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<第二十八話>トラック壊滅

 白い飛沫を上げて、波が砕ける。飛び散った飛沫は、日の光に照らされ眩い輝きを放つ。


 病院線「氷川丸」は、トラック諸島へ向けた航海の途上にあった。現在は、小笠原諸島の南方、マリアナ諸島との中間に位置する海域を航行している。


 紺碧の海をキャンバスに、純白の船が白いウェーキを描く。長く伸びる航跡が、船が高速で走っている事を示していた。


 海上の天気は良く、波も低い。頭上には雲一つ無く、一面の青空が広がっている。


 しかし、それとは対照的に、船首から水平線を見つめる氷川丸の表情は晴れなかった。


 手摺を強く握り締め、氷川丸は半ば身を乗り出すようにして船の進む先を見る。その表情は、晴れやかな背景とは不釣合いな不安の色に満ちている。


 「早く・・・」


 海の彼方へ視線を送りながら、氷川丸が小さく呟く。その声には、焦燥の念が色濃く滲み出ていた。無意識のうちに、手摺を握る手に力がこもる。


 彼女の意思を反映するように、船は白波を蹴り立てて前進する。現在の速力は十六ノット。最高速度に近い速力である。しかし、今の彼女には、これでも遅く感じられた。


 「早く・・・」


 氷川丸の口から、再び掠れた声が漏れる。彼女自身、これが精一杯である事は分かっていたが、そう言わずにはいられなかった。


 氷川丸がここまで急いでいるのには、理由があった。


 ラバウルから戻ってきた「氷川丸」は、呉から横須賀へ回航し、次の任務に備えて整備を行っていた。その最中の二月十七日、トラックが大空襲を受けたという緊急電が飛び込んできた。翌日にも同様の通信が入り、二日間に渡る空襲の結果、トラックは壊滅に等しい被害を受けた事が判明した。


 南方最大の泊地であるトラックが壊滅状態に陥った事実は、海軍全体に強い衝撃を与えた。旗艦「武蔵」以下の連合艦隊主力がトラックを離れていたため難を逃れた事が不幸中の幸いだったが、在泊の輸送船は甚大な被害を被った。そして、その事が氷川丸の心を大きく波立たせていた。


 トラックが敵の攻撃に曝された当日、環礁内には多数の商船が停泊していた。その中に、「氷川丸」の姉妹船である「平安丸」の姿もあったのだ。


 詳しい情報は知らされていないため、「平安丸」の安否は分からない。無事であると信じたいが、どうしても不安な思いは拭えない。さらに、耳に入る空襲の断片的な情報がその思いを増幅させる。横須賀を発って以来、暇さえあれば脳裏をよぎる不吉な想像を、氷川丸は頭を振って打ち消し続けた。


 不安の根源を絶つためにも、「平安丸」の安否を確かめなければならない。一刻も早く妹の無事を確認したいという思いが、氷川丸を急かしていた。


 「お願い、平安丸・・・。どうか、無事でいて・・・」


 彼方の水平線を見つめながら、氷川丸は祈るように呟いた。


     ◆               ◆               ◆


 トラックに着いた氷川丸が目にしたものは、絶望そのものだった。


 環礁内は、陸上海上を問わず、あらゆる物が破壊されていた。特に、第四艦隊司令部や燃料タンク等が置かれる夏島の惨状は酷かった。島の至る所に爆撃による穴が開き、爆弾を落とされなかった場所は無いのではないかと思うほどである。攻撃を受けたのは軍事施設だけに限らず、日本からの移民が暮らす市街地も爆撃によって破壊されていた。


 海上の輸送船も(ことごと)く沈められ、生き残った船はほんの僅かであった。水深の浅い海面からは沈船のマストが墓標のように立ち、浅瀬にはどうにか沈没を回避しようとした船が擱座して横たわっていた。


 環礁外の船も攻撃を受け、多くの犠牲者を出した。トラックからの引揚げ者を乗せて日本へ向かう途中、撃沈された「赤城丸」では五百人以上が命を落とした。


 後に海軍丁事件と名付けられ、俗にトラック大空襲と呼ばれるようになるこの出来事は、悲惨の一言に尽きた。


 来襲した敵機は、両日合わせて五五〇機。空襲の回数は一六回にも及んだ。戦死者は七千四百名を数え、その内の七千名は海上で命を落とした。海上での戦死者が極端に多いのは、撃沈された輸送船の多くが、島の防衛にあたる陸軍兵士を乗船させた状態であったからである。敵の攻撃は島々を囲む環礁の外にいる船にまで及び、その結果、五二隻の艦船と二七〇機の航空機が損害を受けた。この数字は、一度の攻撃で受けた被害としては太平洋戦争を通じて最大の数字である。


 この攻撃で、海軍は軽巡洋艦「那珂」以下十隻の艦艇を失ったが、商船隊の被害はそれに輪をかけて深刻であった。沈没した商船は実に三十隻以上。その中には、一万トンを超える大型船も含まれていた。


 商船の被害がこれ程までに増えた理由の一つには、海軍の主立った艦艇が軒並み退避していた事が挙げられる。


 空襲に先立つ二月四日、二機のB-24がトラック上空を偵察しに現れた。これを攻撃の前触れを考えた連合艦隊司令部は、主力を横須賀、遊撃部隊をパラオへ移動させた。主要な攻撃目標である大型軍艦が揃ってトラックを脱出した結果、残った輸送船に攻撃が集中し、大量の船舶を失う大惨事を生む事になったのだ。


 目の前に広がるあまりの惨状に病院船の乗組員たちも言葉を失うが、まずは任務を果たすべく、患者の収容準備を始める。桟橋は破壊されて使用不能となっているため、沖合に投錨して作業を開始した。


 内火艇のピストン輸送により、島から傷病者が次々と運ばれてくる。看護兵たちがそれを捌く風景には目もくれず、氷川丸は海上に視線を走らせた。


 目を皿のようにして、氷川丸は僅かに生き残った船の中から「平安丸」の姿を探す。空襲前、泊地一杯にいたという船舶は、今や片手の指の数ほどに減少していた。その中に姉妹船の姿があるか確認するのに、そう時間はかからなかった。


 「嘘・・・」


 茫然とした様子で、氷川丸は呟く。舷側の手摺を握る彼女の手が、小刻みに震える。


 「そんな・・・」


 危うくその場に崩れ落ちそうになるのを、氷川丸は辛うじて堪える。だが、絶望に表情を歪ませる彼女の身体からは完全に力が抜けきっていた。


 ――辛うじて死地を逃れた船の中に、「平安丸」の姿は含まれていなかった。


     ◆               ◆               ◆


 日枝丸、平安丸という二人の妹を立て続けに失った氷川丸の悲しみは尋常ではなかった。おぼつかない足取りで自室に戻った氷川丸は、そこに籠もり泣き続けた。


 「氷川丸?」


 心配する雄人が扉越しに呼びかけるが、返事は無い。そっと扉を開くと、ベッドにうつ伏せになり肩を震わせる氷川丸の姿があった。


 「どうして・・・どうして、平安丸まで・・・」


 枕に顔を埋め、氷川丸は嗚咽の混じった声を漏らす。


 「この戦争を生き残って・・・また一緒にシアトル航路に戻ろうって・・・約束、したのに・・・。日枝丸だけじゃなく、平安丸まで・・・。二人がいなくなったら、私・・・」


 「・・・・・・」


 嗚咽する氷川丸の背中を見て、雄人は声をかけるか躊躇する。しかし、意を決して部屋の中に踏み込むと彼女の名を呼んだ。


 「氷川丸」


 雄人の声に、氷川丸は一瞬肩を震わせ、それからゆっくりと顔を上げた。


 「雄人さん・・・」


 泣き腫らした目を向けた氷川丸は、そこで端と気がつき居住まいを改めた。


 「す、すみませんっ。みっともない格好で・・・」


 身体を起こしてベッドの縁に座った氷川丸の隣に、雄人も腰を下ろす。暫し、互いに何も言わない時間が流れた後、氷川丸が口を開いた。


 「私、お姉ちゃんだったのに・・・。それなのに、何もしてあげられなかった。二人を、助けてあげられなかった・・・」


 自らを責める様に、氷川丸は言う。そんな彼女を励まそうと、雄人は言葉をかける。


 「・・・氷川丸。悲しいのは分かるけど、元気を出して」


 だが、氷川丸はゆるゆると首を横に振り答える。


 「雄人さんに、私の気持ちが分かるはずありません。・・・一人っ子のあなたに、姉妹を失った私の気持ちを理解できるはずありません!」


 ヒステリーを起こした様に、氷川丸は叫んだ。


 「どうしてあの子たちは死ななければならなかったの? あの子たちの代わりに私が死ねばよかったのに! ・・・いっそのこと、私も死んであの子たちの所へ行きたい。二人のいない世界なんて生きる意味ないっ!」


 「氷川丸!!」


 「――っ!」


 氷川丸の身体がびくっ、と震える。恐る恐る顔を上げると、そこには険しい表情の雄人がきつくこちらを睨みつけていた。


 「そんな簡単に『死』という言葉を口にしちゃいけない。・・・確かに僕は一人っ子だ。それなりに裕福な家に生まれて、両親や祖父母も健在だ。僕に君の悲しみを推し量る事はできないかも知れない。でもね・・・」


 いつもの穏やかな、ともすれば間が抜けた様にも聞こえる雄人の声。しかし、今の彼の声はそこからは想像もつかない程に鋭く、重かった。


 「今君が言った言葉が、死んだ二人の想いに反しているという事だけは断言できる」


 鋭い眼光を向けながら雄人は言葉を続ける。


 「氷川丸。君は、日枝丸と平安丸が、本当に自分たちの後を追ってくる事を望んでいると思っているのか?」


 「それは・・・」


 「僕はそうは思わない。あの二人は、君に生きて欲しいと思っているはずだ。自分たちが生きられなかった分まで、しっかりと。それなのに、君は彼女たちの後を追うのか?」


 「・・・・・・」


 「それに、君が死んだらこの船に乗っている患者たちはどうなる? 戦いに傷つき、この船に希望を託している彼らは? 自分の背に懸かっている命がどれだけあるか、分かっているのか?」


 氷川丸は、無言。ただ俯いて話を聞いている。


 「それともう一つ」


 雄人の声の調子が、変わった。先ほどまでの険しい声から、いつもの・・・穏やかで優しい声に戻った。その変化に気づいた氷川丸は思わず顔を上げた。そして見た。優しげな微笑を口元に湛える彼の顔を。


 「僕は氷川丸に会えた事を嬉しく思っている。これから先、ずっと一緒にいたい。だから、こんな所で君に死なれるなんて、ごめんだよ」


 「雄人さん・・・」


 「きつい言い方しちゃってごめんね、氷川丸。だけど、僕は君に二人の後を追おうだなんて考えて欲しくない。彼女たちだって、そう思ってるはずだよ」


 雄人の手が氷川丸の頭にのる。雄人はそのまま、氷川丸の頭を優しく撫でた。


 「悲しいんだよね。辛いんだよね。泣いていいよ、氷川丸。思う存分、泣けばいい」


 「雄人・・・さん。わた・・・し・・・」


 雄人の胸に、顔を埋める。氷川丸の白い頬を、雫が伝う。それらは数を増していき、やがて留まるところを知らぬ奔流となった。


 声を上げて泣く氷川丸を、雄人は抱き締める。言葉はいらない。ただそうしてやるだけで今の彼女には十分だった。愛しい人の温もりに包まれながら、氷川丸はひたすら涙を流した。


 その日、泊地に響いた「氷川丸」の汽笛は、まるで亡くなった二人の姉妹を弔うかの様に哀しげだったという。

作者「読者の皆様には、お待たせしました。月一更新を掲げている中、更新が一週間ほど遅れてしまい申し訳ありません」

氷川丸「まったく……ただでさえ更新頻度が多い方ではないのに、これ以上遅くなったら愛想をつかされてしまいますよ?」

作者「返す言葉もありません……」

青葉「まぁまぁ。その辺にしときなよ、氷川丸。作者も反省してるっぽいし」

氷川丸「むぅ……分かったわ。でも、珍しいわね。青葉が作者さんの事を庇うなんて」

青葉「まあね~」

氷川丸「……何だか含みのある物言いね」

青葉「さっき、作者が『もうすぐタイタニック号の事故から百年か。何か書きたいなあ』って言ってたのを聞いたんだよ」

作者「うっ……」

氷川丸「へぇ~。それは楽しみね」

青葉「楽しみだね~」

(二人して作者を見る)

作者「あー、えっと……」

氷川丸「まあ、筆の遅い作者さんの事ですし、実現するかは分かりませんけどね」

青葉「うん。そうだね」

氷川丸「作者さんが無事に投稿できた時は、そちらの方もご覧になって下さい」

青葉「それじゃ、そろそろ終わりにしようか」

氷川丸「そうね」

青葉「この作品を読んでくれている読者のみんなに心からの感謝を。いつもありがとう!」

氷川丸「ご意見、ご感想もお待ちしてます」

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