<第三十一話>終戦、そして引揚げ
『朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ・・・』
昭和二十年八月十五日正午。「氷川丸」甲板では病院長以下の乗組員が整列してラジオから流れる声に耳を傾けていた。雑音混じりに聞こえてくるのは、天皇陛下のお言葉。終戦の詔であった。
音質の悪さと難解な言葉遣いにより、放送の内容を即座に理解する事は難しく、乗組員たちは放送が終わった後も暫し呆然とし、何が起こったのか分からない様子だった。しかし、理解が追いつくに従い、彼らの間にどよめきが広がっていった。
「うそ・・・」
そこかしこから動揺の声が聞こえる中、氷川丸はぽつりと呟く。
「日本が・・・負けた・・・?」
彼女の頭の中で、今し方流れたラジオの声が繰り返される。その言葉が意味する所を理解すればするほど、信じられない思いが込み上げてくる。
これは夢か現実か、答えを求めるように氷川丸は雄人を見やる。そこには、暗い表情で口を閉ざす雄人の姿があった。
(ああ・・・)
雄人の横顔を見つめながら、氷川丸は胸の内で呟く。
(これは、現実なんですね・・・)
一瞬前までの混乱が嘘のように、氷川丸の頭は冴えていた。いや、冷めていたと言った方が良いだろう。雄人の横顔から全てを悟った氷川丸は、その瞬間、周囲の物が急に浮き世離れして見えるようになった。まるで芝居を見るような、現実味を感じられない光景。しかし、これは紛れも無い現実だった。
昭和二十年八月十五日。日本は、太平洋戦争に敗北した。
◆ ◆ ◆
多くの国民にとって、日本の敗戦はまさに晴天の霹靂であった。日に日に切迫する生活を通して、戦況が新聞で報じられているほど良くない事には薄々感づいていたものの、こうも唐突にその時が訪れるとは思わなかった。そして、それは「氷川丸」の乗組員にとっても同じであった。
彼らの場合、各地で収容した傷病兵の様子から戦局の厳しい事はよく分かっていた。このままいけば日本は負けるだろうという、漠然とした予想もあった。しかし、それがいつになるかは予測がつかず、いざ実際にその事態に直面すると衝撃を受けずにはいられなかった。
ラジオ放送が終わり、解散となった後も多くの者はその場を動こうとしなかった。ある者は茫然自失となり、ある者は膝をついて咽び泣く。そんな彼らに対して、病院長は次命があるまでひとまず待機するよう命じた。
「氷川丸」が終戦の日を迎えた舞鶴の地では、敗戦に伴う目立った混乱は見られなかった。神奈川の厚木航空隊のように徹底抗戦を主張する動きもなく、粛々と戦後処理が進められた。
終戦から程なくして、陸海軍の兵士は召集を解除され、故郷に帰ることになった。舞鶴でも兵士の帰郷が始まり、駅では復員兵による連日の大混雑が見られた。しかし、いつまで経っても「氷川丸」の乗組員に復員命令はこなかった。
「私たち、これからどうなるんでしょうか・・・」
背嚢を担いで鎮守府を出ていく兵士を見送りながら、氷川丸が言う。終戦から一週間。氷川丸の心には焦燥と不安が日増しに募っていた。
「他の部隊の方々はもうとっくに召集を解除されているのに、私たちはいまだに待機命令・・・。いつになったら、復員できるんでしょう?」
不安を滲ませた声で氷川丸が問いかける。しかし、この問いは雄人にも答えようがなかった。
「分からない。士官の中には、自分たちは賠償として船と一緒にソ連に送られるんじゃないかと言ってる人もいるみたいだけど・・・」
「そんな!」
雄人の言葉に、氷川丸は悲鳴に近い声を上げる。
「嫌です! ソ連に送られたら、どんな酷い事をされるか・・・。そんな所へ、雄人さんを行かせたくありません!」
雄人の身体を強く抱き締め、氷川丸は訴える。そんな彼女を安心させるように、雄人は微笑する。
「大丈夫。根も葉も無い、ただの噂話だから。本当にそんな事にはならないよ」
「・・・だと、良いんですけど」
「多分、僕らにはまだやるべき事があるんだと思う。だから、職務を解かれずに残っているんだよ」
彼の言葉は、半ば自身の不安を鎮めるためでもあった。しかし、氷川丸は小さく頷くと彼に密着させていた身体を離した。
「そうですね」
ほんの少し湿った目尻を拭い、氷川丸は答える。
「私たちは、まだ必要とされているから、ここにいる。今日までずっと御奉公してきたんです。あと一仕事、頑張ります!」
「そうそう。その意気」
「もちろん、雄人さんも一緒ですよ」
雄人の手をとり、氷川丸が言う。
「分かってる。僕も、最初からそのつもりさ」
氷川丸の言葉に、雄人も笑顔で答える。不安が完全に晴れたわけではなかったが、後ろ向きになっても仕方が無い。それよりは、物事を前向きに捉える方がずっと良かった。
彼らの下に、待ちに待った海軍省からの命令が届けられたのは、そらから更に一週間後だった。
◆ ◆ ◆
二週間に渡って岸壁に留め置かれていた「氷川丸」に与えられた任務は、外地に残留する将兵の引揚げだった。出発前に高齢の召集兵は召集を解かれたが、雄人をはじめ多くの乗組員は軍籍に残ったままでいた。
「只今より、本船は南洋諸島に残る兵士の引揚業務に従事する」
全乗員の前で、病院長は命令書を携えて宣言した。
「戦争は終わったが、各地にはまだ大勢の友軍将兵が取り残されている。もちろん、その中には傷病兵もいる。病院船として、いや、それ以前に同胞として、彼らを見捨てるわけにはいかない。仲間が故郷に帰る中、自分たちだけ復員できないのは辛いだろう。だが、その仲間のためだ。今暫く、諸君の力を貸して欲しい」
そう言って、病院長は頭を下げた。断る者は、誰一人としていなかった。
「雄人さんの言った通り、まだやるべき事がありましたね」
解散後、自室に戻る道中で氷川丸が雄人に話しかけた。
「ひとまずは、ソ連に引き渡されずに済んで良かったです」
「はは、違いない」
氷川丸の冗談めかした言葉に雄人が笑う。
「客船に戻れるのはもう暫く先になっちゃうけど、一緒にあと一頑張りしてくれる?」
「いいえ、なんて言うと思いますか?」
雄人の問いに、氷川丸は微笑を浮かべて答える。
「雄人さんが一緒なら、どんな事だって平気です。断る理由なんて、どこにもありません。もし、雄人さんが私が断るかも知れないと思っていたのなら、それこそ怒りますよ?」
「思ってないよ。そう言ってくれると信じてた」
「ならいいです」
満足気な表情で氷川丸は頷く。
「生き残った大型客船は、私だけですから・・・。やるべき事は、たくさんあります」
力強い口調で言い、氷川丸は瞳に決意の色を浮かべる。
戦前、日本の商船隊は二五〇〇隻、計六四〇万トンを保有し、米英に次ぐ世界第三位の地位についていた。しかし、終戦時に健在だったものは八七〇隻、一五〇万トンにすぎなかった。しかも、その七割は粗悪な戦時標準船であり、通常の航海にすら堪えられない状態のものが少なくなかった。
「氷川丸」の所有者である日本郵船に限っていえば、残存船舶は僅か三七隻。かつて世界各地に航路を持ち、多くの豪華客船を走らせてきた会社とは思えない惨状だった。その中で外洋航行が可能な船は、「氷川丸」ただ一隻のみ。彼女はまた、日本商船隊に唯一残された一万トン級の大型客船でもあった。
彼女にかけられた期待は大きかった。戦争中、「氷川丸」は病院船として前線の兵士から希望の眼差しを送られていたが、今やそれは日本全体からとなっていた。直ちに行動可能で医療設備も充実している「氷川丸」は、復員輸送にうってつけの船といえた。
命令を受けた「氷川丸」は、急務となっていたエンジンの修理を済ませると、九月十五日に舞鶴を出港した。病院船の設備を維持している彼女は、特に疫病や飢餓が蔓延する地域へ優先的に派遣され、初回はマーシャル諸島のミレ島から二千人の復員兵を回収した。
ミレ島は米軍のマーシャル諸島占領後、敵中で孤立し酷い食糧不足に陥っていた。上層部は無線によってその事実を把握していたため、急ぎ「氷川丸」をミレへ送ったのである。
船側にも、ミレ島が深刻な飢餓状態にある事は伝えられていた。そのため、副官は大量の果物を買い込み船倉に収めた。無論、これは命令には無い行動であり、現場の判断による彼の独断専行であった。しかし、彼のこの行動は功を奏し、栄養失調の患者たちを回復させる上で大いに役立つ事になった。ちなみに、果物は「氷川丸」が南方から安く仕入れた砂糖と物々交換で手に入れた。
ガダルカナルの戦いを彷彿とさせる痩せた兵士たちを乗せ、「氷川丸」は十月七日に浦賀へ帰港した。これは、浦賀に入港した最初の引揚げ船であり、岸壁では大勢の人々が小さな日の丸を振って出迎えた。
その後も、「氷川丸」は医療設備の充実した復員船として、東奔西走の活躍をする事になる。マーシャル諸島を筆頭に、ニューギニア、ソロモン諸島など、見覚えのある島々を「氷川丸」は巡っていった。どこか懐かしささえ感じる場所ばかりだが、そんな悠長な事は言っていられなかった。彼女が派遣される場所は、どこも火急の対応が必要な飢餓島だったからである。
ミレ島と同様、補給の途絶した島々の兵士は目も当てられないほどに痩せこけていた。骨と皮だけといっても過言では無い彼らの身体からは、必要最低限の筋肉さえも残っていなかった。収容した患者の中には、僅か数十センチの段差を乗り越えられない者もいた。
当然、日本に帰るまでに力尽きてしまう患者もあり、煙突裏の火葬場からは相変わらず煙が立ち上っていた。長い戦争の末に待ち望んだ帰郷の目前で亡くなる患者の無念を思うと、見送る者たちもやるせない気持ちを感じた。
戦争は終わったものの、「氷川丸」は病院船時代と変わらぬ日々を送っていた。敵の動きを警戒する必要が無くなった分、少しは気が楽になっていたが、患者を看取る辛さは変わらなかった。
「氷川丸」が呉に入港したのは、その最中の事だった。
◆ ◆ ◆
梅雨が木々の葉を湿らす頃。「氷川丸」は、久方振りに呉を訪れた。戦争後期に訪れて以来、約二年間彼女はこの地に錨を下ろした事は無かった。
日本一長かったと言われるあの夏の日から、もうじき一年。しかし、各地に刻まれた傷跡は未だ癒えていなかった。
呉は、その中でも特に爪痕の深い場所の一つだった。港内を見回せば、その理由がすぐに分かる。
そこは、帝国海軍の墓場だった。かつてその名を世界に轟かせた連合艦隊、その亡骸ともいうべき物が、そこにはあった。戦艦、空母、巡洋艦――在りし日の栄光を飾った艨艟たちが、静かに横たわっている。それは、廃墟となった古い城郭の如き静かな、しかし物寂しい光景だった。
南方から患者を連れて帰ってきた「氷川丸」は、その合間を縫って桟橋に接岸した。入港作業の完了を確認すると、氷川丸は港内の様子を見るためデッキに出た。
港内には、行動不能となった艦艇の姿が数多く見られた。彼女らの大半は、昭和二十年七月の呉軍港大空襲で大破着底したものだった。当時、呉には戦艦や空母をはじめとした残存艦艇が停泊していたが、資源の枯渇した日本は彼女らを動かすだけの重油も持っていなかった。そこへ、米艦載機が大規模な攻撃を仕掛けたのである。
浮き砲台となり下がった彼女たちはしかし、押し寄せる敵機の群を相手に一歩も引かなかった。回避行動を何一つとる事ができない中、各艦は猛烈な対空射撃を行い応戦した。だが、多勢に無勢。動けない彼女たちは次々に被弾し、戦闘力を喪失していった。
二日に渡る空襲の結果、僅かに残っていた日本の海上兵力は壊滅した。戦艦「榛名」、「伊勢」、「日向」は大破着底、空母「天城」は浸水し転覆。空襲を生き延びた大型艦は、空母「葛城」のみだった。
数多の艦艇の墓場となった軍港を、氷川丸は見つめる。港内は水深が浅いため、大破した艦も完全には沈没せず、艦橋などの上部構造物を海面に覗かせている。それが、見る者に対して余計に痛ましい印象を与えていた。
そんな中、氷川丸はふとある艦に目をとめた。氷川丸はその艦をよく見ようと目を細めた。
それは、一隻の巡洋艦だった。浸水によって艦体は右舷へ傾斜し、艦尾は完全に水没している。艦橋も損傷し、他にも艦の至る所に被弾の跡が残っていた。
巡洋艦は、艦影を見分けるのも困難なほどの損害を被っていた。しかし、氷川丸は即座にその艦の名を言い当てる事ができた。何故なら、その艦は彼女にとって一番馴染みのある軍艦だったからである。
「青葉!」
氷川丸は叫ぶと同時に「青葉」の艦上へ転移する。そして、主砲塔に背を預けて座り込む人影を見つけた。
「青葉、大丈夫!?」
氷川丸が駆け寄ると、青葉は閉じていた瞳を僅かに開いた。
「氷川丸か・・・。はは、久しぶりだね」
青葉の声は、消え入りそうなほど小さなものだった。これが、常に元気が有り余る様子でいた青葉の声だとは、とても信じられなかった。
「あんまり、大丈夫じゃないね・・・。両足はもう感覚がないし、右腕も上がらない。まともに動かせるのは、左腕と口くらいだよ」
「・・・・・・」
青葉の言葉を、氷川丸は悲痛な面持ちで聞く。口を噤む彼女の前には、満身創痍の青葉の姿があった。
彼女の身体には大小無数の傷が刻まれており、出血は彼女の軍服を赤黒く染めていた。特に両足の怪我は酷く、左右の足は骨折し、適切な治療が施されなかった傷口は化膿し腫れ上がっていた。力無く下がった右腕にも深い刃創が幾つもあった。
正直に言って、手の施しようが無かった。氷川丸は最初、可能ならば青葉の手当も行おうと思っていたが、とてもそんな事はできそうになかった。気休めの包帯を巻こうにも、どこから巻けばいいか分からない状態であった。
「・・・ごめんね。氷川丸」
不意に、青葉が口を開いた。心当たりが思いつかず、氷川丸は問い返す。
「どうして、青葉が謝るの?」
「聞いたよ・・・氷川丸の妹たちのこと。絶対に手出しはさせないって大見得切ったくせに・・・まったく、ザマ無いよね・・・」
そう言って、青葉は自嘲気味に笑う。力無い笑みだった。
「・・・そうだ。氷川丸に、これ、あげるよ」
ふと思いついた様子で、青葉は自身の額に手を伸ばす。青葉は前髪を留めるヘアピンを外すと、氷川丸にそれを手渡した。
「こんなものしか無いけど、私の形見ってことで。あげる」
「そんな・・・形見だなんて――」
縁起でもない、と言おうとした氷川丸を遮り、青葉が言う。
「私ね、もうじき解体されるんだ。この間、業者が下見に来てた」
青葉の告白に、氷川丸は息を呑む。しかし、これはある程度予想がついていた事でもあった。戦争に敗れ、一切の戦力の保持を禁じられた日本には、もはや軍艦は必要ない。「青葉」の辿る道は、決まっていた。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。人生に別れはつきものなんだからさ」
「そう・・・だけど・・・」
声を詰まらせる氷川丸に、青葉は優しく笑いかける。
「ねぇ、氷川丸。私は、氷川丸と出会えて本当に良かったよ。氷川丸と過ごす時間は楽しかったし、私に力をくれた。何度も死にかけて、ボロボロになっても戦い続けることができたのは、氷川丸のおかげだよ。護りたいものがあったから・・・。だから、悲しい顔でお別れするのは、嫌だな・・・」
「うん・・・」
氷川丸は頷くと、目の縁に浮かんだ涙を拭った。
「ありがとう、青葉。私や妹たちのために戦ってくれて。私も、青葉と友達になれて本当に良かった。貴女の事は、決して忘れないわ」
膝を屈め、氷川丸は青葉のことを抱き締める。もはや満足に身体を動かす事も叶わない青葉は、しかし、唯一動かせる左腕で氷川丸を抱き返した。
「・・・それじゃあ、行くね」
暫し抱き合った後、氷川丸はゆっくりと立ち上がった。それを、青葉が呼び止める。
「待って、氷川丸」
「なに?」と首を傾げる氷川丸に、青葉は話を切り出す。
「最後に一つだけ、質問していいかな」
「いいけど・・・どうしたの、急に改まって?」
突然神妙な面持ちを作った青葉を、氷川丸は訝しげに見る。しかし、青葉は彼女の言葉には答えず、自分の問いを口にした。
「・・・氷川丸は、日高上曹のこと、どう思ってるの?」
海風が二人の間を吹き抜ける。数秒が過ぎたあと、氷川丸は戸惑った様子で口を開いた。
「えっ・・・。ど、どうって・・・」
「言葉通りの意味だよ。氷川丸は、彼に対してどんな感情を抱いているのかってこと」
「私が、雄人さんに・・・」
胸に手を当て、氷川丸は自問する。その瞬間、言いようの無い感情が湧き上がり、彼女の胸を締め付けた。
「それは・・・」
そう言ったきり、氷川丸は黙り込む。頬に朱を差した彼女の顔を見た青葉は、くすりと笑って言った。
「答えたくなかったら、無理に答えなくていいよ。ただ、氷川丸には後悔してほしくないんだ。私みたいに」
青葉は揺れる海面に視線を転じると、そこにある見えない何かを透かし見るように目を細めた。
「私ね、好きな相手がいたんだ」
「えっ?」
唐突な告白に、氷川丸は驚きの声を上げる。青葉は海を見つめたまま言葉を続ける。
「そいつは、この艦の乗組員で砲術科の士官だった。融通は利かないけど、根は優しい奴だったよ」
「知らなかった・・・」
「そりゃ当然だよ。あいつがこの艦にやって来たのは、最後に氷川丸と会った後のことだったから」
答えた青葉は、何かを思い出したように小さく笑った。
「あいつは私とは正反対の真面目な奴だったから、最初の頃は仲が悪くてね・・・。会えば互いに悪口ばかり言ってたけど、そのうち、そいつの事が気になるようになってた。まったく、嫌よ嫌よも好きのうち、とはよく言ったもんだよ」
「・・・それで、青葉はどうしたの?」
心なしか緊張した風情の氷川丸が尋ねる。青葉は「もちろん、気持ちを伝えようとしたよ」と答え、それから「でもね」と続けた。
「いざ伝えようとすると、言葉が出なくてね。話があるって呼び出したは良いけれど、そこで固まっちゃって。笑っちゃうよね。普段はうるさいくらいに喋ってるのに、全然話せないんだよ。結局、そのまま失敗。その時は、また今度伝え直そうと思ってた。でも――」
そこで、青葉は顔を俯かせ、顔を悲痛に歪めた。
「その直後だったよ。呉に敵が大空襲を仕掛けて、彼はその戦闘で戦死した。想いを口にできないまま、私は彼と死に別れた。あの時、私が勇気を出していれば――どれだけ悔やんでも、悔やみ切れないよ」
「青葉・・・」
「だからね、氷川丸。私は、氷川丸に同じ思いをしてほしくないんだ。これは、本当に辛くて悲しいことだから・・・。想いを伝えるかどうかは、氷川丸次第だよ。悔いの残らない方法を選んで。私が伝えたいのは、それだけ」
語り終えた青葉は、一つ深い息をつくとそれきり沈黙した。衰弱した身体で長い話をしたために、疲れが出たようだった。
氷川丸は暫く考えを巡らせていたが、やがて口を開いた。
「青葉」
「ん・・・なに?」
ゆっくりとした動作で、青葉が顔を上げる。そんな彼女の黒い瞳を真っ直ぐ覗き込みながら、氷川丸は微笑した。
「ありがとう。おかげで、決心がついたわ」
「そっか。なら良かった」
笑みを浮かべた青葉に、氷川丸は今度こそ別れの言葉を伝える。
「それじゃあ、青葉・・・さようなら」
「うん・・・。さよなら、氷川丸。元気でね」
「・・・っ」
青葉が言った最後の一言に、氷川丸は涙をこぼしそうになるのを必死で堪える。間もなく解体される運命にある青葉に対して、同じ言葉を返す事はできない。今生の別れを告げる言葉に対し、どう返事をすれば良いか悩んだ末、氷川丸はこう答えた。
「ええ。私のこと、ちゃんと見守っててね」
笑顔で言った氷川丸に、青葉も満面の笑みを見せて答える。
「もちろん。任せといて」
青葉の返事を聞いた氷川丸は、一つ頷いて踵を返す。そして、二、三歩進んだところで光を発して姿を消した。
「・・・さよなら。氷川丸」
光の残滓が漂う艦上に、青葉の小さな声が響いた。
◆ ◆ ◆
自船に戻った氷川丸は、舷側の手摺に身体を預け、何事かを考えるようにじっと自分の手に視線を注いでいた。彼女の手の平には、青葉から手渡されたヘアピンがある。
氷川丸は暫くそれを見つめていたが、やがてそれを自身の前髪につけ、手鏡を出してそれを確認した。
氷川丸の額では、青葉の形をしたヘアピンが日差しを受けて光っている。しかし、長い三つ編みが特徴的な彼女の髪型において、やはりそれは若干の違和感があった。
だが、鏡を見つめる氷川丸はヘアピンを外す事なく、逆に三つ編みを解いて髪を長く下ろした。そして、鋏を取り出すと一息にそれを閃かせた。
軽い切断音が聞こえ、無数の黒い糸が宙に舞う。髪を大胆に切り落とした氷川丸は、改めて手鏡を見た。
鏡の中の彼女は、一瞬前とは大きく印象を異にしていた。艶やかな黒髪は随分と短くなり、肩にかかる程度となっている。髪型が変わったせいか、さっきは違和感を覚えたヘアピンも、今はむしろよく似合っていた。
大きく印象を変えた自分の顔を眺めた氷川丸は、満足気に一つ頷く。ちょうどその時、復員兵の下船作業を終えた雄人がその場へやって来た。
「ひ、氷川丸? 一体どうしたの?」
傍目にも明らかな変化に、雄人は驚きを隠せない。振り返った氷川丸は、彼の問いには答えずに言った。
「雄人さん。お話があります」
「話?」
「はい」
雄人の目を真っ直ぐ見つめ、氷川丸は頷く。その真剣な表情から話題の重要性を悟り、雄人も表情を改める。一瞬、緊張を含んだ間が流れたあと、氷川丸は口を開いた。
「あのっ」
しかし、一声発した氷川丸は、それきり黙り込んでしまう。伝えたい事はこんなにもはっきりとしているのに、いざ伝えようとすると、喉に栓が詰まったように声が出ない。氷川丸はどうにか言葉を続けようとするが、口を僅かに動かすだけだった。
「氷川丸・・・?」
これ以上、雄人と視線を交わしている事に耐えられず、氷川丸は顔を俯かせる。そのまま諦めかけた時、彼女の耳に青葉の声が響いた。
――悔いの残らない方法を選んで。私が伝えたいのは、それだけ。
氷川丸は、はっとしたように目を開き、顔を上げる。再び正面から雄人を見詰めた氷川丸は、一瞬声を詰まらせるも、意を決して話を切り出した。
「雄人さん」
「なに、氷川丸?」
「雄人さんは、私の事を、どう思っていますか?」
尋ねた氷川丸は、彼が反応を見せる前に言葉を続けた。
「私は、雄人さんの事が好きです。一人の男性として、貴方の事が好きです」
言い出す前はあれほど苦労していたというのに、一度口に出してしまえば、あとは意外なほどに簡単だった。溢れる感情のままに、氷川丸は言葉を紡いでいく。
「この想いを自覚したのは、つい最近の事です。でも、それは気づいていなかっただけで、私は最初から貴方に心を惹かれていたんだと思います。貴方が隣にいるだけで、心が安らいだ・・・危険な橋でも、貴方と一緒なら渡っていけた・・・貴方は間違いなく、私にとって特別な人です」
氷川丸はそこで一度言葉を区切る。痛いほどに高鳴っていた鼓動も、今ではすっかり鎮まっていた。
「けど、戦争が終わった今、いつまでこうして一緒にいられるか分かりません。いずれ、雄人さんは船を降りなければならなくなるでしょう。その時に、心残りを持ったままお別れしたくありません。雄人さん、好きです。どうか、貴方の返事を聞かせて下さい」
想いの限りを伝えた氷川丸は、そのまま雄人を見つめて返事を待った。彼の答えに対する不安は無かった。自分の想いを伝えた今、彼からどのような返事を貰ってもそれを素直に受け入れられる気がした。
静寂があった。一秒か、或いは十秒か、それとも一分か・・・。その静寂の後に、雄人は口を開いた。
「僕は――」
青葉「うわ……。すごい所で区切ったね」
氷川丸「もう少し上手いやり方はなかったんですか?」
作者「エピローグへの繋ぎの都合上、こうするしか……もちろん、こんな微妙な所で切ったままにするつもりは無いから、これを投稿した直後にエピローグも投稿するよ」
青葉「前回の後書きでは、あと少しで完結って言ってたのに……。それだと普通、あと数回はあると思うよ?」
氷川丸「つくづく、当てにならない作者さんですね」
作者「その点については、返す言葉もありません……」
氷川丸「まったくもう……。でも、ここで時間を潰すのは良くないので、今はここまでにしておきましょう。
恒例の謝辞は最後に纏めて行うので、ここでは割愛させて頂きます。それでは、読者の皆さんは引き続きエピローグをご覧下さい」