琥珀色の誤算
――ぽつん。
静まり返った中庭に、一人取り残される。
琥珀凛――否、月夜は、去っていく少年の背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
(…………負けた)
頭の中に、その二文字がはっきりと浮かび上がった。
完膚なきまでの、敗北。
脅しがダメなら、甘い罠で。ミステリアスな美貌の教師が、孤独な少年の心を優しく解きほぐす……はずだった。完璧なシナリオだったはずなのに。
――『その色仕掛けとも取れる脅しは、通じませんよ』
――『そのキャラ、やっぱりやめた方がいいです』
追い打ちをかけるように、脳内で彼の声が再生される。
色仕掛け。脅し。キャラ。
私の完璧な演技を、あの少年はすべて見抜き、そして、一刀両断してみせた。
まるで、大人の女性を相手にするかのような、冷静で、容赦のないあしらい方。あれが、本当にただの高校二年生の態度だろうか。
「……あいつめ……!」
じわじわと、悔しさが込み上げてくる。
それは、朝の空き教室で感じた怒りとは、また質の違う感情だった。
あの時は、妖としてのプライドを傷つけられたことへの怒り。だが、今は。
今は、一人の「女」として、彼の心を少しも揺さぶれなかったことへの、純粋な悔しさ。
(なんなのよ、一体……)
これまでの人間は、皆チョロかった。
男たちは、私の見た目にすぐさま心を奪われ、女たちは、私の完璧な外面に憧れと嫉妬を抱いた。コントロールするのは、赤子の手をひねるより簡単だった。
なのに、藤原大和だけは違う。
私の美貌も、妖としての威厳も、教師という立場も、彼にとっては、まるで意味をなさないかのようだ。彼は、そのすべてを飛び越えて、私の「素」の部分だけを、凪いだ瞳でじっと見つめてくる。
「いいわ。そっちがその気なら……覚えてなさいよ? この学校では、どちらが『先生』なのか、思い知らせてあげるんだから」
復讐を誓い、凛は自分の弁当からおにぎりを一つ取り出すと、腹いせのように大きな口で、がブリと頬張った。
こんな悔しい気持ちは、父に勘当されて以来かもしれない。
あの時も、私はただ、自分のありのままの姿を認めてほしかっただけなのに。
(んぐっ……!?)
思考に気を取られていたせいで、勢いよく頬張りすぎた米粒が、また変なところに入ってしまった。
「ごほっ! げほっ、ごほっ……!」
生理的な涙が、じわりと目に浮かぶ。
一人、中庭でむせ返りながら、凛は情けなさで死にそうだった。
脅しは「イタイ」と一蹴され、色仕掛けは「キャラ」だと見抜かれ、あげくの果てには、一人でおにぎりを喉に詰まらせて涙目になっている。
これが、五百年以上を生きてきた大妖狐の姿だろうか。いや、断じて違う。
だが。
ぜえぜえと息を整えながら、凛の口元に、ふと自嘲気味な笑みが浮かんだ。
(……ああ、そうか)
初めてなのかもしれない。
こんなにも、一人の人間に心をかき乱されるのは。
こんなにも、次のリアクションが楽しみで仕方がないと、心が躍るのは。
「……ふふっ」
悔しい。腹が立つ。
けれど、それ以上に、面白い。
「藤原大和……」
その名前を呟くだけで、退屈だった日常が、鮮やかに色づいていく気がした。
私の平穏を壊した罰として、あなたの平穏も、私がめちゃくちゃにしてあげる。
美しき妖狐は、涙の滲む瞳で、新たなる決意を固めるのだった。




