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<第二十六話>悲報

 触雷の危機を乗り越え、二度目の都巡りを無事に終えた「氷川丸」は、十月末日、佐世保に帰港した。現地の海軍病院に患者を転院させた後、横須賀に回航され、そこで本間病院長は船を下りた。後任の病院長には、野村守軍医大佐が就任した。


 次なる任務に赴く前に、「氷川丸」は生まれ故郷の三菱重工横浜船渠で損傷箇所の修理を行った。幸いにして船体の損傷は軽微で、修理は短期間の内に終わった。その間、乗組員は船名の由来となった氷川神社へ参詣し、無事に帰国できた事を感謝すると共に今後の安航を祈願した。


 新たな病院長を迎えた「氷川丸」は、十一月十六日に横須賀を出港。四ヶ月ぶりとなるトラック諸島に向かった。


 白波を蹴立て、「氷川丸」は西太平洋を南下する。整備を終えたばかりの機関は快調そのものだったが、氷川丸の機嫌もそれに負けず好調だった。


 「嬉しそうだね、氷川丸。何か良い事でもあったの?」


 出港以来、頬を緩ませたままの氷川丸に雄人が尋ねる。氷川丸は、喜色の滲む顔を振り向かせて答える。


 「無線で聞いたんですけど、もしかしたら、日枝丸に会えるかも知れません」


 「日枝丸って、氷川丸の妹の?」


 「はい」


 雄人の問いに、氷川丸は頷く。


 「日枝丸」は「氷川丸」の姉妹船で、三姉妹船の中の二番船に当たる。「日枝丸」も他の姉妹船と同様、開戦に先立って海軍に徴用され、特設潜水母艦に改装された。その後、戦局の変化に伴い再び改装され、現在は特設運送船として運用されていた。


 「陸軍の部隊をラバウルに輸送して、今はトラックに帰投中だそうです。運が良ければそこで会えます」


 「日枝丸には、戦争が始まってからまだ会ってないんだよね」


 「はい。だから、早く会いたいです。日枝丸、元気にしてるかな・・・」


 遙か彼方の妹を透かし見るように、氷川丸は水平線を眺める。その横顔は、優しい姉のものだった。


 「姉妹かあ・・・。僕は一人っ子だから、そういうのには少し憧れるな。日枝丸はどんな子なの?」


 尋ねられた氷川丸は、少し考えてから答える。


 「一言で言えば、大人しい子ですね。読書が好きで、いつも何かしらの本を読んでいます。でも、無口ってわけじゃありません。人見知りする事もないですし」


 「平安丸とは、また違う感じの子だね」


 「はい。でも、甘えん坊なのは変わりませんよ。随分と長い間顔を合わせていませんから、会うのが楽しみです。あっ、もちろん雄人さんの事も紹介しますね」


 「よろしく頼むよ」


 氷川丸は数年ぶりの妹との再会、雄人は新たな出会いにそれぞれ胸を躍らせる。だが、彼らを待ち受ける運命はあまりにも過酷なものだった。


◆               ◆               ◆


 翌日。氷川丸の表情は一転して沈鬱なものに変わっていた。


 時刻は日暮れを迎え、もうじき夜が訪れるかという頃合だった。自室に籠もる氷川丸は、泣き腫らした目元を拭いながら今も涙を流し続けていた。


 「どうして・・・どうして・・・」


 ベッドに腰掛ける彼女の足下には、こぼれた雫が作る斑点が幾つもできていた。一つ、二つと、その数は次々に増えていく。それを見守る雄人の表情も曇りきっていた。


 「氷川丸」に緊急の通信が届いたのは、つい先程の事だった。横須賀を発った翌日、順調に航海を続ける「氷川丸」の無線室が一通の電文を受信した。


 電文の内容は、敵潜水艦による味方商船の撃沈被害、及び周辺の船舶に対する警告だった。連合国の潜水艦が跳梁する今日、こうした知らせは頻繁に聞かれるようになっていた。恐らく、これを聞く他の商船は戦々恐々の思いでいる事だろう。潜水艦の襲撃は昼夜を問わず行われる。毎日の一瞬一瞬が緊張の連続である。その中で、病院船だけが安全に航行できている。赤十字の護符が海の狼たちを退けてくれるのだ。


 しかし、今日の電文に限っては「氷川丸」も無関係ではいられなかった。何故なら、そこに記された船の名は、彼女にとって最も縁深いものの一つだったからだ。


 『特設運送船「日枝丸」、トラック島南西三七〇マイルの洋上に於いて被雷沈没』――その簡素な報告は、しかし、如何なる名刀よりも深く氷川丸の胸を抉った。


 血を分けた姉妹の悲報に、氷川丸は文字通り言葉に出来ない程の衝撃を受けた。頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。それから、悲しみが押し寄せた。


 雷撃を受けた時、「日枝丸」は約三千名の陸軍部隊を無事にラバウルへ送り届け、船団を組んでトラックに帰還する途中だった。その最中の午後零時四五分、「日枝丸」に敵潜水艦の放った魚雷が命中した。


 「日枝丸」を襲撃した潜水艦の名は「ドラム」といい、同艦は扇状に四本の魚雷を発射した。このうち、「日枝丸」を捉えたのは一本のみ。しかし、脆弱な商船にはそれだけでも十分に致命傷たり得た。


 破孔から雪崩れ込んだ海水は瞬く間に被雷箇所の第三船倉を満たし、次々と他の区画に浸入した。必死の応急作業の甲斐無く船体の傾斜は刻々と増し、午後五時、遂に総員退船が発令された。


 二九〇名の乗組員は、同じ船団の「名古屋丸」に移乗。午後五時半、「日枝丸」は彼らが見守る中、船首から波間に船体を没していった。折から降り始めたスコールにより、「日枝丸」が沈没した辺りの海面は水飛沫で異様な輝きを放っていたという。


 再会の機会を目前にしての妹の死。つい昨日まで彼女の事を話し、再会を楽しみにしていただけに、氷川丸が受けた衝撃はより大きかった。


 欷歔(ききょ)の声のみが響く部屋で、雄人は立ち尽くす。何か慰めの言葉をかけてあげたいが、不用意な発言は却って心の傷を広げる恐れがあった。悲しみに暮れる氷川丸を前に、雄人はどう言葉をかけるべきか悩んだ。


 「氷川丸・・・元気出して」


 考えあぐねた挙句、月並みな言葉しか思いつかなかった自分を不甲斐なく思いつつ、雄人は声をかける。しかし、氷川丸は力無く頷くだけだった。


 「・・・・・・」


 ここはそっとしておくべきかも知れないと考えた雄人は、部屋を出ようとドアノブに手を掛ける。それを、背中からの声が呼び止めた。


 「・・・雄人さん。これからお仕事ですか?」


 「ううん。当直はさっき終わったばかりだから、消灯まで仕事は無いよ」


 振り返り、雄人は答える。


 「それなら・・・少し、一緒にいて下さい」


 涙で濡れた瞳を向け、氷川丸が言う。


 「今は、一人になりたくないんです。一人でいると、悲しさに押し潰されそうな気がして・・・。傍にいてくれるだけでいいです。一人に、しないで下さい・・・」


 縋るような声の氷川丸に、雄人は彼女の隣に腰を下ろす事で答えに代える。寝台のバネの僅かに軋む音が、静かな室内に響いた。


 氷川丸は雄人の肩に身を預けると、ぽつりと呟くように問いかけた。


 「・・・雄人さん。前に私と青葉が仲違いした時のこと、覚えてますか?」


 「うん。覚えてるよ」


 「・・・私、青葉の気持ちがよく分かりました。あの時の青葉も、今の私と同じ気持ちだったと思います。いえ、もしかすると、それ以上かも知れません」


 訥々と語る氷川丸の声は小さい。この距離でなければ、その他の音に流されてしまいそうな声量だった。


 「身を引き裂かれるような痛み・・・姉妹を失うというのは、こんなにも辛い事だったんですね・・・。戦争が始まると聞いて、もしもの時の覚悟はしたつもりでしたけど・・・まったく、桁違いでした・・・」


 氷川丸の声は徐々に力を失い、代わりに嗚咽が混ざるようになっていった。


 「うっ・・・日枝丸・・・どうして・・・っ」


 再び涙を溢れさせる氷川丸の肩を、雄人はそっと抱き寄せる。それによって堰が切れたように、氷川丸は声を上げて泣き出した。


 頬に幾筋もの線を作って泣く氷川丸を抱き、雄人はその背を繰り返し撫でる。窓の外は既に日が落ち、加えて雨が降り出していた。雨粒が断続的に舷窓を叩く中、雄人は消灯間際まで氷川丸の傍にいてやった。


◆               ◆               ◆


 横須賀を出発した「氷川丸」は、十一月二二日にトラックに到着。同日、現地の司令部には、ギルバート諸島の北方を守るマキン島守備隊が、前日に上陸してきた米軍との戦闘で玉砕したとの知らせが入った。その三日後、同諸島の中心であるタラワ島の守備隊からの通信も途絶した。五月には既にアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しており、米軍の反攻がいよいよ本格的になってきた事を示していた。


 到着早々、友軍の悲報に接した「氷川丸」は泊地で月を跨ぎ、十二月十二日、トラックを出てマーシャル諸島へ向かった。マーシャル諸島には、十月初頭に敵機動部隊の空襲に遭ったウェーク島守備隊の傷病兵が多数いた。彼らの収容が、今回「氷川丸」に課せられた任務だった。


 十二月十五日、クエゼリンに到着した「氷川丸」はルオットやタロアなどの島々を巡り、合計六〇一人の患者を収容した。空襲から二ヶ月が経過し、島の被害は復旧されていたが、重傷者の多い患者たちの姿は、空襲の激しさを如実に物語っていた。


 「日枝丸」の沈没、ギルバート諸島の玉砕と悲報が立て続けて入った事により、船内の空気は湿っぽくなっていた。航行中に亡くなった患者の葬儀では、皆いつもより涙脆かった。それでも、パラオで迎えた年明けは、患者に雑煮を振る舞うなどして賑やかに祝った。


 パラオでも若干の患者を収容した「氷川丸」は、七草の節句の頃に佐世保に到着。そこで半数の患者を降ろし、十一日に横須賀へ帰港した。残った約三百名の患者は横須賀と野比の海軍病院に搬送され、彼らの転院を以て今回の任務は完了した。

氷川丸「日枝丸……ぐすっ……」

青葉「氷川丸……。ごめんね、氷川丸の妹のこと、守ってあげられなくて。トラックなんて、海軍のお膝元なのに」

氷川丸「ううん……。青葉は悪くないんだから、気にしないで」

青葉「でも……」

氷川丸「私は大丈夫だから。ね? 後書きを進めましょ」

青葉「うん……。それにしても、憎き米潜め……よくも氷川丸の妹を……」

作者「その潜水艦『ドラム』だけど……調べたら、撃沈数十五隻、総トン数八万トンで米軍の中で八位のスコアを保持しているらしいよ。太平洋戦争で最初に撃沈された日本の軍艦『瑞穂』も、この艦に撃沈された。現在はアラバマ州のモービル港で博物館として公開中」

青葉「博物館……。氷川丸と同じ、か……」

作者「姉妹船の仇が、自身と同様に博物館として保存されている……奇縁といえば、奇縁かもね」

氷川丸「そんなに湿っぽくならないで下さい。ほら、青葉も。確かに彼女は日枝丸の仇ですけど、私はそれに関して何を言うつもりもありません。戦争が終わってから長いですし、今は友好国なんですから。いつまでも引きずっても仕方ありません。

 それに、私は戦前からアメリカと関わりがありましたから。戦争をしたとはいえ、あの国は好きです。それは、日枝丸や平安丸も同じです。だから、いつまでも恨んだりはしません」

青葉「そっか……。なら、私がとやかく言う必要はないね。それじゃあ、終わりにしよっか」

氷川丸「そうね。……この作品を読んでくれる読者の皆様に、心よりの感謝を申し上げます。ご意見・ご感想もお待ちしてます」

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