教諭と談笑しながら、時折、生徒たちへと慈愛に満ちた視線を送る。その完璧な教師の仮面の裏で、新たな復讐計画が練られていることなど、大和以外に知る者はいない。

(……来る)

大和は、参考書に視線を落としながらも、全神経を背後に向けていた。

静寂に包まれた図書室。ここぞとばかりに、何かを仕掛けてくるに違いなかった。

――カツン。

予感は的中した。

シャーペンの芯が折れた。替えの芯を出そうと、大和がペンケースに手を伸ばした、その時だった。

(……あれ?)

いつもそこにあるはずの、ペンケースがない。

机の上にも、椅子の上にも、足元にもない。ほんの数秒前まで、確かにそこにあったはずなのに。

大和は、ぴたりと動きを止めた。

そして、ゆっくりと顔を上げ、監督教師が座るカウンター席へと視線を向ける。

凛は、優雅に本を読んでいた。だが、その口元が、ほんのわずかに、愉悦の笑みを浮かべているのを、大和は見逃さなかった。

(……なるほど。妖術、か)

物理的な接触も、言葉も使わず、ただ念じるだけで物を隠す。姑息だが、証拠が一切残らない、実に厄介な攻撃だった。

普通の生徒なら、ここで慌てて探し始め、見つからずに困惑するだろう。凛が狙っているのは、その姿に違いない。

だが、大和は動かなかった。

彼は、静かに息を吐くと、おもむろに隣の席の健太の肩を、ペン先でつんつんと突いた。

「ん? どうした、大和」

「悪い、ペンケースを忘れた。シャーペン、一本貸してくれないか」

「おー、いいぜ」

健太は、何の疑いもなく、自分のペンケースから一本のシャーペンを抜き、大和へと手渡した。

「サンキュ」

大和は、それを受け取ると、再び何事もなかったかのように、自習へと戻った。

「…………」

カウンター席で、凛の肩が、ぴくりと震えた。

本を読んでいたはずの彼女の指先に、ぐっと力が籠もっている。

(……やるじゃない)

凛は、内心で舌打ちした。

だが、まだだ。まだ、終わってはいない。

凛は、すっと目を細め、さらなる追撃を仕掛けた。

数分後。

大和は、参考書のページをめくろうとして、指を止めた。

(……今度は、参考書か)

次のページが、まるで強力な糊で貼り付けられたかのように、びくともしない。

これも、彼女の仕業だろう。

大和は、もう一度、深く、深呼吸をした。

そして、またしても、隣の健太の肩を突いた。

「なんだよ、また」

「悪い、健太。その参考書、同じやつだよな。次のページ、ちょっと見せてくれないか」

「ん? おう、いいけどよ」

健太は、少し不思議そうな顔をしながらも、自分の参考書を開いて、大和の方へと向けてくれた。

「助かる」

大和は、健太の参考書を覗き込みながら、再び、何事もなかったかのように、自分のノートに数式を書き連ねていく。

――ピキッ。

カウンター席の方から、何かが軋むような音が、微かに聞こえた。

凛が読んでいたはずの本が、哀れなほどに歪んでいる。

彼女のイタズラは、すべて、大和の「他力本願」という、予想外の対応によって、完璧に無力化されていた。

もはや、怒りを通り越して、呆れさえ感じる。

(……もう、いいわ)

凛は、すべての計画を放棄した。

自習終了のチャイムが鳴り響くと同時に、大和のペンケースと、開かなかった参考書のページは、何事もなかったかのように、元に戻っていた。

教室へと戻る廊下。

大和の後ろから、わざとらしく大きな足音を立てて、凛が追いついてきた。

「藤原くん」

「はい」

「あなた、少しは自分で解決しようという、自主性はないのかしら」

その声は、怒りで震えていた。

大和は、きょとんとした顔で振り返る。

「……何のことです? 俺は、問題が起きた時に、最も合理的で、効率的な解決策を選んだだけですが」

その、あまりにも真っ直ぐな瞳。

悪意も、皮肉も、そこにはない。ただ、事実だけが、淡々と述べられていた。

「…………っ!」

凛は、何も言い返せなかった。

三度目の正直。それは、彼女の心が、ぽっきりと折れる音だったのかもしれない。

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