<第六話>昇る煙 零れる雫
緊張が張り詰めた戦場に束の間の平穏が流れた翌日。再び日が昇ったルオット島は戦場としての自覚を取り戻していた。その中で、一隻の船が出港の準備を行っている。純白に塗られた船体を光らせるその船は赤十字を描いた煙突から黒煙を立ち昇らせている。
出港準備に勤しむ「氷川丸」では船の運航を司る船員たちが各部の最終確認を行っている。
「私たちも後から行くね」
ゆっくりと動き出した「氷川丸」の船上で氷川丸と青葉は暫しの別れを惜しんでいた。
「早く来なさいよ?」
「分かってるって。じゃ、気をつけてね」
正午、「氷川丸」は紺碧の海に白い航跡を描きながらルオットを後にした。燦々と日差しが照りつける海を「氷川丸」は往く。トビウオが「氷川丸」の起こす波に驚き、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。水面から姿を現したそれらは鰭を羽の様に広げ、水面すれすれの高さを滑空する。少しの間空気を捉えていたトビウオたちは、やがて海の中に姿を消した。
ルオットを出発した「氷川丸」は一月五日早朝、トラック諸島に到着した。トラックといえば言わずと知れた帝国海軍の重要拠点である。「氷川丸」が入港した時も、旗艦「鹿島」以下第四艦隊の艦艇が停泊していた。その中には「氷川丸」と入れ違う形でルオットを出た「夕張」たちの姿もあった。
威容を海上に現す艦艇たちの間に「氷川丸」が入り込む。灰色に身を包む彼女たちの中で「氷川丸」だけはその趣を異にしていた。もっとも、ここでは純白の「氷川丸」の方が景色に映える。コバルトブルーの海は底が見通せるほどに透き通り、白い珊瑚礁がそこに輝いている。その上に身を浮かべる「氷川丸」は、その美しい船体を数倍美しく輝かせていた。
錨を下ろしたところで、病院長以下士官たちが第四艦隊司令長官である井上成美中将に着任の挨拶をするため「鹿島」を訪ねた。彼らは井上中将への挨拶を済ませると夏島にある根拠地隊や海軍病院などを巡り、そこでも挨拶をして回った。その間、艦魂である氷川丸も「鹿島」の艦魂へ挨拶をしに行き、そこで労を労われた。
さて、港に停泊した時の楽しみといえば何と言っても上陸であろう。トラック諸島で一番大きな夏島には内地人が営む商店が存在し、兵士たちで賑わっている。「氷川丸」の乗組員たちにも休養と慰安のため上陸の許可が与えられた。しかし、一度に全員が上陸するわけにはいかないため、上陸するのは四分の一ずつと決められた。上陸は七日から始まり、上陸を許された兵たちは我先にと陸に上がり、後日に上陸を控えた兵たちも久しぶりの陸を楽しみにしていた。
◆ ◆ ◆
上陸が始まったその日の深夜。草木も眠る丑三つ時とはよく言ったもので、暗闇が支配する夜の海には一切の音がなく、時が止まったかのような錯覚さえ抱かせる。今宵はやけに明るい月の光が、島に灯る明かりを霞ませる。
舷窓の傍に置かれた一台のベッド。そこに横たわる兵士に月光が降り注いでいる。彼の命の灯火は、今正に燃え尽きようとしていた。舷窓の外に見える蒼い月よりもさらに蒼く、彼の顔は染まっている。そよ風の音にも掻き消されそうな細い息が病室の静寂に溶ける。
風前の灯の命となった彼の頭では、過去の出来事が走馬灯の様に流れていた。故郷で自分の帰りを待つ家族、生きる意味を教えてくれた恩師、日が暮れるまで共に遊んだ友達・・・・・・。様々な懐かしい顔が自分の前に現れ、過ぎ去っていく。そして、薄っすらとその瞳を開いた彼は、自分の傍らに立つ影に気づいた。
暗くてよく見えないが、その影の輪郭は細く、まるで少女のようだった。影が、一歩前に出る。部屋に流れ込む月光がその素顔を照らし出す。
それは、間違いなく少女だった。蒼白い光に照らされた純白の少女は彼の手に自分の手を重ねた。柔らかな指先の感触を通して彼女の温かさが伝わってくる。
「・・・・・・ごめんなさい」
申し訳無さそうな、悲しそうな表情で少女は言った。
何故この子は謝っているのだろうか。兵士は思った。だが、それを深く考える前に彼は少女の頬を伝う光るものに目を奪われた。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・」
涙を流しながら少女は謝る。白い頬を伝った雫が兵士の手に落ちる。
少女が謝る理由も、涙を流す理由も兵士には分からなかった。だが、それは問題にはならなかった。死に逝く自分のために涙を流してくれる人がいる。それだけで兵士は報われた気がした。
ありがとう―――心の中で呟くと、彼は目を閉じた。そして、二度と目覚める事はなかった。その死に顔は、とても安らかなものだった。
兵士を看取った氷川丸は彼の頬をそっと撫でると涙を拭い、病室を出た。蒼白い月の光だけが、変わらず部屋を照らしていた。
◆ ◆ ◆
日が昇る。力強い光が世界を照らし出す。人々の気持ちを清々しくする朝の光。だが、その光を受けてなお、「氷川丸」は重い空気に包まれていた。
デッキの上に居並ぶ人々は皆一様に沈んだ表情をしている。その理由は、彼らの前に安置された棺にある。
棺の中には、今朝亡くなった兵士が眠っている。彼はルオットで収容した海軍陸戦隊の兵士だった。銃弾に倒れ傷つきながらも、生き続けようとした兵士。しかしそれが叶う事はなかった。生きるために病床で戦い続けた彼は、今朝ついに力尽きた。病院船「氷川丸」での、初めての死亡者だった。
七時十分、告別式が行われた。乗組員の中で多少の心得を持つ者が式を取り仕切った。そして八時。煙突裏に造られた火葬場で、亡くなった兵士は荼毘に付された。この火葬場も、病院船への改装時に設置されたものである。火葬の受け持ちは機関科員となっている。石油バーナーの火を使い、遺体を焼く。それを行う彼らの胸中は如何ばかりだろうか。推して知るには余りある。
よく晴れたトラックの蒼穹に、一筋の煙が立ち昇っていく。それを見送る者たちは皆、一言も喋らない。全員が死んだかのような沈黙が支配するデッキの上で、常人には聞こえない泣き声が聞こえる。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
空に流れ消えていく煙を見つめながら涙を流す少女は何度も繰り返す。その顔にはやり切れない思いが浮かんでいた。
彼の最期を看取った時のように、氷川丸は泣いていた。瞳から頬にかけて、一本の線が跡を残している。
氷川丸が自らの船内で人の最期を看取ったのは、今回が初めてではない。貨客船であった頃も、それはあった。講道館の設立者である嘉納治五郎も、IOC総会で東京オリンピック招致に尽力した帰途、「氷川丸」船上で息を引き取った。
だが、過去のそれと現在のそれは話が違う。かつての彼女は貨客船であり、貨物や人を運ぶのが仕事であった。それに対して、今の彼女は病院船。人の生命を救うことが仕事である。それなのに、彼の生命を救うことができなかった。少女の小さな胸は、自責と贖罪の気持ちで張り裂けそうだった。収容した患者全員を救う事ができればそれに越したことはない。だが、現実はそうはいかない。頭では分かっているつもりでも、いざその事態に直面してみると、そう簡単に割り切れるものではなかった。
やがて煙が完全に消え、遺骨が取り出された。そして葬式は終わり、一人、また一人とその場を離れていった。
全てが終わった後も、氷川丸はそこに残っていた。焦点の定まっていない瞳が虚空を映す。その背中に、雄人は声をかけた。
「氷川丸」
一度呼んでも答えはなかった。二度目で氷川丸はゆっくりと振り向いた。
「雄人・・・さん」
蚊の鳴くような声で氷川丸は言った。耳に届いた音から声の主が誰なのかは分かっているようだが、まだその瞳は虚ろなままだった。
「氷川丸」
彼女の前に立った雄人はもう一度名を呼んだ。その手が氷川丸の頬に触れると、氷川丸は小さく震えた。
「涙、残ってるよ。拭いて」
雄人のハンカチが氷川丸の頬を拭う。頬に残された涙の跡が消えていく。
「・・・雄人さん・・・・・・私、助けられませんでした・・・。あの人の命を、救ってあげられませんでした・・・・・・」
氷川丸がぽつりぽつりと言う。そうする間にも、瞳の縁からぽたぽたと新たな雫が零れ落ちる。
「仕方がないよ。助けられなかったのは残念だけど、都合良く全員を助けられるとは限らない」
罪悪感に苛まれる氷川丸に雄人は慰めの言葉をかける。
「でも・・・私は、病院船です。傷ついた人を助けることが使命であるはずなのに、それができませんでした・・・。病院船、失格です・・・・・・」
涙を湛えた瞳が上目遣いで雄人を見る。思いつめたその表情に、雄人は何を言うべきか迷った。言葉を探しても、今の氷川丸の慰めになる言葉を雄人は持っていなかった。けれど、何もしないわけにはいかなかった。
すっ、―――と雄人の右手が伸びる。そしてそれは氷川丸の頭に乗った。自分に向かって迫る手に氷川丸は初め反射的に目を閉じたが、自分の頭を撫でる温かさに気がつき、目を開けた。
「ごめんね、氷川丸。僕は今の君にかけてあげられる言葉を持っていない・・・。だから、これくらいしかできない」
「雄人さん・・・・・・」
申し訳無さそうに言う雄人を氷川丸は見つめる。やがて、彼女はその口元を微かに緩めた。
「大丈夫です・・・これだけで、十分です」
小さな声で氷川丸は言った。しかしその声音は、先程までのように悲しみに暮れたものではなかった。
「雄人さんのおかげで、落ち着きました。ありがとうございます」
雄人と氷川丸はプロムナードデッキに設けられたベンチに座っていた。二人の手にはラムネが握られている。因みにこれは雄人が船内から持ってきた本物である。
「・・・先程は恥ずかしいところをお見せしました」
氷川丸が恥ずかしそうに言う。その顔は若干俯き、頬はほのかに赤く染まっている。
「そんな事ないよ」と雄人は否定の返事を返し、続ける。
「氷川丸は自分の任務を果たそうと努力している・・・誰よりもね。だから、助けられなかった事を凄く悔やんでいる。氷川丸は真面目だから、どこか気負い過ぎているところがあるんじゃないかな。もう少し肩の力を抜いても良いと思うよ」
雄人の言葉に氷川丸はこくりと頷く。そしてラムネを一口飲むと、思い出したように言った。
「そういえば、雄人さんの上陸は明日ですよね」
「うん。そうだよ」
「久しぶりの陸、楽しんできて下さいね」
「ありがとう。帰ってきたらお土産話を聞かせてあげるよ」
「それは楽しみです。期待してますよ」
氷川丸の顔に笑顔が戻ったことに雄人は内心で安堵の息をついた。ラムネを飲み終えた雄人は仕事に向かうため氷川丸と別れた。雄人を見送った氷川丸も、転移の光に包まれて自室へ戻る。
南国の風が一つ、船内から重い空気を掃き出すように強く吹いた。
氷川丸「夏の足音も近づいてきた今日この頃。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。『蒼海の天使』後書きコーナーの始まりです」
青葉「・・・・・・」
氷川丸「どうしたの?青葉」
青葉「・・・出番が少ない。どういうこと?」
作者「仕方ないさ。氷川丸はもうトラックにいるんだから。ルオットにいる青葉は出番がなくて当たり前」
青葉「え゛~。つまんなーい」
作者「因みに次回も出番なしね。そもそも、主役は氷川丸なんだから出番が少なくても文句言うな」
青葉「むぅ・・・」
氷川丸「それにしても、最近は暑いですね。作者さんの通ってる学校も夏休みが近いですし、そろそろ本格的な夏になりますね」
作者「そうそう。ようやく夏休みだよ。楽しみだなぁ」
氷川丸「夏休みで羽を伸ばすのも良いですけど、しっかり勉強もして下さいよ?この間の試験、散々な結果だったじゃないですか」
作者「うぐっ・・・。わ、分かっているさ」
青葉「大変だね~」
作者「それはさておき・・・夏といえば、いよいよ始まりましたね」
青葉「何が?」
作者「甲子園の県予選だよ。スポーツは苦手だけど、これは毎年見てる」
氷川丸「作者さんの高校はもう試合したんですか?」
作者「したよ。一回戦は勝った」
青葉「おお。やるねぇ」
作者「うちの高校はかつては県でも指折りの実力校だったらね。甲子園出場も一度や二度ではないし。老いたりとはいえ、まだまだ一回戦で負けられはしないよ」
氷川丸「このまま勝ち進んでくれるといいですね」
作者「うん。選手のみんながベストを尽くしてくれる事を祈る」
氷川丸「そうですね。では、この辺で」
作者「この作品を読んでくれる読者の皆様に心からの感謝を。次回もお楽しみに」
氷川丸「ご意見・ご感想、お待ちしてます」