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<第二十七話>さらばラバウル

 マーシャル諸島から帰還した「氷川丸」を待っていたのは、ラバウルへの出動命令だった。「日枝丸」を失った悲しみを癒す間も無く、「氷川丸」は再び南へ向かった。


 年が明けてから、ラバウルは激しい敵の攻撃に曝され続けていた。


 ガダルカナル島を巡る戦いを制した米軍は島伝いにソロモン諸島を北上し、各島を奪取していった。昭和十八年二月の時点で、ラバウルはソロモン方面における日本軍の最後の砦だった。


 ラバウルはまた、南方から侵攻してくる敵から、海軍の拠点であるトラックを守る役割も持っていた。ここが敵の手に落ちれば、トラックは重大な脅威に曝される事になる。それを防ぐため、日本は陸海合わせて約十万の兵力をラバウルに集結させた。


 対する連合国軍の南西太平洋方面司令官であるダグラス・マッカーサー大将は、ラバウルを同方面における最大の脅威と認識。同地の基地施設、航空機、艦船を徹底的に破壊し、完全に無力化するよう命じた。その命を受けた連合国軍は、航空兵力によるラバウルへの攻撃を実施。迎撃する日本軍機との間に熾烈な戦闘が発生した。


 ラバウル航空決戦とも呼ばれる一連の戦闘は昭和十八年末から始まり、翌年に入ると戦いは更に激しさを増した。


 連日、数百という敵機が襲来し、爆弾の雨を降らせる。敵の主体は米陸軍機で、これにオーストラリアの英軍機や米機動部隊の艦載機が加わった。迎え撃つ日本軍は、精鋭の名高いラバウル航空隊を筆頭に果敢な防衛戦を行い、同地の制空権を死守していた。


 横須賀を出港した「氷川丸」は途中、トラック島で内地から便乗してきた兵員四百名を降ろし、一月三一日にラバウルに到着した。その前日、哨戒中の米軍機に小型爆弾を投下され、肝を冷やす一幕があったものの、何とか無事に入港する事ができた。


 「氷川丸」が入港する前日も、ラバウルは敵の空襲を受けていた。二波に分けて来襲した敵機の数は三百機に上り、地上には未だ空襲の爪痕が生々しく残っていた。現地部隊からの情報によると、今日も空襲が予想されるため、「氷川丸」はすぐに港外に退避できる位置に停泊した。すると、案の定、六時五十分に警戒警報が発令され、一時間後には空襲警報に改められた。


 「錨を揚げろ! 急げ!」


 サイレンがけたたましく唸る中、石田船長が鋭く命令を発する。錨を揚げ終わるや否や、船長は次の命令を出した。


 「両舷前進微速!」


 テレグラフの針が微速を指し、機関室に船橋の指示を伝える。港内がにわかに慌ただしくなる中、「氷川丸」は空襲を避けるため、港の外に退避する。その三十分後、東の空に芥子粒のような黒点の群が現れた。


 緊急発進を完了した零戦隊が、敵機を迎撃する。それに気づいた敵の直掩機が編隊から分離し、零戦隊の行く手を阻む。たちまち、敵味方が入り乱れる空中戦となった。


 遠くの空で繰り広げられる壮絶な戦いを、氷川丸は固唾を飲んで見守る。乗員には船内退避の命令が出されており、甲板には誰もいない。氷川丸は石田船長や野村病院長と共に、船橋からこの様子を見つめた。


 混戦の中で、何機かが糸のような煙を引いて落ちていく。それが敵か味方かは分からないが、そのたびに失われていく命があるのだと、氷川丸は悲痛な思いに駆られた。


 そのうちに、ズゥゥン・・・という地響きのような低い音が聞こえてくる。反対側の窓を覗くと、島のあちこちから煙が上がっていた。迎撃機の攻撃を掻い潜った敵機が爆弾を投下し始めたのだ。


 陸上では、高角砲が盛んに砲弾を打ち上げ、弾幕を張っている。しかし、時速数百キロの速度で飛行する敵機に砲撃を命中させるのは至難の業だ。大半は敵機の動きに追従しきれず、その後ろで炸裂する。上空からは零戦隊も攻撃を加えるが、敵の爆撃機は頑強で、機銃を撃っても容易には落ちない。更に護衛の戦闘機が攻撃を妨害するため、射点につくのも容易ではなかった。


 爆発や砲撃の音を遠くに聞きながら、氷川丸は濛々と黒煙を噴き上げる陸地を望む。やがて敵機は空の彼方へと去っていき、八時五十分に空襲警報は解除された。


 警報の解除を受けて、「氷川丸」は港内へと戻る。洋上には、撃墜された機体の残骸が所々に漂っていた。細かな断片となった機体からは、敵味方は分からない。生存者はいないかと、海上に目を配ったがその姿は無かった。


 桟橋の沖に船が錨を下ろした頃、陸上では応急作業が進行中だった。まだ各所から煙が上る中、工作兵を中心に、兵員たちが消火作業や瓦礫の処理を行う。特に滑走路の修復は急ピッチで行われ、敵から鹵獲したブルドーザーも使って復旧していた。ラバウルへは何度も訪れているが、このような光景は見た事が無かった。


 そんな中、空襲で新たに負傷した者を含む約五百名の患者が「氷川丸」へと搬送されてくる。それと併行して、現地部隊への医薬品補給も行われる。たちまち、船の上は忙しく動き回る乗組員で一杯となった。


 「急げ! いつまた空襲があるか分からないぞ!」


 一刻も早く患者の収容を終えるべく、看護兵は総出で作業に当たる。重傷者は船倉ハッチからデリックで、軽傷者は背負うなどして直接船内へ運び込む。これまで幾度と無く繰り返してきた作業だが、これほど緊迫した状況下で行うのは初めてだった。軍属の船員たちも全員が配置につき、空襲に備えて見張りを厳にする。しかし、彼らが正規の業務に取り組む裏では別の作業が行われていた。 


 舷梯に接舷した小型艇から患者を船内に運び込む最中。患者を背に担いで病室まで送り届けた雄人は、舷門まで戻る途中で奇妙な光景を目にした。


 白いペンキが特徴的な「氷川丸」の船体。その桟橋に面した側から、太い管が伸びている。管は、陸上の燃料タンクへと続いていた。


 「・・・?」


 船体に繋がっている管は、見たところ給油用のホースのようだった。しかし、燃料は横須賀を出る時に十分な量を積んでいるため、まだまだ余裕がある。給油の必要も無いのにホースが出されている意味を計りかね、雄人が眉を寄せていると、氷川丸が声をかけた。


 「何してるんですか、雄人さん? 仕事中では?」


 「あっ、氷川丸」


 ちょうど良かった、と雄人は上下にうねる給油ホースを指さす。


 「あのホースだけどさ。給油用のだよね。燃料は出発前にたっぷり積んだ筈だけど、足りなくなったの?」


 「わわっ・・・ゆ、雄人さん!」


 雄人の言葉を聞くや否や、氷川丸は色を失い、慌てて彼の口を押さえにかかる。事情を呑み込めぬまま仰天する雄人の口に片手を当てながら、氷川丸は自身の口元に人差し指を立てる。


 「しーっ!」


 「え? なに?」


 「いいから、静かにして下さい!」


 真剣な瞳を向け、氷川丸が言う。彼女の切羽詰まった調子の声に、雄人は思わず黙り込む。


 雄人が黙った事を確認してから、氷川丸は手を離す。そして、人目を気にするように周囲をきょろきょろと見回した後、恐る恐るといった風に口を開いた。


 「・・・あのホースは、船に給油してはいないんです」


 「はい?」


 頓狂な声を上げ、雄人は給油ホースに目をやる。船と燃料タンクを繋ぐホースは上下に波打ち、給油作業が現在実行中である事を示している。


 雄人は氷川丸の顔を見ると、訝しげに問いかけた。


 「じゃあ、あれは何なの?」


 「それは、えっと・・・」


 彼女にしては珍しく、氷川丸は曖昧な口調で言葉を濁す。しかし、雄人がもう一度問い質すと小さな声で答えを口にした。


 「・・・実は、船から現地の部隊に燃料を分けているんです」


 「えっ」


 声を上げかけた雄人を、氷川丸が慌てて制する。


 「大声を出さないで下さい! 万が一、他の人に聞かれたら大変です」


 「でも、軍需品の輸送は禁止行為のはずじゃ・・・」


 雄人が声を潜めて尋ねると、氷川丸は怖ず怖ずと頷いた。


 雄人の指摘は正しかった。病院船の扱いを定めたジュネーブ協定では、病院船は中立の立場を保証される代わりに、如何なる理由があろうと軍事上の目的に使用してはならないとされている。燃料の供給は軍需物資の輸送に該当する、明らかな協定違反であった。


 「断る事はできなかったの?」


 尋ねた直後、彼はそれが愚問だった事に気づく。それができるなら、とうにやっているはずだからだ。


 彼の考えを裏付けるように、氷川丸は首を横に振った。


 「・・・できませんでした。燃料の輸送は、司令部じきじきの要請でしたから」


 氷川丸の答えを聞き、雄人はやはりと思う。しかし、同時にある疑問も感じた。


 「でも、どうして司令部はそんな命令を・・・もしばれたら、ただじゃ済まない事は分かっている筈なのに」


 「・・・たぶん、形振(なりふ)り構っていられる場合じゃないんだと思います」


 目を伏せ、氷川丸は答える。


 「敵の通商破壊によって、日本の補給線は寸断されかけています。ラバウル周辺でもそれは同じです。敵の航空機や潜水艦が活発に活動し、商船の被害が続出しています。こうする他には、物資を運ぶ手段が残されていないんです」


 「だからって・・・」


 納得できない様子で雄人は言う。彼とて、自国の置かれた状況が分からないわけではない。日本のシーレーンは、危機的状況にある。戦前、世界第三位を誇った日の丸商船隊はその多くを失い、著しい船腹不足に喘いでいる。一隻でも多くの商船が必要である事は理解できる。しかし、だからといって氷川丸の身を危険に曝す事は許容できなかった。


 不服そうな表情を浮かべる雄人に、氷川丸は言う。


 「私も、本音を言えば、やりたくはありません。後ろめたい気持ちもありますし、発覚した時の事を考えると恐ろしいです。でも、命令なら従わざるを得ません」


 氷川丸の言葉に雄人は押し黙る。自分たちの意志がどうあれ、命令が出ている以上はそれに従わなければならなかった。


 重くなった空気を払うように、氷川丸は明るい声を出す。


 「大丈夫ですよ。確かに危ない橋を渡る事になりますが、覚悟はできています。それに、雄人さんがいますから。雄人さんが隣にいてくれれば、何があっても大丈夫な気がします」


 氷川丸に微笑を向けられて、雄人はようやく表情を緩めた。


 「まあ、今回はもう燃料を運び終えたので、後は患者さんを乗せて帰るだけですけどね。さ、早く作業に戻って下さい。いつまた空襲があるか分かりませんから」


 背中を押して、氷川丸は雄人を急かす。


 「お仕事が終わったら、部屋に来て下さい。お茶を淹れて待っていますね」


 氷川丸の声に見送られ、雄人は仕事に戻る。司令部の命令に対する腑に落ちない思いが抜けたわけではなかったが、今は目の前の任務が重要だった。


 連日の空襲に見舞われているラバウルでは、負傷者はもちろん、疲労から体調を崩す者も多数いた。熱帯の環境の中で空襲と戦いながら過ごす日々は、心身に大きな負担を与える。疲労によって体の免疫力が低下すると、マラリアなどの疫病にもかかりやすくなる。「氷川丸」には、そうした戦病者も収容された。


 舷梯を踏んで船に乗る患者たちの顔には、過酷な戦地から離れられる安堵が浮かんでいた。しかし、一方で傷病のためとはいえ、戦友を置いて内地に戻る事を申し訳無いとも思っている様子だった。船倉や食堂に畳を敷き詰めた部屋が、彼らの病室として使われた。


 ほとんど休憩も無しに行われた作業の結果、「氷川丸」はその日のうちに全員の患者を収容し、出港する事ができた。幸運な事に、その間、敵機の空襲は無かった。


 ラバウルをあとにした「氷川丸」は、二月九日別府に入港。呉で患者の一部を下ろし、十四日に横須賀へ帰還した。ラバウル入港時の慌ただしい患者収容に加え、ラバウル周辺では航海中も総員配置が命じられていたため、任務を終えた乗組員たちは疲労困憊の(てい)であった。


 今回の航海をもって、開戦以来、船の指揮を執り続けてきた石田忠吉船長は船を下りる事になり、二月十八日、退船した。開戦前の昭和十五年七月から船長を務めた彼は氷川丸にとって馴染みの深い相手であり、他の多くの乗組員にとってもそうであった。


 彼が下船する際には軍属の郵船船員はもちろん、軍医や看護兵も総出で舷側に立ち、船長を見送った。幾多の窮地共に乗り越えてきた船長は、海軍側の乗組員たちからも慕われており、別れに涙を流す者も一人や二人ではなかった。


 ちなみに、この航海は「氷川丸」にとって最後のラバウル航海となった。ラバウルの防備が強固である事を悟った米軍はラバウルを迂回する事を決定。同地を攻略せずに日本本土を目指す方針を固めた。後にトラックが米機動部隊の大空襲を受けて壊滅状態に陥ると、ラバウル所在の航空機は全てトラック島に撤収し、現地の守備隊は敵中で孤立する形になった。その頃になると「氷川丸」も東南アジア方面への出動が優先的になり、遂に終戦までラバウルへ行く機会は訪れなかった。

 青葉「前線に燃料を輸送するなんて、お主もワルよのぉ、氷川丸」

 氷川丸「……仕方無いでしょ。司令部からの命令は断れないし」

 作者「『氷川丸』がタンカー代わりに使われたのは今回限りじゃないよ。ある時は、バリ島の沖合で重巡洋艦の『最上』に洋上給油した事もあったそうで。アメリカの潜水艦が見張っている感じだったから、接舷して担架を往復させて患者を収容しているように見せかけ、御礼に『最上』からマグロを一匹貰ったとのこと」

 青葉「うわぁ……。色々やってるんだねぇ」

 作者「それだけ日本の燃料事情が逼迫していた事の証だろうね。末期にはタンカーもほとんど沈められて、油田はあるのに内地に燃料が届かない状態だったし」

 青葉「そうそう。おかげで私も呉で浮き砲台に……」

 作者「それでも、司令部からの運搬命令は重油だけだったから、他の物資を積むように要請された時は頑として拒んでいるよ」

 青葉「なるほど。重油は命令だから仕方無いけど、それ以外は絶対に協定違反はしないぞ、と」

 作者「念のため言っておくと、日本だけではなく他国でもこのような事例はあり、オランダの病院船も禁制品を積んでいて日本軍に拿捕された例があります。まあ、それでも協定違反は褒められたものではありませんが。……それじゃ、二人ともよろしく」

 青葉「はいはーい。この作品を読んでくれる読者のみんなに心からの感謝を。いつもありがとう!」

 氷川丸「ご意見・ご感想もお待ちしてます」

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