<第二十九話>機銃掃射
太平洋の戦局は、いよいよ末期の様相を呈してきていた。
トラック島の大空襲で多数の商船を失った日本は、輸送手段に甚大な被害を受け、戦争を続ける事さえも厳しい状況に陥りつつあった。三月三一日には、パラオから空路でフィリピンに向かった古賀峯一長官も消息を絶ち、暗い雰囲気に拍車をかけた。
対する米軍は、ますます攻撃の手を強めにかかり、六月十五には絶対国防圏の要であるマリアナ諸島に上陸した。これを予期していた大本営は「あ号作戦」を発動。タウイタウイ泊地に待機していた艦隊に出動を命じた。
日本海軍の主力は、完成後三ヶ月の新造空母「大鳳」を旗艦として新たに編成された第一機動艦隊。司令長官の小澤治三郎中将は、航空機の扱いに長けた提督である。
日米両軍は十九日から二十日にかけて、マリアナ沖で激突した。小澤長官は味方航空機の航続距離が敵に勝っている点に着目し、アウトレンジ戦法を採用。敵の攻撃が及ばぬ場所から一方的に攻撃を仕掛けようと試みた。
しかし、搭乗員の訓練不足や、レーダーを駆使した敵の強力な防空体制によって攻撃は失敗。逆に「翔鶴」をはじめ空母三隻を失う被害を受け、ミッドウェー海戦の二の舞とも言うべき敗北を喫した。重防御を謳われた「大鳳」も、敵潜水艦の雷撃を受けた際に漏れ出した気化ガソリンに引火、大爆発を起こし敢えない最期を遂げた。
虎の子の機動艦隊を破られた日本軍に打つ手は無く、守備隊の奮戦も空しくテニアン、サイパンが陥落。残ったグアムも八月十一日に米軍の手に落ちた。
勢いづく米軍は更に進撃し、十月十七日、遂にフィリピンのレイテ島に大規模な上陸作戦を敢行した。これに対して連合艦隊は「捷一号作戦」を発動。持てる兵力のほぼ全てを使い、最後の決戦に打って出た。しかし、乾坤一擲のレイテ沖海戦も敗北に終わり、戦艦「武蔵」をはじめ三十隻近い艦艇を失った連合艦隊は事実上壊滅した。
その日の夕方、大本営はフィリピン沖で海戦が行われた事を伝え、空母四隻、巡洋艦二隻、駆逐艦一隻を撃沈したと発表し、翌日以降その数字は更に増えた。発表を聞いた人々は開戦以来の大戦果に歓声を上げたが、しかし、実際の結果は上記の通りだった。そして、海戦後にフィリピンに派遣された「氷川丸」の乗組員は早速その事を知るのである。
◆ ◆ ◆
「氷川丸」が横須賀を出港したのは一月二六日だったが、その時すでにフィリピンの命運は風前の灯火となっていた。フィリピンでは開戦劈頭に「マレーの虎」と異名をとった山下奉文大将が防衛に当たっていたが、彼をもってしても米軍の勢いは止められず、十二月十六日にはレイテ島とサマール島が陥落、敵は更にミンドロ島とルソン島に上陸し、マニラの奪還を目指して進軍を開始した。
インドネシアを回って急ぎ「氷川丸」がマニラに入港した時、米軍は街の目前に迫っていた。頑強に抵抗を続ける日本軍に米軍は熾烈な空襲を加え、占領した島の飛行場から文字通り毎日の空爆を行った。爆撃の時間帯は毎日午前九時から十時にかけてで、「氷川丸」はそれを避けるため午前五時に港に入った。
米軍の上陸以来、「氷川丸」は幾度となくマニラを訪れていたが、そのたびに港内の様子は凄惨の度合を増していた。港の中は撃沈された商船のマストが所狭しと林立し、知らぬ者が見れば壮観とさえ感じるほどだった。もちろん、「氷川丸」の乗組員にそう感じる者は無く、船長は悲痛な気持ちを押し殺して沈没船の間を縫っていった。
甲板では接岸後、すぐさま患者の収容を開始できるように乗組員が大急ぎで準備を整えていた。医薬品の用意はもちろん、船倉から患者を下ろせるようデリックを使用可能な状態にするなど、やるべき事は沢山あった。
左右に慎重な転舵を繰り返しながら、「氷川丸」は港内を進んでいく。ブリッジで船長の操舵号令を聞く氷川丸は、目を瞑りたい衝動を堪えて外の様子を見つめていた。
船の左右に広がる無数のマスト。それと同数の船が、この海には沈んでいる。その姿に失った二人の妹が重なり、氷川丸は胸が張り裂けそうな気持ちになった。
沈没船の間を抜けて接岸した「氷川丸」は直ちに舷梯を渡して作業を開始した。まずは航海中に完治した患者が船を降り、次いで桟橋に集まった負傷者が続々と乗船してきた。
事前に準備を整えていた事もあり、患者の収容は滞り無く完了し、九時前になる前に出港準備を完了する事ができた。敵機が来る前に脱出しようと、「氷川丸」は急いで出港した。
「どうにか、間に合ったね」
マニラ湾を外洋に向かう船の中で、雄人が言った。一刻も早くマニラを離れるべく全力で作業に当たっていた雄人は、ようやく短い休憩を貰って氷川丸の部屋を訪れていたのだった。
「はい。これで一安心です」
雄人の言葉に氷川丸が頷く。敵機の来襲前に出港する事ができたからか、その顔には安堵の色が浮かんでいた。
「時刻はまだ八時過ぎですし、これなら十分、空襲を避けられそうです」
「うん。でも、機雷や潜水艦がいるかも知れないから、気をつけないと」
「そうですね・・・」
答えて、氷川丸は左の腕に手をやる。彼女の左腕には、真新しい包帯が巻かれていた。
マニラに入港する以前、「氷川丸」はシンガポールで開戦以来、三度目となる触雷を経験していた。十六ノットの比較的速いスピードで航行していたためか、機雷は船が通り過ぎた後に爆発し、被害は船の二重底に若干の浸水を生じた程度で済んだ。
損傷はセレター軍港ですぐに修理され、航行に支障が出る事は一切無かった。しかし、もし直撃していたらセレターに入る事さえできずに沈んでいたかも知れず、乗組員は肝を冷やした。
「まだ痛む?」
傷の具合を気にかける雄人に、氷川丸は首を横に振る。
「いいえ。元々、深い傷ではありませんし、もう大丈夫です。ですが、やっぱりあの痛みには慣れませんね・・・」
触雷した瞬間に感じた痛みを思い返し、氷川丸は微かに顔を歪める。
「普通はそうだよ。誰だって、痛いのは嫌いさ」
そう言った雄人は、ふと何かを見つけた様子で窓の外へ目をやった。
「どうかしましたか、雄人さん?」
同じように窓の外を覗いた氷川丸は、雄人の視線の先にあるものを見つけた。
「患者さん・・・ですか?」
部屋の外を通るプロムナードデッキに立つ人影を見て、氷川丸が呟く。
「でも、出港前に船長が危険だから外には出るなと言っていませんでしたか?」
「うん。だから、早く船内に連れ戻さないと」
雄人は立ち上がって扉を開ける。氷川丸も後に続き、二人はデッキに出た。
その患者は、デッキに一人佇み、ぼんやりと海を眺めていた。その表情は虚ろで、海面を見つめている筈の両目も焦点が合っていないように見える。
「すみません」と、雄人が患者に声をかける。
「現在、船長から甲板に出ないよう指示が出されています。今すぐ部屋に戻って下さい」
雄人が呼びかけるが、患者からの返事は無い。再度試してみるが、結果は同じだった。
「・・・聞こえていないんでしょうか?」
「恐らくね」
患者の表情を観察しながら、雄人が答える。
「この人の虚ろな表情。正気があるようには思えない。多分、神経病室の患者が少し目を離した隙に出て来てしまったんだと思う」
「だとしたら、なおのこと早く病室に連れて帰らないと――・・・っ!!」
話していた氷川丸が、急に言葉を止めて表情を固くする。雄人は何事かと問おうとするが、その前に氷川丸は声を上げた。
「雄人さんっ!」
突然の叫び声に、雄人は思わず一歩後ずさる。しかし、そんな彼の様子には目もくれず、氷川丸は空の一点を指さした。
「あそこ、敵機です!」
「なっ・・・!?」
絶句した雄人が視線を上げると、青い空を背景に飛ぶ、黒い機影が目に入った。偵察飛行中なのか、付近に他の機体の姿は見えない。雄人はすかさず、機影の判別を試みた。
日本軍機とは異なる、寸詰まりの太い胴体。以前、戦闘機乗りの患者から聞いた敵戦闘機の姿にそっくりだった。
「あれは・・・グラマン!」
記憶の糸を手繰り寄せ、雄人は敵機の名を叫ぶ。ちょうどその時、敵機が翼を翻した。
「まずいっ・・・!」
敵機の意図を察した雄人が声を発する。敵機の機首は、真っ直ぐに「氷川丸」を指向している。そして、翼の中に装備されている機関銃も――
「氷川丸、扉を開けて! 患者を連れて船の中に避難する!」
雄人の声を聞き、氷川丸は今し方自分たちが開いてきた扉に飛びつく。雄人は患者を伴って船内に駆け込もうとするが、ぼうっと突っ立ったままの患者を相手に苦戦する。その間に、敵機はもう目と鼻の先に迫っていた。
「くっ・・・!」
間に合わないと判断した雄人は、患者の上に被さるようにして身体を伏せる。その瞬間、敵機の翼が閃光を放った。
敵機――グラマンF6Fヘルキャットの主翼に装備された六挺の十二.七ミリ機銃が火炎を噴き上げる。六条の火線は「氷川丸」に突き刺さり、白い船体に火花を散らした。
「きゃっ!」
弾丸が船体を穿つと同時に、氷川丸の身体にも鎌風に切られたような傷が生じる。痛みに顔を歪ませ、氷川丸はその場に膝をつく。
一連射を浴びせかけてきた敵機は、それ以上の攻撃行動を行う事は無く、高度を上げて東の空へ去って行った。
「うっ・・・雄人さん、大丈夫ですか・・・」
痛みに呻きながらも、氷川丸は雄人の身を案じて振り返る。しかし、そこにあるものを見た彼女は色を失った。
「雄人さんっ!?」
悲鳴に近い声を出し、氷川丸は立ち上がる。彼女の視線の先には、デッキに倒れる雄人の姿があった。傷の痛みも忘れ、氷川丸は彼の隣に駆け寄る。
「雄人さん、しっかりして下さい!」
患者を庇うように倒れている雄人を、氷川丸が抱え起こす。足元の甲板には荒々しい弾痕が刻まれており、彼の頭からは鮮血が流れ出ていた。
「雄人さん! 答えて下さい、雄人さんっ!」
静けさが戻った船上に、氷川丸の悲痛な叫び声が響いた。
◆ ◆ ◆
雄人が目を開くと、そこは「氷川丸」の船室だった。ぼんやりとした視界に、見慣れた風景が映る。
「ここは・・・」
呟く雄人の耳に、少女の声が響いた。
「雄人さん!」
薄ぼけた視界の中で、一つの人影が動く。輪郭が鮮明になるにつれ、それは見知った少女の像を結んだ。
「氷川丸・・・」
雄人がその名を呟くと、氷川丸は安堵と喜びが合わさった表情を浮かべた。
「良かった・・・。雄人さん、気が付いたんですね」
心底安心した様子で、氷川丸は言う。対する雄人は未だ事情が飲み込めず、身体を起こそうとした所で鋭い頭痛に襲われた。
「――っ!!」
「駄目ですよ。まだ安静にしていないと」
顔を歪める雄人を、氷川丸がゆっくりと寝かしつける。
「掠っただけとはいえ、機銃の弾を受けたんですから。無理はいけません」
「機銃・・・?」
氷川丸の言葉を、雄人は繰り返す。ようやく覚醒してきた頭で、雄人は事の経緯を理解する。
「そうか・・・僕は、敵機の銃撃を受けて・・・」
「はい。患者さんを庇って伏せた時に、頭部を機銃弾が掠め、その衝撃で気を失ったんです。幸い、傷は浅かったので命に別状はありません」
「そうだったんだ・・・。この包帯は、氷川丸が?」
頭部に巻かれた包帯に触れ、雄人が尋ねる。
「ええ。転移でここまで運んで、手当しました。患者さんも病室まで連れていきましたから、安心して下さい」
「ありがとう、氷川丸。ところで、君自身は大丈夫なの? 船体が損傷したら艦魂も傷つく筈じゃ・・・」
気遣う雄人に、氷川丸は笑って答える。
「平気です。銃撃を受けたといっても、甲板や煙突に穴が空いたくらいですし。傷も大した事ありません」
それよりも、と氷川丸は雄人の手を握る。
「雄人さんは自分の心配をするべきです。本当に運が良かったんですよ? もう少し弾道がずれていたら、頭部に直撃していたんですから。そうしたら、今頃は・・・」
そこまで言った氷川丸は、言葉を詰まらせ、嗚咽を漏らし始めた。
「うっ・・・雄人さん・・・もう目を開かないんじゃないかと・・・本当に、心配・・・したんですよ。怖くて、不安で・・・胸が押し潰されそうで・・・。日枝丸と平安丸が死んで・・・雄人さんまでいなくなったら、私・・・」
ベッドの上の雄人に覆い被さるような姿勢で、氷川丸は彼の胸に顔を埋める。肩を震わせながら、氷川丸は溢れる感情を口にする。
「良かった・・・本当に良かったです・・・。雄人さん・・・」
「ごめんね、氷川丸。心配かけて・・・」
涙を流す氷川丸の頭を、雄人は優しく撫でる。雄人が目覚めた事で張り詰めていた気持ちが緩んだのか、氷川丸の涙はなかなか止まらなかった。
その後、「氷川丸」はこれ以上の事件に見舞われる事も無く、三月十日に佐世保に入港。千人近い入院患者を海軍病院に預けて今次の航海を終了した。
作者「何だかんだで、この作品も連載開始から二年が経ちました」
氷川丸「そして、またしても一か月に一度の更新目標を超過しましたね」
作者「うぐっ。申し訳ありません……。しかしですね、その代わりと言っては何ですが、一つお知らせがあります」
氷川丸「何ですか?」
作者「前回の後書きで触れたタイタニック号を題材とした作品。活動報告にも書きましたが、それを投稿しました」
青葉「おっ、実現したんだ。それ」
作者「連載の形を取っていますが、五話程度で完結の予定で、現在三話目まで投稿しています。更新頻度の目安は週一回です」
氷川丸「こちらよりも更新頻度が高いのが少し気になりますが……でも、まさかそちらに時間を割いていて更新が遅れたという訳ではないですよね」
作者「えっと、それは……」
青葉「図星だね」
氷川丸「はあ……まったく、仕方の無い人ですね。しっかりして下さい、作者さん」
作者「はい……」
氷川丸「それじゃあ、青葉。そろそろ終わりにしましょう」
青葉「りょーかいっ。この作品を読んでくれている読者のみんなに、心からの感謝を。いつもありがとう!」
氷川丸「ご意見、ご感想もお待ちしています」