<第二話>初任務、その途上
見渡す限りの水平線。空と海、二つの青が支配する世界を一隻の船が走っていた。純白の船体には緑色の帯が巻かれ、赤十字の印がその存在を目立たせている。
波を掻き分けて進む「氷川丸」の姿は、遠目には白鳥のようにも見える。広大な海原を鉄の白鳥が優雅に泳いでいく。
その船上で、雄人は手摺に寄りかかりながら海面を眺めていた。蒼い海が白波を立てて砕け、後方に流れていく。・・・と、雄人は大きな欠伸を一つした。
「まったく・・・日が高い内から、なに欠伸なんかしてるんですか」
欠伸をした雄人の背中に声がかかる。雄人が振り返ると、声の主である氷川丸が立っていた。肩から下がった三つ編みが風に揺れる。
「ああ、氷川丸か。おはよう・・・。ふぁ・・・・・・」
雄人は氷川丸に挨拶すると同時にもう一度欠伸をした。それを見た氷川丸は呆れた声で言った。
「おはよう、じゃないですよ。もう昼ですよ?それと、昼間から欠伸だなんてだらしないです」
「そんな事言われても・・・眠いものは眠いんだよ。ほら、『春眠暁を覚えず』って言うし」
「今は十二月です。冬です。春眠ではなくて冬眠です」
「冬眠か。それも良いかも。穴の中で好きなだけ寝ていられる・・・・・・」
「良くありません!なに言っているんですか!」
日中から寝る気満々の雄人を氷川丸が叱る。雄人はその剣幕にたじろぎながらも言葉を返す。
「よく眠れないんだから仕方ないじゃないか。士官と違って僕たちの居住区は船倉なんだから。眠りにくいんだよ」
「そんなもの、すぐに慣れて下さい。雄人さん、貴方も帝国海軍の軍人ならこの程度の事すぐに克服できるはずです」
「やっぱり氷川丸は厳しすぎるよ・・・」
「そんな事ありません。これが普通です」
容赦の無い氷川丸の言葉に雄人が落ち込む。氷川丸は腰に手を当てて「まったく・・・」と溜息をついた。氷川丸と出会ってから、もうすぐ一週間。雄人は事あるごとに氷川丸に叱られていた。
雄人が言う通り、氷川丸は厳しい性格をしている。これには一人の男性の存在が大きく関わっていた。その人物の名は秋吉七郎。「氷川丸」の初代船長である。
秋吉船長の乗務員に対する指導は、マナーに厳しい日本郵船の中でも特に厳しかった。彼の指導はズボンのしわや鉛筆の置き方ひとつにまで及び、その厳しさは「軍艦氷川」と呼ばれるほどであった。しかし、汚れた靴下を履いていた乗務員を叱った時には後でそっと新しい靴下を届けるなど、他人への優しさも併せ持っていた。
その秋吉船長も艦魂が見える一人であり、氷川丸も随分と指導された。厨房の料理を盗み食いした時など「大切なお客様に差し出す料理を盗み食いするなど何事だ!!」と烈火の如く怒られたという。しかし、普段の彼は優しく穏やかな人で、よく氷川丸の相手をしてくれた。氷川丸はそんな彼が大好きだった。今でもその思いは変わらない。秋吉船長は、氷川丸にとってお父さんの様な存在なのだ。
秋吉船長が築いた「軍艦氷川」の空気は船員たちに代々受け継がれ、彼から直接指導を受けた氷川丸も彼の教えをしっかりと守っている。氷川丸の真面目で厳しい性格は、そこからきているのだった。
「雄人さん、今私たちがいるのはどこですか?」
「どこって・・・太平洋だけど」
「どうして、私たちは太平洋にいるんですか?」
「それはもちろん、任務で」
「分かっているならしっかりして下さい」
病院船への改装が終了して二日後の十二月二十三日、「氷川丸」は横須賀を出港して初の任務へと向かった。目的地はマーシャル諸島。ここには開戦劈頭のウェーキ島攻略作戦で負傷した海軍陸戦部隊の将兵が収容されていた。彼らの救護が病院船「氷川丸」の初任務である。
「いいですか、雄人さん。私たちの双肩には人の命がかかっているんです。気を緩めないで下さい」
「気負いすぎるのは良くないと思うけど・・・」
そこまで言った所で、雄人は再び大きな欠伸をした。雄人の瞼は半分閉じていて、いかにも眠そうだ。
「はぁ・・・仕方ないですね」
氷川丸は溜息をつくと雄人の手を掴んだ。
「?」
「・・・だらしないのは駄目ですが、寝不足で倒れてもらっても困ります。だから・・・私の部屋を貸します」
そう言うと氷川丸は自室へと瞬間移動した。
「ここは・・・?」
「私の部屋です」
二人が来たのは一等客室。ふかふかのベッドが二つ並び、模様の描かれた綺麗なシーツがかけられている。部屋には洗面所も備えられている。
「ベッドは二つありますから、好きな方を使ってください」
氷川丸が雄人を促す。雄人は距離が近かった窓側のベッドに倒れこんだ。
「ふかふかだ・・・」
「ここは予備部屋ですから、誰も入って来ません。ゆっくり休んで下さい」
「ありがとう、氷川丸」
「今日は特別です。次からは・・・」
氷川丸の口が止まる。雄人は既に整った寝息を立てて眠っていた。
「・・・本当に眠かったんですね」
氷川丸は雄人の身体に毛布を被せた。穏やかな表情で眠る雄人の頭を撫でながら、氷川丸は微笑んだ。
「お休みなさい、雄人さん」
氷川丸の優しい声が部屋の空気に溶けた。
作者「今回から後書きは対話形式でいきたいと思います。では、改めて紹介します。本作ヒロインの氷川丸です」
氷川丸「皆さん、こんにちは。病院船『氷川丸』艦魂の氷川丸です。よろしくお願いします。・・・ところで作者さん」
作者「何でしょう?」
氷川丸「この後書き・・・対話形式にしたのはいいですけど、この作品って登場人物が少ないですよね。それなのに対話形式にしちゃって、大丈夫なんですか?」
作者「あっ・・・・・・」
氷川丸「もしかして、忘れてたんですか?・・・なにやってるんですか、まったく。しっかりして下さい」
作者「ううっ、厳しい・・・」
氷川丸「・・・まあ、登場人物が少ない中でいかに後書きを盛り上げていくのかも作者さんの腕の見せ所、といった所でしょうか」
作者「頑張ります・・・」
氷川丸「では、読者の皆様に挨拶を」
作者「はい、分かりました。この作品を読んでくれている読者の皆様に心よりお礼申し上げます」
氷川丸「ご意見・ご感想、お待ちしております」
◆登場人物紹介◆
氷川丸
身長:162cm
外見年齢:17歳
姉妹船:日枝丸、平安丸
日本郵船がシアトル航路に投入した12,000トン級貨客船の一番船。戦前は太平洋を146回も横断し、秩父宮ご夫妻やチャールズ・チャップリンなども乗船した。太平洋戦争の開戦により、病院船となる。
性格は真面目で、自分にも他人にも厳しい。典型的な委員長タイプ。一方で、繊細で優しい面もある。髪は長く、三つ編みにして纏めている。
久しぶりに出会った自分を見る事のできる人間、雄人と共に太平洋を駆け巡る。
日高雄人
身長:170cm
年齢:20歳
病院船「氷川丸」に乗り組む事になった青年。看護科に所属し、階級は一等兵曹。性格は温和で優しい。中の上か上の下あたりの、比較的裕福な家庭に育つ。氷川丸曰く、「悪い人ではないけれど、どこか抜けている」。人を傷つける事が嫌いで、看護科を希望した理由もそこにある。
艦魂である氷川丸と出会い、彼女と共にこの戦争を戦い抜く事になる。