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<第二十二話>長官の背中

 ケ号作戦によってガダルカナル島から脱出した傷病兵をサイパン島に移送した「氷川丸」は、再びラバウルへの海路に就いた。ラバウルへの航海は、これで八度目である。


 三月十二日に横浜を出港。トラックを経由し、ラバウルに到着したのは二七日のことだった。ガダルカナルの戦いが終わった後も、傷病兵の数が減ることは一向に無かった。むしろ、ガダルカナルの陥落によって前線がまた一歩ラバウルに近付いたため、負傷者の数は増加してさえいた。


 ラバウルに入港した「氷川丸」を待っていたのは、定員上限一杯の九百名の患者だった。前回同様の大人数に、乗組員は猫の手も借りたいほどの忙しさに追われた。


 収容した患者の中には、八十一号作戦の生存者が多くいた。八十一号作戦とは、ニューギニア島へ陸軍の援軍を送るための輸送作戦である。


 ダガルカナル島からの撤退後、日本軍は主戦場をニューギニアと定め、戦力の増強を画策した。その一環として、第十八軍司令官の安達(あだち)二十三(はたぞう)中将率いる陸軍第五一師団をニューギニア島に派遣する事が決定された。六九〇〇名の兵士と二五〇〇トンの食糧弾薬を七隻の貨物船に分け、船団はラバウルを出港した。


 しかし、この作戦には実行前から危険が認識されていた。ラバウルがあるニューブリテン島とニューギニア島は目と鼻の先であるが、そのニューギニア島には米豪軍の航空兵力が多数展開している。船団を出した場合、それらの迎撃を受ける事は必至であった。実施部隊の第三水雷戦隊は成功率の低さを危惧したが、上層部により作戦は強行された。


 二月二八日にラバウルを出港した船団は、翌日には敵の哨戒機に発見される。船団の航路上にはニューブリテン島とニューギニア島に挟まれたダンピール海峡があった。この狭い海域に差し掛かった時、百三十機もの敵機が輸送船団に襲いかかった。敵の主力は米軍のP-38戦闘機やB-25爆撃機であった。


 上空では零戦が直衛任務に当たっていたが、多数の敵機を相手に焼け石に水であった。海上では九隻の駆逐艦が輸送船を取り囲んで砲火を噴き上げているが、こちらも同じである。逆に、敵戦闘機の機銃掃射によって機銃座の兵員が薙ぎ倒される。護衛の駆逐艦も、自分の身を守ることで精一杯だった。


 この時、連合軍の爆撃機は新しい爆撃方法を使用した。スキッピング・ボム――反跳爆撃と呼ばれる攻撃法である。これは、川原で投げた石を跳ねさせるように、海面に落とした爆弾をバウンドさせ敵艦に当てるというものだ。急降下爆撃のように高い技量を必要としないため、熟練搭乗員でなくとも戦果を得やすいのが特徴だ。


 この新戦術により、輸送船団は参加した七隻すべてが沈没。護衛の駆逐艦も四隻を失い、作戦は大失敗に終わった。因みに、この海戦には幸運艦として名高い駆逐艦「雪風」も参加しているが彼女は無事に生き残り、強運の片鱗を見せつけている。


 傷を負いながらも、厳しい戦いから生還した兵士たちを「氷川丸」の乗員一同は温かく迎える。しかし、白衣に着替えた三水戦の将兵は、護衛の任を果たせず、戦う前にむざむざと友軍の命を失わせてしまった事を、深く悔いている様子だった。


 その日の夕刻、患者を鮨詰めにした「氷川丸」はラバウルを出港した。西の海に日が沈み、東の空が青から藍に変わる頃。黄昏時の空を背に、黄金色の斜光を浴びる花吹山がだんだんと遠ざかっていく様は、思わず溜息を漏らしてしまうほど美しい眺めだった。


 船内満室の「氷川丸」は三月三十日、トラックに到着した。そんな彼女に、思いもよらぬ来客があった。


 四月一日。この日は、朝から晴れだった。日本よりも濃く鮮やかな青空に、澄んだエメラルドグリーンの海。その中に、「氷川丸」は眩しい純白の船体を輝かせる。


 朝直を終えた雄人は、少し遅い朝食を摂った後、食後の運動も兼ねて甲板を散歩していた。隣には、肩に下がる三つ編みを揺らす氷川丸の姿がある。


 青葉との一件の後、氷川丸はしばらくの間塞ぎ込んでいた。その気は無かったとはいえ、自分の不用意な言葉で青葉を傷つけてしまった事を氷川丸は深く悔やみ、責任を感じていた。


 自責の念に囚われる氷川丸に、雄人は下手な言葉はかけなかった。彼女が心情を吐露するのを聴き続け、受け止める。余計な言葉は差し挟まない。相手の心をありのままに受け入れる。それは、簡単なようで非常に難しい。しかし、雄人はそれをやり遂げた。


 常に傍に寄り添い、話を聴いてくれる雄人の存在は、氷川丸の心を楽にした。雄人に話をするなかで心の整理がついた氷川丸は、今では大分落ち着いていた。


 「いい天気ですね」


 身体を伸ばし、氷川丸が言う。


 「こういう日は、デッキチェアーでお昼寝するのが一番です」


 氷川丸は、手近な所に置いてある椅子に腰を下ろす。


 「雄人さんもどうですか?」


 「うん。・・・でも、デッキの椅子は患者用だって、前に言ってなかった?」


 以前、甲板の椅子に寝転がっていた司に氷川丸がタライの山を降らせたのを思い出しながら、雄人が聞く。


 「基本的にはそうですけど、そこは臨機応変に、です。今は甲板に出ている患者さんも少ないから問題ありません。それに―――」


 「それに?」


 「雄人さんは、特別です」


 言って、氷川丸は小さく笑みを浮かべる。茶目っ気のあるその仕草に、雄人も思わず頬を緩める。


 「ありがとう」


 隣に腰掛けた雄人に、氷川丸は艦魂の能力を使って取り出した飲物を手渡す。まだ日は昇りきっていないが、流石は赤道直下、早くも降り注ぐ日差しは強い。今日は暑くなりそうだな、と雄人が思っていると、氷川丸がくすりと笑った。


 「すっかり日焼けしましたね」


 言われて、雄人は自分の腕を見る。半袖の防暑服からのびる彼の腕は、銅色(あかがねいろ)に焼けている。トラックの島民ほどではないが、内地にいた頃と比べると明らかに日焼けしていた。


 「初めて出会った時よりも、ずっと船乗りらしいです」


 「それって、最初はそう見えなかったってこと?」


 「ふふっ。さあ、どうでしょう」


 椰子の葉を茂らす夏島の景色を眺めながら二人は雑談を交わす。と、ブザーの音と共に別の声が二人の会話に割って入った。


 『総員上甲板! 山本長官ご乗船なり! 繰り返す、総員上甲板! 山本長官ご乗船なり!』


 スピーカーを通じ、病院長の号令が船内に響く。そこに登場する名前を聞いた雄人と氷川丸は、弾かれたように立ち上がった。


 「山本長官っ!?」


 スピーカーから流れる声は、紛れもなく連合艦隊司令長官、山本五十六(やまもといろそく)海軍大将の訪問を告げるものだった。当初の第四艦隊から連合艦隊付属に編入されている「氷川丸」にとっては、連合艦隊司令長官である彼は直属にして最上位の上司にあたる。そんな人物の来船は、乗組員を驚かせるには十分過ぎる効果を持っていた。


 長官が乗船する左舷側に、本間病院長以下、全乗組員が整列する。彼らが一様に緊張した面持ちで敬礼を捧げる中、山本長官を乗せた内火艇が到着した。


 器用な操縦で舷門に横付けした内火艇から、一人の人物が降り立つ。その瞬間、氷川丸は息が詰まるほどの緊張を覚えた。


 カツ、カツ、カツ、と舷梯を踏む音が登ってくる。一同が固唾を飲んで待つなか、遂にその人物が「氷川丸」の甲板を踏んだ。


 「お待ちしておりました、山本長官。わざわざお越し頂き、有り難うございます」


 敬礼を捧げたまま、本間病院長が謝辞を述べる。山本五十六連合艦隊司令長官は、小さく頷き、答礼を返した。


 整列する乗組員に答礼を返しながら、山本長官は堂々とした足取りで歩を進める。長官の後ろには、宇垣纏(うがきまとめ)参謀長や黒島亀人(くろしまかめと)先任参謀らが続く。いずれも連合艦隊司令部の中枢に位置する人物である。


 軍刀を左手に携えた山本長官の姿は、威風堂々としていて、まさに連合艦隊司令長官に相応しいものだった。一挙手一投足、眼光の一つに至るまで司令長官の貫禄が滲み出ているようにさえ思える。それだけ、山本長官の姿は力強かった。


 長官の足音が近づく中、列の中程にいる雄人は固い表情で敬礼の姿勢を保っていた。彼の隣では、別の乗組員との間にどうにか入り込んだ氷川丸が窮屈そうに敬礼をしている。他の乗組員は艦魂が見えないため、本来、氷川丸が無理をして列に収まる必要は無い。列から食み出ても問題は無いのだが、彼女自身が雄人の隣がいいと言って譲らなかった経緯がある。


 そんな二人の所へ、山本長官が差し掛かる。その時、驚くべき事が起こった。


 無言で答礼を返していた山本長官は、雄人の前を過ぎ去る時、ふと視線を動かした。その焦点は、雄人と、彼の隣に立つ別の乗組員との間に合わされていた。


 「!」


 長官と目が合い、氷川丸は思わず身体を強ばらせる。そんな彼女の反応を楽しむように、山本長官は日焼けした顔に小さく笑みを浮かべた。


 「・・・っ!」


 二重の驚きに言葉も出ない氷川丸を尻目に、山本長官はそのまま歩み去る。氷川丸は、その背中を驚愕の表情で見送った。


◆               ◆               ◆


 「それにしても、驚きました・・・」


 昼食後。舷側の手摺に身体を預けながら氷川丸は胸をなで下ろした。


 「僕もだよ」


 雄人が相槌を打つ。


 「まるで氷川丸のことが見えてるみたいに、しっかりと目を合わせて・・・山本長官は、艦魂が見えるのかな?」


 「有り得ない話では、ないと思います。艦魂が見える人は限られてますけど、皆無ではないですから。山本長官ほどの人物なら、艦魂を見ることができても不思議ではありません」


 先ほどの情景を思い返し、二人は話す。そこへ、甲板を打つ靴音が聞こえてきた。


 「ここにいたか」


 「・・・っ!!」


 驚いた二人が振り返ると、微笑を浮かべた山本長官の姿があった。


 反射的に敬礼をする二人に「楽にしていい」と言うと、山本長官は氷川丸に視線を向けて尋ねた。


 「君が、この船の艦魂かな?」


 「は、はい。海軍特設病院船『氷川丸』艦魂の、氷川丸です」


 緊張を多分に滲ませた声音で氷川丸が答える。両者のやり取りを目にした雄人が、横から問いかける。


 「やはり、山本長官も艦魂が見えるのですか?」


 「ああ。そういう君も、見えるんだろ」


 「はい」


 肯定して、雄人はまだ自分が官姓名を名乗っていない事に思い至り、慌てて姿勢を正した。


 「申し遅れました! 自分は、日高雄人一等看護兵曹です」


 「日高一曹だな。覚えておこう」


 長官は一つ首肯し、直立姿勢をとる雄人に再び楽にするように言う。


 「今日は傷病兵の見舞いに来たんだが、連合艦隊司令長官として、君たちにも感謝の言葉を伝えようと思ってな。

 俺も、味方が極力被害を受けないよう作戦指導に努めている。だが、どんな作戦でも必ず被害は出てしまう。そんな時、傷ついた将兵を救ってくれる君たちの存在は何よりも重要なものだ。

 確かに、看護科は直接敵と大砲を打ち合うような真似はしない。だが、その任務には前線部隊と同等・・・いや、ともすればそれ以上の重みがある。君たちが治療に全力を尽くしてくれるから、俺は部隊を指揮し、兵たちは安心して戦えるんだ。ありがとう」


 「もったいないお言葉です」


 真っ直ぐ雄人の眼を見据え、山本長官は感謝の言葉を語る。雲上人に等しい相手による直々の労いに、雄人は恐縮すると同時に感激する。


 次に、長官は視線を氷川丸に転じると同様に労いの言葉をかけた。


 「君にも迷惑をかけて悪いな。本当は客船として平和な海を走っていたいだろうに、こんな事に巻き込んでしまって」


 「いいえ。私も日本郵船の艦魂です。日の丸商船隊の一員として、一朝有事の際には、国に尽くす覚悟はできています」


 「そうか。そう言ってもらえると助かる。二人とも、辛いことも多々あるだろうが、どうか職務に励んでくれ」


 「「はい!」」


 声ばかりか、敬礼の動作までぴったりと揃えて答える二人に、山本長官は温かい笑みを向ける。


 「ハ、ハ。二人とも、息がぴったりだな」


 言われて気がつき、雄人と氷川丸は僅かに顔を赤くする。


 「ハハハ。息が合うのはいい事だ。これからも、お互い心を通わせて、仲良くやれよ」


 二人の肩を叩き、長官はその場をあとにする。その背中を見送った後、氷川丸が雄人に話しかける。


 「長官って、思っていたより気さくな方ですね」


 「そうだね」


 「雄人さん」


 「なに、氷川丸?」


 「これからも、よろしくお願いしますね」


 雄人の手をとり、微笑む氷川丸。その手を握り返し、雄人は頷く。


 「こちらこそ、よろしくね」


 手を握り合い、二人はにっこりと笑い合った。


◆               ◆               ◆


 昼食を挟み、午後も病室の訪問を行った山本長官は、ほぼ一日をかけて「氷川丸」の患者を見舞った。長官は病室を一部屋ずつ訪ね、患者一人ずつの顔を見て回った。


 夕刻、山本長官は自らが将旗を掲げる「武蔵」へと戻るべく「氷川丸」をあとにした。乗船時と同様、プロムナードデッキに整列する乗組員の前を横切り、長官は舷門に向かう。


 ところが、長官が船を降りる少し前から急に雲行きが怪しくなりだした。そして、病院長と敬礼を交わし、舷梯に足をかける頃、空は完全な雨模様となっていた。


 「雨、か・・・」


 天を仰ぎながら長官が呟く。土砂降りではないが、風もあり、結構な雨勢である。熱帯特有のスコールでもなく、本降りのようだ。隣に立つ宇垣参謀長が不思議そうに唸る。


 「昼間は晴れておりましたのに・・・どうした事でしょうな。少し待ちますか?」


 「いや。その必要はない」


 宇垣参謀長の提案に首を振ると、山本長官はそのまま舷梯を下り始める。幕僚を後ろに従え下船するその様子を、「氷川丸」の乗組員が敬礼と共に見送る。


 雨が降りしきる中、舷梯を下りる長官の肩に雨粒が叩きつける。その後ろ姿を見つめる氷川丸は、ふと不吉な思いに駆られた。


 水煙に霞む長官の後ろ姿。その背中が、そのまま霞の中に消えてしまいそうな気がしたのだ。どうしてそんな気がしたのかは分からない。ただ、無性に不安な気持ちになった。


 思わず、雄人の服の裾をぎゅっと掴む。それに気づいた雄人が一瞬、怪訝な視線を向けるも、すぐに前を向く。


 やがて、長官を乗せた内火艇が舷梯を離れると整列した乗組員も解散となる。各々が各自の仕事に戻る中、氷川丸も仕事の残る雄人と別れ自室に向かう。


 部屋に戻った後も、先程の不安の正体は分からなかった。もやもやした気持ちを抱いたまま、長官が去って間もなく、船はトラックを出港した。航海中も氷川丸は得体の知れない不安感の正体について考えを巡らせたが、関心は徐々に薄れていき、四月八日、桜が満開の横須賀港に到着する頃には、気に留めなくなっていた。


 そして、横須賀で整備補給を終えた「氷川丸」が再びラバウルに向け出発した四月十八日、山本長官は前線視察中に乗機を米戦闘機に襲撃され、ブーゲンビル島の上空で壮烈な戦死を遂げたのだった。

 作者「ああ、とうとう山本長官が……」

 氷川丸「この小説でも、いよいよ日本の旗色が悪くなってきましたね……。それはさておき、作者さん。山本長官のことで、読者の皆さんに補足しておく事があると思いますけど」

 作者「そうだった。作中では、山本長官の来船は今回が初めてという形で書いていますが、実際は以前にも長官の訪問を受けています。例えば、ミッドウェー海戦の負傷者を柱島で収容した時などです」

 氷川丸「本編では、第十六話の部分ですね。あの時は、南雲長官も山本長官と一緒に来船されてました。山本長官は第二種軍装でしたけど、南雲長官は黒服の第一種軍装でした。『赤城』から退艦する時に、第二種軍装をなくしてしまったそうです」

 作者「他にも、トラック滞在中の山本長官は病院船が入港するたびにお見舞いに行っていたそうです。これは別に義務だったわけではなく、あくまで長官の自由意思だったとのことです。なお、連合艦隊司令長官の病院船訪問は、後任の古賀峯一長官も行っています」

 氷川丸「補足説明は、こんなところですね。そろそろ終わりにしましょうか」

 作者「うん。では、いつもの如く、この作品を読んでくれる読者の皆様に心からの感謝を申し上げます」

 氷川丸「ご意見・ご感想もお待ちしております」

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