前日譚 伝説の語り
越後の国、その山深き地に、古より伝わる一つの御伽噺がある。
ここは、人ならざるもの――すなわち「あやかし」が、未だ息づく土地。鬱蒼と茂る木々は天を覆い、清冽な雪解け水は岩肌を削り、神々の通り道となる風が山々を渡る。この地において、人とあやかしは、かつて同じ陽の光を浴び、同じ月の影を踏んで生きていた。
中でも、この土地の守り神として、また、畏敬の対象として人々の傍らに在ったのが、狐の姿を取りしあやかし――妖狐の一族であった。
かの者らには、二つの大きな氏族が存在したと伝えられる。
一つは、『薄明』の一族。
雪を欺く純白の毛並みを持ち、知恵と慈愛に満ちたその一族は、人に豊穣を約束し、進むべき道を照らす希望の象徴であった。人々は薄明の妖狐を敬い、山の麓に社を建てては、その恩恵に感謝を捧げたという。彼らの存在は、人とあやかしの共存という、儚くも美しい時代の証そのものであった。
もう一つは、『朧夜』の一族。
闇夜に溶け込む漆黒の毛並みを持ち、その真意を容易には見せぬ謎めいた一族。彼らは薄明の一族のように人と交わることは少なく、ただ深き森の奥から、世界の理を静かに見つめていたと云う。人々は朧夜の妖狐を、畏れ、遠ざけた。
二つの氏族は互いに干渉することなく、それぞれの理に従い、永きに渡る静寂を保っていた。
人と、薄明の妖狐との間に結ばれた穏やかな契り。それは幾世代にもわたり、この地の礎となるはずであった。
――されど、その盟約が、血をもって破られる日が来る。
今を遡ること、およそ四百年。
人の心に芽生えた、一粒の猜疑心と、尽きることなき欲望が、その均衡を崩した。
妖狐の持つ不可思議な力を欲した者、人ならざるものを異端として排斥しようとした者。小さな亀裂は瞬く間に広がり、やがて、人とあやかしの双方を巻き込む、大きな争いの禍根となったのである。
山は燃え、天を焦がす炎は三日三晩消えることがなかったという。
血は川を染め、かつて作物を育んだ清流は、赤黒く濁って淀んだ。嘆きの声、憎しみの咆哮は天に木霊し、慈愛に満ちていたはずの山は、阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。
希望の象徴であったはずの薄明の一族は、人を守るため、そして同胞を守るために牙を剥いた。しかし、彼らが守ろうとしたはずの人間の裏切りによって、その多くが深手を負い、あるいは命を散らした。かつて感謝を捧げたはずの社は、人の手によって焼き払われ、神聖な地は無残に踏み荒らされた。
美しかった共存の記憶は、憎しみと悲しみの物語へと、一瞬にして塗り替えられてしまったのだ。
争いが終わり、後に残されたのは、決して交わることのない深い溝。
あやかしはその姿を隠し、人はあやかしを、ただ恐ろしいもの、忌むべきものとして、御伽噺の中に封じ込めた。
そして、勝者である人間は、自らの罪を覆い隠すように、歴史を歪めた。
いつしか、村の伝承はこう語られるようになった。
『災いは妖狐より、福を人間より』と。
だが、それは偽りの歴史。
焼き払われた社の跡、その片隅に辛うじて残された朽ちかけの文献には、真実が記されていた。
『災いは人間より、福は妖狐より』。すなわち、逆であった、と。
そして、かの文献は、一つの意味深き唄で締め括られている。争いの時代、誰かが未来を憂い、血と涙の中から紡ぎ出したであろう、祈りのような一節。
『妖狐は人間へ心抱き、人間は妖狐を救いしもの。 そして紡がれし運命も変わりし時』
それは、新たな時代の到来を告げる予言。
いつか、一人の妖狐が、種族の壁を越えて人間に恋心を抱き、そして、一人の人間が、その妖狐を過去の呪縛から解き放つ救い手となるであろう。
その二人が巡り合う時、四百年に渡って紡がれてきた憎しみの連鎖は断ち切られ、長き断絶の運命は終わりを告げる。そして、そこには全く新しい、誰も見たことのない理が生まれるのだ、と。
しかし、その唄も今や風化し、その真意を知る者は誰もいない。
かつての争いの記憶も、未来への願いも、すべては深い霧の奥。
ただ、山の麓に静かに鎮座する『御饌神』の社だけが、そのすべてを見てきたかのように、今も変わらずそこに在り続けている。
これは、忘れ去られた時代の記憶。
そして、これから紡がれる、一つの許されざる恋の物語。
四百年の時を経て、運命の歯車が、今、静かに動き出そうとしていた。
人とあやかし、教師と生徒という、二重の禁忌を越えていく、二人の恋の物語の、ほんの序章に過ぎないのである。




