第3章 凛のイタズラ(前編)
昼休みが終わりを告げ、午後の授業が始まる。
藤原大和は、自分の席に戻りながら、重い息を吐いた。中庭での一件以来、頭の中はさらに混乱を極めていた。脅したり、すり寄ってきたり、かと思えば、一人でむせていたり。琥珀凛という教師は、あまりにも多面的すぎて、捉えどころがない。
ただ一つ確かなのは、彼女が自分を「ロックオン」しているという事実だけ。
やがて、授業開始のチャイムが鳴り響く。
しかし、担当の教師がなかなか現れない。教室がざわつき始めた、その時だった。
クラスの担任が、少し申し訳なさそうな顔で教室に入ってきた。
「えー、みんなに連絡だ。実は、午後の授業を担当する予定だった佐藤先生が、急な体調不良で早退することになった。そこで、急遽、副担任の琥珀先生に代講をお願いすることになった」
その言葉を聞いた瞬間、クラスのあちこちから、あからさまなブーイングが上がった。
「えー!また歴史かよ!」
「午前中もやったばっかなのに!」
「さすがに勘弁してくれ…」
その、うんざりとした空気が充満する教室に、入れ替わるようにして、彼女は現れた。
「――というわけなので、皆さん、もう一時間お付き合いくださいね」
にこり、と完璧な笑顔を浮かべた琥珀凛。
だが、その内心は、降って湧いた幸運に歓喜の声を上げていた。
(ふふっ……神は、私に味方したようね)
.
昼休みに、あの生意気な小僧にしてやられた、屈辱的な敗北。だが、まさか、こんなにも早くリベンジのチャンスが巡ってくるとは。
(見てなさい、藤原くん。今度こそ、教師と生徒の絶対的な力の差を、その生意気な頭に叩き込んであげるわ)
彼女の瞳の奥が、獲物を見つけた捕食者のように、爛々と輝いた。
「では、授業を始めます」
凛が教壇に立ち、凛とした声を響かせる。
その掛け声と同時に、午後の授業が始まった。教科は、またしても彼女の専門である歴史。もはや、戦場に赴く兵士のような気分だった。
凛は、淡々と教科書を読み上げ、黒板に文字を連ねていく。その所作はどこまでも優雅で、知性に満ちていた。生徒たちも、彼女の話術に引き込まれ、真剣な眼差しで授業に集中している。
だが、大和だけは違った。
授業に集中しようとすればするほど、思考は別の方向へと逸れていく。昨夜の琥珀色の狐の姿、朝の空き教室での剣幕、そして、先ほどの中庭での情けないむせ顔。それらが代わる代わる脳裏に浮かんでは消え、全く内容が頭に入ってこない。
いつしか大和の視線は、窓の外を流れる雲へと向けられていた。心、ここに在らず。まさに、その言葉がぴったりの姿だった。
――その隙を、美しき妖狐が見逃すはずもなかった。
「――では、少し応用問題を出してみましょうか」
凛の声のトーンが、わずかに変わった。ねっとりとした、獲物を見つけた蛇のような響き。
そして、その毒牙が、真っ直ぐに大和へと向けられた。
「藤原くん」
クラス中の視線が、一斉に大和へと集まる。
ぼんやりとしていた大和は、名前を呼ばれて、はっと我に返った。
「はい」
「あなた、先ほどから少し上の空のようだけれど……授業、ちゃんと聞いていたかしら?」
その声は優しい。だが、瞳の奥は全く笑っていなかった。
にこり、と完璧な笑みを浮かべ、凛は追撃の一手を放つ。
「なら、この問題も、もちろん解けるわよね?」
彼女が教科書で指し示したのは、本文の横に、小さな文字で書かれたコラムの、さらに隅にある発展的な内容だった。おそらく、授業では一切触れられていない箇所。
「この時代、中央の政権争いの裏で、この地方を治めていた豪族が、隣国とどのような密約を交わしていたか。その背景と共に、説明してみてちょうだい」
教室が、シン、と静まり返る。
それは、ただの高校生が答えられるレベルを、明らかに超えていた。クラスメイトたちが、「うわ、これは無理だろ……」「完全に先生に目をつけられてるな」と、同情的な視線を大和に向ける。
今度こそ、私の勝ち。
凛は、内心で勝利を確信した。あの朴念仁が、焦って、しどろもどろになる姿が目に浮かぶ。
しかし。
大和は、数秒間だけ黙って考え込むと、やがて、すっと顔を上げた。
その凪いだ瞳が、真っ直ぐに凛を射抜く。
「はい。それは、表向きは中央政府への恭順を示しつつ、裏では北の勢力と手を組み、独自の交易ルートを確保することで、中央の干渉を受けずに経済的自立を図るためのものでした。きっかけは、3年前に起きた……」
淀みない、完璧な回答。
それどころか、教科書には載っていない、さらに深い背景知識まで付け加えて。
教室は、今度は別の意味で静まり返った。同情は、驚嘆と尊敬へと変わっていた。
「…………」
凛は、笑顔のまま、固まっていた。
頭の中は、真っ白だった。
(な……なんで、答えられるのよ!? あそこは、大学の専門課程で習うような内容よ!? まさか、あの神社の古文書でも読み漁っているとでもいうの!?)
脚本も、筋書きも、すべてが台無しだった。
かろうじて、教師としての威厳を総動員し、ひきつりそうになる口元を必死に抑え込む。
「……せ、正解よ。素晴らしいわ、藤原くん」
ぱちぱち、とわざとらしく拍手をしてみせる。
「でも、答えられたからといって、授業に集中しなくていい理由にはならないわ。次からは、ちゃんと前を向いておくこと。いいわね?」
それが、彼女にできる、精一杯の反撃だった。
その後、凛が再び大和を指名することはなく、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「それでは、授業を終わりにします」
凛は、そそくさと教壇を後にする。その背中が、なんだか普段より小さく見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
残りの授業も、平凡な時間が過ぎていった。
だが、大和の心には、新たな確信が芽生えていた。
――これは、戦争だ、と。




