<終章>受け継がれる意志
船首から空を見上げていた氷川丸は、後ろから近づく気配を感じて振り向いた。そこにいる人物に、氷川丸は穏やかな笑顔を向ける。
「お久しぶりです、雄人さん」
「ああ。久しぶり」
氷川丸の挨拶に、雄人は皺の浮かぶ口元を綻ばせて答える。右手で杖をつきながら、雄人は氷川丸の前までやって来た。
「元気にしてたか、氷川丸?」
「ええ。雄人さんも、お元気そうで何よりです」
時は平成。戦争によって焼け野原となった日本は、奇跡的な復興を遂げて再び世界に名を知られる存在になった。社会の中核は戦後に生まれた人々が担うようになり、戦争は遠い過去の出来事となっている。気づけば、雄人もすっかり年老いていた。
「ふふっ。雄人さんも、随分とお爺さんになっていしまいましたね」
かつてよくそうしたように、二人は連れ立って甲板を歩く。氷川丸は看護婦から客船の乗務員の姿に、雄人は青年から老爺に外見を変化させていたが、二人の間に流れる空気は七十年前と何ら変わる所が無かった。
「儂も今年で九一歳になる。早いものだ」
「そうですね・・・」
過去に思いを馳せるようにして、氷川丸は軽く空を仰ぐ。
「実は、雄人さんが来るまで昔の事を思い出していました」
「ほう」
興味を引かれた様子で雄人が相槌を打つ。
「初めて私たちが出会った時も、今日みたいな良い天気の日でした」
「そうだったな・・・」
「空は清々しく晴れているのに、雄人さんったら、あんまりにも暗い顔をしているものですから。今だから言えますけど、最初に見た時は、なんて根暗な人だろうって思いました」
「酷い言われようだな」
氷川丸の言葉に、雄人は苦笑する。
「それで、どこまで思い出していたんだ?」
「それは・・・」
ほんのりと頬を赤く染め、氷川丸は俯く。「どうした?」と雄人が尋ねると、氷川丸は恥ずかしながら答えた。
「終戦の後・・・私が、雄人さんに告白したところまで、です・・・」
「ハ、ハ、ハ」
答えを聞いた雄人は、肩を揺らして笑う。
「根暗と思った相手に対して、気づけば告白していたか。人生、何があるか分からんものだな」
「もうっ、からかわないで下さい!」
頬を膨らませた氷川丸は直後、何かを思いついた様子でにやりと笑った。
「でも、途中で雄人さんが来たことに気づいたので、雄人さんから返事を貰う直前で回想は止まってしまいました。だから、ここで続きをしてくれませんか?」
「なっ・・・」
思わぬ反撃に、雄人は狼狽する。そんな彼の反応を楽しみながら、氷川丸は「さあ、早く!」と急かす。
「私から先に言いますから、あの時と同じように答えて下さいね。話し方も昔通りですよ?」
氷川丸は雄人の正面に立つと、咳払いを一つし、それから真剣な表情で雄人を真っ直ぐに見つめた。
「・・・雄人さん、好きです。どうか、貴方の返事を聞かせて下さい」
始める前こそからかう調子の氷川丸だったが、想いを伝えるその姿勢は真摯そのものだった。かつて同じ言葉を紡いだ時と同じように、その心は一途に彼を想っている。そして、それを感じた雄人もまた、当時と同じく正面から彼女の想いを受け止めた。
「僕は・・・」
長いこと使っていない言葉遣いで話す事に対し、雄人は初め戸惑いを覚えたが、口を開くと自然と言葉が流れてきた。澱み無い調子で、雄人はかつてと同じ答えを返す。
「僕は、君が好きだ。氷川丸、君の事を愛している」
「ありがとう・・・ございます」
返事を聞いた氷川丸は涙を浮かべ、雄人の身体に両腕を回した。
「はは、何もここまで再現しなくても」
苦笑いする雄人に、氷川丸は首を横に振る。
「違います。雄人さんの返事を聞いたら、あの時の気持ちを思い出して、涙が止まらないんです」
雄人の胸に顔を埋め、氷川丸は涙をこぼす。雄人は、そんな彼女の頭を優しく撫でる。
やがて、気持ちを落ち着けた氷川丸が身体を離した時、二人の近くの空間に光が生まれ、一人の少女が姿を現した。
「こんにちは、お姉様! 出発のご挨拶に・・・って、あれ?」
甲板に降り立った少女は、雄人を見て首を傾げる。
「お姉様。そちらのお方はどなたですか?」
「日高雄人さん。私が病院船だった頃、この船に乗り組んでいた人よ」
「ああ、あなたが!」
答えを聞いた少女は驚いた様子で言い、それから姿勢を正して一礼した。
「申し遅れました。私は客船『飛鳥Ⅱ』の艦魂の飛鳥です。日高さんのことは、お姉様からお話を聞いています」
少女――飛鳥は、左手を差し出して握手を求める。その手を握り返しながら、雄人が言う。
「飛鳥というと、あのクルーズ客船か。前に一度、乗った事があるよ」
「本当ですか?」
「ああ。数年前、米寿の時にね。いい船だったよ。おかげで、素敵な船旅を楽しめた」
「ありがとうございます」
褒められた飛鳥は、若干照れた様子を見せて答える。
「お姉様のお話を聞いていて、一度お会いしたいと思っていましたが・・・既に乗船して頂けていたとは、光栄です」
「・・・光栄だなんて、それほど凄い人物ではないと思うが。氷川丸は、儂の事を君にどんな風に話しておるのかな?」
「お姉様は常々、日高さんのことを素敵な人だと話していますよ。優しくて、頼もしくて・・・」
「ちょっ・・・飛鳥、ストップ!」
すらすらと喋り出す飛鳥を、氷川丸が慌てて止める。
「今更いいじゃないか、氷川丸。何かやましい事を言っているわけでもあるまいし」
「良くないですよ! 目の前でそんな事を暴露されて、私が恥ずかしいじゃないですかっ」
語勢を強める氷川丸を見た雄人は、「仕方ないな」と大人しく引き下がる。ここで無理に押し切ろうとすると良くない事は、長年の付き合いからよく分かっていた。
追撃が収まった隙を見計らい、氷川丸は話題を逸らすため飛鳥に話しかける。
「ところで、飛鳥。さっき何か言いかけていたけど、どうかしたの?」
「あっ、そうでした!」
飛鳥ははっと気づいた様子を見せ、二人に対して姿勢を正す。
「これから世界一周クルーズに出発するので、挨拶をしに参りました」
「ほう。そうなのか」
「頑張ってね」
「はい!」
力強く頷いた飛鳥は、二人に対して直立体勢をとって言う。
「それでは、お姉様、日高さん。飛鳥、行って参ります」
「ええ。いってらっしゃい」
「気をつけてな」
「はい」
答えた飛鳥は次の瞬間、光を発して自船へ転移する。その直後、大きな汽笛の音が三度響いた。
雄人と氷川丸が振り向くと、「飛鳥Ⅱ」の巨大な船体が大桟橋を離れて動き出すところだった。出発の挨拶をするように、「飛鳥Ⅱ」は汽笛を鳴らす。それに応えるように、「氷川丸」も汽笛を返す。
「いってらっしゃーいっ! 気をつけてねーっ!」
舳先まで駆けていった氷川丸は、そこから身を乗り出すようにして叫ぶ。「飛鳥Ⅱ」は返事をするように汽笛をもう一度鳴らした。
「頼もしい後輩だな」
後ろから追ってきた雄人が言う。「ええ」と氷川丸は頷く。
「私のことを『お姉様』と呼んで、とても尊敬してくれています。お姉様のように、私も郵船の客船として恥ずかしくない働きをする、って」
「時代は変われど心は変わらず、か」
「はい。どれだけ時が流れても、二引きの社旗に込められた思いは同じです。私たち姉妹や仲間たちが、かつて胸に描いた想い。それは、あの子たちにしっかりと受け継がれています」
「それも、氷川丸のおかげだな」
「私・・・ですか?」
「ああ」雄人は頷く。
「戦前、太平洋の花形航路で活躍し、激しい戦火を掻い潜り、戦後は再び太平洋航路に返り咲く・・・。三つの時代を跨り海を渡ってきたこの船は、郵船の魂そのものといえる存在だ。飛鳥たちは、君からそれを感じているんだ」
雄人はそこで言葉を区切り、それから氷川丸を見つめて言った。
「これからもよろしく頼むぞ、氷川丸」
「・・・そんな、大袈裟すぎですよ」
苦笑した氷川丸は、「でも」と言葉を接いだ。
「私が役に立てる事があるのなら、頑張りたいと思います」
空を見上げ、氷川丸は言う。雄人もつられて、顔を上げた。
青い空では、白いカモメたちが踊るように飛んでいる。日の光を浴びて輝く白い翼が、出港する「飛鳥Ⅱ」と、それからかつての「氷川丸」に重なった。
優雅に舞うカモメの群を眺めながら、二人は過去と未来に思いを馳せる。二人は飽くこと無く、いつまでもいつまでも空を眺めていた――
作者「さて、前話と同一日の投稿という事で、後書きも前話からの続きです。
第三十話の後書きで予告した事と異なる展開となり、読者の皆様にはご迷惑をおかけしました」
氷川丸「本当ですよ。ともあれ、無事に物語の完結を迎える事ができて、良かったです」
青葉「そうだね。けっこう長い道のりだったよ」
氷川丸「最初に投稿されたのが一昨年の五月ですから、かれこれ二年間連載した事になりますね。それだけの間、続けてこられたのも読者の皆さんのお蔭です」
作者「全く、その通り。それじゃ、最後に一つ、恒例の方法でその感謝を伝えようか」
氷川丸「そうですね」
青葉「異議なーし!」
作者「それでは。二年間に渡りこの作品を読んで下さった読者の皆様に対し、心からの感謝を申し上げます。月に一度のゆっくりとした更新速度でしたが、ここまでこられたのは読者の皆様のお蔭です。本当にありがとうございました」
氷川丸「今後も時折、短編などを投稿する予定ですので、時々覗いてみて下さいね」
青葉「それじゃあ、これで。みんな、またね!」